【第13話】柵で仕切られた向こう
手袋の中の手が小刻みに震えている。服の隙間から冷風が、私のもとへ侵入してくるみたいだ。室内とはいえ、廊下に暖房は入っておらず、寒さはそのまま残っていた。今日の公判内容を上手くメモに取ることができない。四苦八苦していると、スーツを着た男がドアの鍵を開けた。傍聴人入口と書かれたドアをくぐると、厳正な表情が私の身を包む。空気の流れが止まっているみたいに感じる。それでも、天井から暖房の熱気は降り注いでいた。
木目調の柵で仕切られた向こう。両端に机が二つ置かれている。検察官と弁護人、どちらも同じ紺のネクタイをしていたのが妙に可笑しかった。間では証言台が被告人の登場を待っている。書記官は書類に何やら書き込んでいて、奥の一段高い席には誰も座っていなかった。私は傍聴席の真ん中に座る。硬い。座り心地がいいとは言えない。後ろでドアが開く音が聞こえた。
私はメモ帳を開くと、弁護人席の前に備え付けられたベンチに視線を送った。水色のシャツに青いベストを着た警察官に、今回の被告人が挟まれている。覚せい剤取締法違反及び窃盗。それが被告人にかけられた容疑だった。見る限りでは背が小さく、顔は警察官の方に阻まれて見ることはできない。グレーのスウェットの上からでも分かるほど痩せていて、犯罪に二の足を踏む印象を受ける。
彼を見つめる。突然、手前の警察官が立ち上がり、彼の装着具と手錠を外す。その瞬間に、私は彼と目が合った。小さく、頼りない瞳。しかし、その奥底には黒々としたものが見えた。今にも目から飛び出して襲ってきそうで、私は思わず後ろを向く。見上げると時計は十一時二分を指していた。開廷の時間は過ぎてしまっている。
もう一度前を向くと、彼は警察官の間で俯いていた。少し経って、正面の扉が開いて裁判官が現れた。柵の向こう側にいる全員が自ら立ち上がる。私も少し遅れて立ち上がった。学校の卒業式でも、会社の入社式のようでもある。しばらく経験していないけれど。
裁判官が着席すると、また全員が着席する。椅子を下ろすのに少し手間取ってしまう。裁判官は被告人の氏名や生年月日を確認している。外ではまだ雪が降り続いているのだろうかとふと思った。
*
警察官に連れられて法廷に入った。想像していたよりも明るいというのが、最初に受けた印象だった。無機質な照明に照らされた無表情な部屋を想像していたが、机にも椅子にもちゃんと色彩があって、紛うことなき現実だった。俺はこれから質問の波を受けるだろう。弁護人は俺に何も言わない。
柵の向こうで、扉が開く音がしたらしい。俯いている俺には聞こえなかったが、室内の空気が少し変わったような気はした。視線を感じる。顔を上げて、視線の方向を見ると、そこには女性が座っていた。風貌は二十代後半ぐらいに見える。眉が整っていて、目も大きく、口元に小さな黒子がついていた。ライトブラウンの髪は耳が隠れるくらいまで伸びていて、顔の輪郭が小さく見え、若々しい印象がある。
ただ、その顔をじっと見て確認することはできなかった。俺と目が合うと、見てはいけないものを見てしまったかのように、後ろを振り向く。よれよれのスウェットで、みっともなく座っている現状を、再認識させられた。
部屋の一番奥にある扉が開いて、裁判官が入廷する。警察官に促されて、俺は立ち上がる。背筋はしゃんと伸びてはくれず、積み重ねた二十六年間の人生を疎ましく感じた。裁判官が座ると、目に見える範囲の全員が誰からというわけでも無く座った。長椅子の皮で覆われた表面が硬い。
「これから審理を始めます。被告人は証言台の前へ来てください」
俺は証言台の前に立つ。証言台は一段高くなっていて、段差を上ろうと足を上げたとき、これから俺は裁かれるのだと強く感じた。
「まずは、名前を教えてください」
「弓木峻です」
「続いて、生年月日を教えてください」
「一九九四年六月四日です」
正面を見やると、裁判官や書記官の顔が俺を見定めているようで、思わず俯く。法廷には十人もいない。だが、二十では効かない数の目が、俺を睨みつけているような感覚があった。声は小さくなり、マイクに拾われた声はたどたどしい。
「それでは、これから検察官が起訴状を朗読するので、よく聞いていてください。検察官は起訴状を朗読してください」
