【第1話】くだらない存在
視界の端を景色が滑っていく。灰色の住宅街。空気は一か月前までの暑さを失っていて、手に当たる風が薄気味悪いくらい涼しい。ペダルを漕がなくても自転車は下り坂を進む。途中にある病院では紅葉が色づき、煉瓦の床をより赤く染めていた。心動かされることはない。どうせ掃いて捨てられるだけの存在だ。スニーカーが、ローファーが、革靴が葉を踏みつけていく。一枚の葉が擦られて、二つに割れている。
渡ろうとしたところで、踏切が鳴り、黄色と黒のバーが下りた。警告音が鳴っているのに電車はなかなか到着しない。待ちかねた俺は自転車から降りて、スマートフォンを手に取る。開いたSNSでは殺人未遂事件のニュースが、トレンドに上っていた。まるで毎朝浴びるシャワーのように、もう何も感じなくなってしまっている。一瞬恐怖するが、それだけだ。
俺に殺そうとまで執着を抱く人間なんているはずもない。俺は殺されない。喜ばしいことのはずなのに、胸の奥で何かが落ちる音がした。見上げた空には雲一つなく、気象予報士が言っていた「爽やかな秋晴れ」という言葉がそのまま当てはまっていた。
踏切が上がり、車や歩行者が動き出す。ペダルは漕ぎだしの一歩目が一番重い。それに精神的な負担ものしかかる。会社の人間が全員俺より給料が低かったならば、まだ仕事へのやる気も出るというのに。言葉に出せない絵空事を浮かべながら、俺は右足に力を入れる。自転車は鈍重に動き出した。
タイムカードを切って席に着く。机の上のクリアファイルには、今日も何も入っていない。ミスを指摘しても無駄、気に掛ける価値もないと思われているのだろうか。隣席の上野秀嗣が「昨日の欠勤、ありがとうございました」と話しかけてくる。何がありがたいのかも分からず、ただ、プログラムされた愛想笑いを作って返す。脳裏には朝の踏切の音が流れている。
仕事はデータの入力。適当に入力して問題になると面倒なので、一応は正確に入力することを心掛ける。心掛けるふりをする。頭の中では、好きな曲をプレイリスト化してずっと流している。休憩もこまめに取る。
本音では、一人で仕事をしたいのだが、今以上にだらけるのは目に見えている。職場という場は侮れない。右隣にも左隣にも人がいる。人間は、「人の間」と書く。人と人との間でスーツを着ている俺は、辛うじて人間でいられている。
うだつの上がらない働きぶりのまま、一二時になった。一時間の昼休憩。昼食は奥の休憩スペースで取りたい人はそこで、自席で取りたい人は自席で取る決まりになっている。休憩スペースに来る面々は決まっていて、席も目に見えないテープで固定されていた。
俺は今日も休憩スペースに向かう。人類最大の発明である言語を介して、コミュニケーションを取るのが人間だ。人間でいたいという切実なプライドが、俺にはまだ残っていた。
椅子に座ったはいいが、自分から話しかけることはしない。何を話しかけていいか判然としない。俺が興味あるのはサッカーと映画ぐらいで、話をしても特に反応はなく、すぐに別の話に置き換えられてしまう。それに、他人の怒りのツボなんてどこにあるか知れたものではない。俺がが発した一言が相手の逆鱗に触れ、次の瞬間には拳が飛んできている可能性だってあるのだ。
他人は、いつ噛みついてくるかも分からない野犬に似ている。
ただ、テーブルの住民はそんなことを気にも掛けない様子で、世間話に花を咲かせていた。他人への無意識の信頼に、羨ましくて反吐が出る。俺も話に入ろうとはする。しかし、その言葉は適切かということを考え続けているうちに、話題はあっという間にすり替わっている。
毎日、自分はどうしようもなく頭が悪いのだと思い知らされる。話している人たちは火花が伝播するように次々と言葉が浮かんでくるのだろう。健全な人間のあり方だ。俺とは違って。
俺は会話に参加できず、ただただスマートフォンでSNSを見ている。お前らうるせえんだよと心の中で毒づきながら。喋らない俺の方が優れている人間だと、二束三文の言い訳で自分を慰める。それでも、喋れないことを恥じる自分が勝つ。
人の話し声が嫌いで、心臓に負担がかかるから喋らないって、なんだそれ。今までの人生で苦労も我慢も努力もしたことがないから、お前は子供のままなんだよ。我慢する努力をしろ。社会性を培え。他人も自分も否定し、口にしている菓子パンの味だけが、唯一肯定できるものだった。
