【第17話】扉は開きはしたけれど
その日は十連勤のうちの八日目だった。大型連休で、売上は上がる。だが、アルバイトもここぞとばかりに休む。折り返し地点こそ過ぎているものの、ゴールは遠く、単純作業はとうに飽きて何の面白みもなく、終われば休みだからと自らを発奮させるには材料が足りない。疲れも徐々に溜まり、昨日は帰ってすぐ寝てしまった。深夜三時に目が覚め、そこからは一睡もできずに、今を迎えている。眠気で、手を動かすペースも落ちていた。
「ちょっと待てよ」
午前の作業が終わり、休憩室へ向かって歩いていると、後ろから声をした。振り返ると間口がいた。昨日まで三日間、温泉地に行っていた間口が。
「間口さん。どうかしましたか」
間口は俺を睨みつけている。
「お前さ、作業遅くねぇか。俺の半分も進んでないよな」
「はい、すみません」
俺は、謝って場を収めようとする。声は弱弱しく、間口の耳に届いて消える。
「いや、すみませんじゃなくて。謝るぐらいだったらもっと手動かしてくれよ。何、やる気あんの?」
「やる気は、あります」
「じゃあ、もっと速くできるはずだろ。小学生でもお前より量できるぜ。お前、給料もらえれば何でもいいやって思ってんだろ。違うか」
「そんなことはないです」
「俺にはそう見えるけどな。適当にやられるとこっちが腹立つんだよ。あーあ、店長は何でお前なんか採用したかなー。俺が店長だったら、お前なんて雇ってないからな」
配慮などとうに置いてきたと言わんばかりの暴言が、耳に入って出ていかない。頭のより深いところが、ズキズキ痛む。次に口を開いたならば、罵倒する言葉が矢のように出てきそうだ。
俺は、必死に口を結び、間口から離れることに努めた。バックから昼食とスマートフォンだけを手に取り、外に出る。駐車場には車がひしめいていて、入り口では警備員が、ストレスの捌け口にされている。クラクションの音が、連続して聞こえた。
なんとかアルバイトを終えた。勤務先のスーパーマーケットは国道の脇道にあり、帰り道、二つ目の信号ですぐ国道にぶつかる。スクランブル交差点の歩行者用ボタンを押す。信号はなかなか青にならない。家に帰るには、信号を渡って右折しなければならない。だが、気づくと俺は信号に背を向けて、自転車を漕ぎ出していた。時計の針を戻すことができると思っていた。
カーキ色の外壁。オートロックのガラス扉から覗く、オフホワイトの廊下。最後に訪れた三年前と何一つ変わっていない。懐かしさが胸に迫る。俺が自転車を降りたタイミングで、パンプスを履いた女性がドアを開け、それに乗じて屋内に入る。女性はワイヤレスのイヤフォンをしていて、俺には気づいていないようだった。
郵便受けで五〇二号室を確認する。ネームプレートには何も書かれていない。女性は郵便受けも確認せず、エレベーターに消えていく。俺は一分待って、もう一つのエレベーターに乗り込んだ。期待がマーチのように高鳴っていく。
五〇二号室には表札もない。だけれど、隣のそのまた隣の部屋にも表札はなかった。特に気にも留めず、ドアの前に立つと、やはり緊張する。口の中が乾き、息は早くなっていく。
インターフォンを押した。出てくるのは小絵さんだ。屈託のない笑顔で俺を迎え入れてくれて、奥には南渕先輩がやれやれと言った顔で、少しだけ嬉しそうに立っている。俺は何の気兼ねもなく、部屋に入っていく。さあ、楽しい夜をもう一度。
だが、実際には反応がなかった。怪訝に思い、また押してみる。部屋の中からドタドタという音が聞こえた。ドアが開けられる。立っていたのは、南渕先輩とは似ても似つかない、背の低い男だった。髪は無造作に跳ねていて、紺色のジャージはだらけていて、黒縁の眼鏡に掛けられている。奥にはテーブルの上にテキストが置かれているのが見えた。
