【第18話】切れ間のない雨雲
母親が「晩ご飯できたから来なさい」と言っても、俺は行かなかった。廊下から差す光に背を向けた。動き出したいと喚くのに疲れたのか、全身がふと静かになり、気づいたら寝てしまっていた。起きて、スマートフォンを確認する。夜の二時だった。
その眩しさに目を覚まし、俺はよたよたとダイニングへ向かう。寝ている親を起こさないように、恐る恐る扉を開けると、茶碗にご飯が盛られていて、豆腐の味噌汁が椀に注がれていた。メインはイカリングに千切りのキャベツ。大して好きじゃない。そのいずれにもラップがかけられていた。俺は電子レンジで温めないまま、それらを食べた。冷たい米はもちもちとしていても嫌なだけ。味噌汁は味の濃いスポーツドリンクのようで不気味で、イカリングはなかなか噛み切れなかった。それでも、俺は箸を進める。親が「うーん」と寝返りを打ったのにも驚きながら、何とか食べ終えた。というよりは無理やり胃の中に押し込んだ感じだ。
皿を洗面台に持っていく。暗くて足元も見えないと、自分が自分から離れていく感覚がする。もう一人の自分が闇に溶けていくような。俺はひし形のボタンを押して、壁のような食洗機を開けた。そして、手を伸ばす。地に足はついていない。
昨日は雨だった。一昨日も、そのまた前の日も。そして、今日も。傘を差すかどうか判断に迷うようなしとしとと雨が降っている。紺色の雨合羽の中はひどく蒸れ、蒸籠の中にいるようだ。雨を含んだジーンズは重く、ペダルを漕ぐにも普段以上の力がいる。アルバイトだけではなく、往復さえも疲れる日々が続く。
普段以上に疲労が溜まる日々の中で、俺を癒やしてくれるのはクスリと自慰行為しかなかった。アルバイトは水曜日が休みなので火曜日、それと、世間は休んでいるのに俺はアルバイトだという理不尽を紛らわすために、土曜日にやっている。注射器という証拠を残さないようにもっぱら炙りだ。
アルミホイルは深夜こっそりコンビニのごみ箱に捨ててきているし、ライターもティッシュケースの一番下に隠している。クスリは本棚の奥の漫画に挟んであり、ここまでは見られることはないだろう。静脈注射でキメていた頃よりかは、満足度は落ちるが、それも一年間の我慢だ。また、一人暮らしを始めたら、すぐに静脈注射に戻す。今は、アルバイトにも毎日出勤できているし、問題はないだろう。節度を持った付き合いというヤツだ。俺ならできる。
その日は珍しく晴れていた。気象予報士が満面の笑みで「梅雨の晴れ間」だなんて言っていた。アルバイトで怒られることもなかった。いつもうるさく言ってくる間口は、季節の変わり目で、風邪を引いたらしい。行き帰りで信号に引っかかることもなかった。水溜まりに反射する日光が眩しい。一年に一度しかないような吉日だ。
そうだ、クスリをやろう。クスリでさらに上がって、今日という日をより完璧な一日にするのだ。ストックもまだある。自転車を停め、玄関を勢いよく開ける。親の車は両方ともない。部屋へと雪崩れ込み、クスリが入っている漫画を取り出す。ページをパラパラと捲るが、クスリはどこにも入っていなかった。皮膚の下が冷たくなっていく。
俺は、一ページ一ページ確認する。やはり、どこにも入っていない。全ての巻を確認したが、結局クスリは見当たらなかった。ドアの外でトイレを流す音が聞こえる。クスリを探すのに夢中で気付かなかったが、いつの間にかどちらかが帰ってきたらしい。口元がひきつる。たぶん、恐怖を感じた。俺は部屋でスマートフォンを眺める。SNSは、来週の試合の話題で持ちきりだった。
夜八時。事も無げに夕食の時間は訪れる。メニューは茹でた豚肉、もやし、ほうれん草。父親が好きな簡単な料理だ。ポン酢と胡麻ポン酢の二種類のタレが用意されている。俺は胡麻ポン酢を選び、豚肉の上に注いだ。食卓に会話はなく、黙々と食べ続ける。目の前で両親は何やら目配せをしている。
豚肉は固く、反対にもやしは水のようだ。これが最後の晩餐だとしたら、呆気が無さすぎる。
「お前、バイトは大丈夫か」
切り出したのは、やはり父親だった。
「うん、大丈夫、全然平気」
俺は、白米を口に運びながら答える。その後も次々と料理に箸を伸ばし、早く食べ終え、立ち去るように努めた。
「嘘をつくなよ。本当は大丈夫じゃないんだろ」
「なんで、そう思うの?バイトしてるところを見たわけじゃないんだし」
「大丈夫だったら、覚醒剤なんて使わないだろ」
「覚醒剤」なんて強い言葉が出たにもかかわらず、食卓の空気は何も変わらなかった。三人ともが身構えていた。
「ごめん。でも、最後の一回だから。なんか今日気分が良くてさ。最高の状態で後腐れなく終われるかなって」
「そうやってせめて最後は楽しく、ってやると大体失敗するぞ。煙草も覚醒剤も。俺だって、煙草止めるのにどれだけ苦労したか」
「俺と父ちゃんは別でしょ。俺は綺麗さっぱり止められるの。一緒にしないでよ」
「そうか、本当に止められるんだな」
「うん、クスリはもう買わないし、やらない。誓ってもいいよ」
父親は口をつぐむ。目は右下を向いていて、次の言葉に迷っている様子だ。豚肉は最後の一枚。俺はサッと口の中に入れた。
「俺たちは、もうお前を信用できないんだよ。正直言って、絶対またやると思ってる。これから、警察に行こう。俺たちもついていくから」
中途半端に口の中に留まった豚肉が、気持ち悪い。精一杯飲み込む。豚肉も、情けなさも。食器もそのままに席を立とうとしたが、立つことはできなかった。俺はどうして生きているのだろうか。燃えかすよりなんかよりもよっぽど脆い。唯一信用してくれる両親まで悲しませて。生まれ変わったら何になろうか。個体数からいって昆虫だろうか。蟻にでもなって、人間に踏み潰され、脚を捥がれるのだろう。
暖かな感触で、我に返る。母親が俺の右肩に左手を置いていた。三六度の体温が、服の上から伝わる。肩にかかる力がずっと重くなる。両耳で、冷蔵庫が音を立てて動いていることを聞く。両目で、蛇口が銀色に光っていることを見る。明博が歩き出し、俺も続いた。
外に出ると、湿気を纏った風が頬を撫でた。電灯に蛾が集まっている。見上げなければ分からなかったことだ。
(続く)




