【第15話】リアリスティック・リスタート
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所内に植えられた木に、少しずつ葉がつき始めている。地面にはところどころ雪が残っていて、ぬかるんでいた。乾いたアスファルトを、久しぶりのスニーカーで踏みしめる。目の前の道路に車が二台、連なって走っていくのが見えた。振り返ると、薄緑の屋根から雨だれがぽつりぽつりと落ちている。窓の向こうでは、受刑者たちが今日も刑務作業に励んでいるのだろう。雲の切れ間から遠慮がちな太陽が覗く。
俺は駅へと歩き出す。踏切が通ろうとする直前で閉まった。駅前の商店街はシャッターが目立つ。駅舎は三年の時を経た分、鮮やかさを失っていて、階段の点字ブロックの凹凸はすり減っていた。しばらく手にしていなかった財布から一万円札を抜き出して切符を買う。券売機からは九枚の千円札がお釣りとして吐き出された。見慣れた肖像画に世界が変わっていないことを知る。
電車はすぐにやってきた。中は両手で足るほどの乗客しかおらず、楽に座ることができた。スマートフォンの電源を入れ、SNSを開く。しかし、読み込まれることはなかった。俺はスマートフォンをジーンズのポケットに入れて、ただ呆然と車窓を眺めた。家が過ぎたらまたその次の家が来る。その繰り返しに嫌気が差した。
その日は平日で、両親は仕事に出かけていた。といっても定年退職後のパート程度だが。いずれにせよ、迎えに来ることはできないと聞かされていた。電車は地下のホームに停まる。改札口を出て、駅のロータリーでバスを待った。時刻表を見ると、三年前よりも本数が減らされている。俺は駅前のファミリーレストランで、五百円のランチセットを食べながら時間を潰した。
実家の玄関をくぐると、レイアウトから佇まいまで何一つ変わっていなく、俺はようやく一息つく。冷蔵庫を開けて缶コーヒーを飲み干す。練乳が混ざっていて甘ったるかった。空き缶を机の上に置いたままにして、炬燵の電源を入れる。足を入れて、仰向けになりしばらくいると、天井から睡魔が襲ってきた。俺は目をつぶる。不安の輪郭がぼやけ、霞んでいく意識に身を任せた。
ある朝、起床すると家には俺一人しかいなかった。壁掛け時計は十時を指している。俺は起き上がり、台所で冷凍食品と振りかけご飯の朝食を済ませる。ジャージのまま外に出ると、道端にあった雪はもうすっかりなくなっていて、家の前の小さな公園で、子供がブランコを漕いでいた。俺は話しかけることもせず、用水路を渡った先のコンビニエンスストアへと向かう。
コンビニエンスストアでは履歴書を買った。実家に戻った初日の夜、父親に「面倒を見るのは一年だけ。その間でアルバイトをするなりなんなりしてお金を貯めておけ」と言われていたためだ。実際、家にいても選択肢がない。かつて応援していたサッカークラブはカテゴリーを一つ上げていた。観戦に行こうとも思ったが、前に進んでいるチームを見ていると、立ち止まっている自分が残酷に浮かび上がるような思いがして、止めた。
履歴書を机に広げ、シャープペンシルで下書きをしてみる。変わらない生年月日。だが、年齢は進み、二十八歳になっていた。書くことで再び思い知らされる。二十七歳は誰の目に触れられることもなく過ぎて行ってしまったのだ。
箸にも棒にも掛からない学歴を書き終えて、一行空けて職歴。二つの社名を書いた。令和二年一〇月○○会社退社。右下に以上と書く。俺の人生はたった八行に集約されてしまう。最後の日付は令和二年。今は令和四年だ。シャープペンシルはそこで止まる。俺の二年余りは、空白の一行になって、黙っている。スカスカで、空虚で、中身がない。クスリは俺の人生から二年余りをすっぽりと抜き去る、時間の強盗だった。
応募したのは家から三番目に近いスーパーマーケットだった。正面入り口で待っていると、店長らしき初老の男性がやってくる。表情筋が固まっていた。通されたバックヤードは、電気はついているのにどこか薄暗く、緑の塩化ビニールと靴の擦れる音があちらこちらでする。奥の管理室らしき部屋は机に書類が散乱していて、旧型のパソコンにシフト表らしき画面が映っていた。
「座ってください」と言われる前にパイプ椅子に座ってしまったので、店長は露骨に嫌な顔をした。
「弓木峻さんですね。今日はよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします」
言い終わってから頭を下げる。インターネットのマナー記事で、辛うじて得た知識だ。志望動機を聞かれ、俺は履歴書に書いたままの志望動機を、一言一句間違えずに復唱する。長時間の作業への集中力(といっても刑務作業だが。物は言いようだ)に自信があるので、製造スタッフで働きたいと伝えた。店長は下から覗くような視線で俺を見る。明らかに訝しんでいる。
「弓木さん、シフトの希望はありますか」
「はい、いつでも大丈夫です」
「うちはスーパーだから休日や朝の時間帯が忙しいんですけど、勤務することは可能ですか」
「はい、可能です」
時間は売るほどある。店長は背もたれに寄りかかった。かすかに表情が緩むのを見ると、心証は多少良くなったらしい。
「それと、気になったことがあるんですが、この○○会社退社というのは」
「はい、自己都合による退職です。体調を崩してしまったもので」
「じゃあ、この最後に退職してからの二年間は療養していたと」
「はい、そうです」
「二年間も療養が必要な状態だったんですか」
「その……。お恥ずかしい話なんですが、医師から躁うつ病であると言われまして。それで二年間療養していました」
「もう、病気は大丈夫なんですか」
「はい、医師からアルバイトだったらと許可を貰っていますし、体調も現在は良好なので、問題はないかと思います」
空白の二年間については聞かれるだろうと思って答えを準備していた。病気を利用するのは気も引けたが、生きるためなので仕方がない。それに、正直にクスリを使って逮捕されて、二年間刑務所にいましたといったところで、どこにも採用されないのは火を見るより明らかだ。俺だって事業者なら、そんなリスクのある人間は迎え入れたくない。正直に言って損をするなら、嘘をつくしかない。
店長は少し迷った様子を見せた。眉毛が上がっている。
「分かりました。では、ちょっと待ってください」
店長は机の引き出しを開いて、一枚の紙切れを出して、机に置いた。「雇用契約書」と書かれている。
「弓木さん、今日は印鑑は持ってきていますね。この内容をよく読んで、同意したなら、こちらの方に署名と捺印をお願いします」
俺はなるべく表情を変えずに、雇用契約書を読むように務めた。ただ、受け入れられた嬉しさを抑えきれずに、どうしても口角が上がってしまう。これで、また社会の一員になることができる。隔離された感覚が拭えない刑務所の中で、ずっと俺は社会に戻りたいと渇望していた。今度はクスリをやらずに生きてみせる。
俺は力強く印鑑を押した。
(続く)