呆気に取られた俺に、彼が言う。
「あの、どちら様でしょうか」
「ええと、あなたはなんて名前ですか」
「それって言う必要あります?」
彼は、あからさまに不機嫌そうだった。ジャージの袖を掴んで揺らしている。早く帰れというメッセージ。
「あの、こちらに住んでいた南渕さんという人を知ってますか」
「誰ですか、それ」
彼のぶっきらぼうな言葉が、フックのように体に響いた。口をもごもごさせて、次の言葉を探す。彼は今の俺を気持ち悪いと感じているのだろう。「なら、大丈夫です」と言ったきり、俺はドアから離れた。ドアの閉まる音は、緩衝材に吸収されて聞こえないはずなのに、しっかり聞こえた。大丈夫って何が。
エレベータはすぐ開いて、俺は即座に乗り込んだ。彼の「誰ですか、それ」が何度も頭の中でループする。断ち切るハサミはない。
マンションから出ると、すぐにスマートフォンを持った。SNSを開いて、「手押し」と検索する。南渕先輩に教えてもらった命を繋ぐ手段だ。氷の手押しはすぐに見つかった。来週水曜。場所は東京。なんでもよかった。再び、あの快感を味わえるのなら。嫌なことを片時でも忘れられるのなら。俺はそのアカウントをフォローして、ダイレクトメッセージを送った。空はまだ明るい。
ポリ袋のジッパーを開けると、サラサラした粉末が流砂のように、アルミホイルに落ちていく。アトマイザーは二年前に捨ててしまった。小川のせせらぎのようでもあるが、その音は決して俺を癒やすことはなく、鼻息を荒くするばかりだ。両親が帰ってくるまで、あと一時間もない。
だが、俺の頭は妙に落ち着いていた。何の戸惑いもなくライターのスイッチを入れ、炙っている自分がいる。俺の手がクスリのやり方を覚えていた。クスリをしていなかった二年半は元からなかったのかのように、何日も連続で使っていると錯覚する。脳にダイレクトに届き、神経を通って全身に広がっていく快感は、如何ともしがたい。重力から解放されたのかと思う。本当に帰ってきたという実感があった。今までの二年半は、ここではない別の世界にいたのだと確信する。今までの「ただいま」は「ただいま」ではなかったのだ。
丸めたアルミホイルを窓に投げ当てて、ティッシュペーパーを数枚、勢いよく抜き取る。布団の横に雑然と置かれたレジ袋から、卑猥な漫画雑誌を掴む。コンビニで白昼堂々買ったものだ。店員は、平静を装っていたが、応答する声はどこか小さかった。後ろからは軽蔑する視線があった。だが、恥ずかしさは全く感じず、逆に誇らしかった。
ページを捲るごとに、劣情は高まっていき、意識は研ぎ澄まされていく。擦る。擦る。中盤を少し過ぎたあたりから、寄せる波を感じ、俺はティッシュペーパーを押しあてた。その瞬間、堰は切られ、一気に溢れた。脳は強く揺さぶられる。真っ白というよりも、透明に近い感じがする。空っぽではない。むしろこれ以上ないほど満たされている。それが何かは分からないが。
心地よい透明で満たされる俺の脳に不純物が入り込んだのは、汚れた手をティッシュペーパーで拭いているときだった。引き戸が開けられた。俺は慌てて、ティッシュをゴミ箱に入れ、布団の中に潜り込んだ。
うずいている。手が、脚が、全身がうずいている。もっと思う存分動き回りたいと、解放されたいと。俺は必死に抑える。歯を食いしばって、目をつぶってたしなめる。動くな。また刑務所にぶち込まれたくなかったら、じっとしていることだ。理性が涙目で闘っている。外から、「ただいまー、峻いるんでしょー、起きてるー?」と声がする。俺は布団を顔まで被った。ドアの向こうで、テレビが鳴るのが、布団越しにも聞こえた。
(続く)