何も喋ることができず、俺は休憩スペースを後にする。自席に戻ってイヤフォンをつけて、机に突っ伏す。声が聞こえないためには、それなりのボリュームで音楽を流すしかなく、眠ることができない。曲が終わってから次の曲が流れるまでの、空白の時間に耳から脳を刺すようなノイズに何度も苛立つ。中途半端に眠い頭で、イヤフォンを外すとき、心の底から黙れと嘆願する。俺が我慢すればいいだけだから、口にすることはないが。
部屋に帰ると、床に散乱した服が俺を迎えた。縮んだジーンズに、チェックのシャツに、穴の開いた靴下。拾い集めることもなく、炬燵机に向かう。腰を下ろすと、斜めになったテレビに自分の顔が映って、「死ねばいいのに」と呟いた。
帰りに寄ったコンビニエンスストアの袋から、三五〇ミリリットルのビール缶と、柿の種を取り出す。テレビをつけて、自分の姿を消去し、代わりに昨日録画したバラエティ番組を再生する。落とし穴に落ちる芸人を見て、俺は声高に笑う。会社では表出しないような声と笑顔で、手を叩いて笑う。
ビールを体に流し込む。喉が冷たくなった後に、頭が温かくなってきて、安堵を得る。今日の失敗も、髪の毛の先から溶け出していくようだ。落下する柿の種を口で受け止めると、口の中は塩気と少しの辛味で埋め尽くされ、ビールがまた欲しくなる。ビールの刺すような苦みが、日に日に心地よくなっていくのを感じる。
バラエティ番組の大げさな演出に、俺はヤラセだと責める。誰にも届かないのに責め続ける。
番組が終わると、テレビのスイッチは勝手に切れ、また醜い自分の顔が現れた。俺はその肖像に向かって中指を立てる。親指を下にして、首の前で横断させたりもする。テレビの中の俺はキョトンとしていて、殴りたくなる。
逃げるようにテレビから顔を背け、スマートフォンでSNSを開く。フォローしている言語学者が、外交問題について鋭い私見を述べていた。俺はそれをシェアし、しばらくタイムラインを眺める。宙ぶらりんになった自己顕示欲たちが、タイムラインの海を渡っていた。
見上げると白熱灯が、ジーッという音を立てながら瞬いている。電球の中で羽虫が死んでいて、いくつか黒点が見受けられた。柔らかな意思を持った光に照らされると、自分の馬鹿らしさが浮き彫りになる。
毎日会社と部屋の往復。仕事ができるわけでもなく、同僚と良好な関係を築けているわけでもない。帰ってからすることといえば、酒を飲んでテレビを見て、SNSを眺め、コンビニ弁当を食べて、寝る前に自慰をするだけ。幼稚園児のままごとにも劣る生活。無用。無価値。無目的。無いものは有るけれど、有るものは無い。ああくだらない。ひっくり返るほどの低次元だ。俺は、安易に失望する。
コンビニで買った新発売の豚丼は、あまり美味しくなかった。弁当箱と箸を分別することなく、一緒に燃えるゴミの袋に入れる。目につかないように押し入れの中にしまい、ビールの最後の一口を飲み干す。今までは欠けたパーツを埋めてくれていたのに、最後の一口を飲み終えるとまた別のパーツが欠けてしまう。きっと明日も飲んで、生産性のない搾りかすみたいな日々を繰り返していくのだろう。
解放されたくて、俺は窓を開けてベランダに出る。空には灰色の雲がまき散らされていて、星も月も姿を見せない。下を見ると、枝だけになった枯れ木がしゃがれていた。この三階のベランダから飛び降りたら、どうなるだろうかと考える。上手くいって死ぬことができればいいが、失敗したら残るのは苦痛と後遺症だけだ。現状を変える勇気もなければ、死ぬ勇気もない。自分のあまりの臆病さに嫌気が差す。
結局傷つくのが嫌なだけなのだ。傷つくことを避けてきた結果が、この有様だというのに。
黒と灰色の境目が曖昧になった空を見上げる。理由もなく肯定してくれる星の光も月の光もなくて、自分はこの世に不要な存在だと思い知る。無愛想で、特別頭が冴えるわけでも、特殊な才能があるわけでもない俺を誰が必要とするのだろうか。今の俺は、ただの五五キログラムの肉塊だ。
暗澹とした夜は不適切な妄想を駆り立てる。このままでは本当に息絶えてしまう。生きるためには何か別のことを考えなければいけない。少し考えて、コンビニで弁当と一緒に卑猥な漫画雑誌を買ったことを思い出す。今夜はそれで一発抜こう。生きるために命の源泉を無駄にするなんて最低の皮肉だなと、俺は一人でにやつく。窓を閉めた途端に小雨が降りだしてきたのが、ベランダのコンクリートに小さな斑点が現れたことで分かった。
雨音を背に、俺は冷蔵庫の横にある棚へと向かい、二段目の引き出しを開けた。自慰では得られない、生きているという実感のために。
(続く)