検察官は、駅のアナウンスのように淀みなく起訴状を朗読した。調書の内容そのもので、事務的な調子が俺の耳を滑っていく。
「罪名及び罰条。覚せい剤取締法違反、同法第一四条、第一九条。窃盗、刑法第二三五条。及び、併合罪、刑法第四五条。以上の事実につき、ご審理願います」
検察官が着席する。裁判官は、検察官から俺へと目線を戻した。
「先程検察官が読み上げた公訴事実にどこか間違っているところがありますか」
「ありません」
俺は黒く伸びた土筆のようなマイクに答える。
「弁護人、何か意見は」
「被告人と同様です」
裁判官に促され、また長椅子に座る。右側の警察官の顔を見ると、口をすぼめるような仕草をしていた。
「それでは、証拠の説明を行います。検察官は冒頭陳述をお願いします」
「はい。被告人は、平成三〇年四月一六日に、当時勤務していた株式会社○○に入社。業務遂行能力自体は問題なく、月九万円ほどの収入を得て、○○県○○市○○×丁目×―×、ハイツ○○三〇五で一人暮らしを営んでいた。だが、令和元年一〇月二〇日に当時、会社の同僚であった南渕友則から、「これから家に来られるか」と勧誘され……」
検察官が長々と読み上げる陳述は、取り調べで俺が言ったことを基にしている。思い出す。窓もなく薄暗い部屋。取調官の威圧的な態度。既定されたレールの上を走っているかのような感覚。汗で滲む手の平。遠くで、甲何号証がどうの、乙何号証がこうのという言葉が呪文のように聞こえる。弁護人から反論は出てこなかった。
「それでは、被告人質問を行います。被告人は証言台の前へ来てください」
俺は証言台に上がる。処刑台に立ち、ギロチンの刃を見つめる気分。これから俺は断罪されるのだ。
「検察官田口からお尋ねします。あなたは、当時会社の同僚だった南渕友則の貸家で覚醒剤を使用しましたが、そのときに断ろうとは思わなかったのですか」
「まず、家に上がるまでは半ば強引に連れていかれて、とても断れる雰囲気ではありませんでした。とはいえ、実際に覚醒剤の粉末を目にしたときに、使ってはいけないのではないかという戸惑いはありました」
「ですが、あなたは覚醒剤を使用しています。覚せい剤は一度使用しただけでも、逮捕の対象となることを知っていましたか」
「はい、知っていました」
「では、知っていながらなぜ覚醒剤を使用してしまったのでしょうか」
「覚醒剤を使用すれば、彼と共通の話題ができ、親しくなることができると感じたからです。彼は仕事もでき、社内での評価も高かったので、彼の近くにいることで、私自身の価値を周囲に認めてほしいとも考えました」
「その言い方ですと、覚醒剤を使用したのは周囲に承認されるためだと感じられるのですが。あなたは、仕事で成果を残すなど正当な手段で認められようとは思わなかったのですか」
「私は要領がいいわけではなく、仕事のスピードもあまり早い方ではありません。なにより、コミュニケーションが不得手で、人と話し合って業務を行うことを苦手としており、目に見えるような成果を上げることはできませんでした」
「あなたの言い方ですと、コミュニケーション能力の低さに覚醒剤を使用した原因があるように見受けられます。しかし、コミュニケーションは不得手というだけで、決して不可能でないと思われます。コミュニケーション能力を高める取組を行おうとは考えませんでしたか」
「異議あり。検察官の質問は被告人質問の趣旨から外れています」
「弁護人の異議を認めます。検察官は質問を取り下げてください」
検察官は口を結んで、一瞬押し黙ったが、すぐに書類に視線を落とし、質問を再開した。断固として攻める態度を崩さない。俺にできるのは事実を淡々と述べることのみだった。伸びた背筋が縮まっていく。
「弁護人吉川からお尋ねします。あなたは、覚醒剤を初めて目の当たりにした時、どのような印象を抱きましたか」
「この僅かな白い粉末が、人を狂わせてしまうのだと思い、恐ろしくなりました」
「その恐怖を理解していながら、手を出してしまったのはなぜでしょうか」
「同僚との良好な関係を構築したいと思ったためです。しかし、それ以上に一回だけなら依存症にはならないだろうという甘い見通しがありました。ですが、結果はこうして立っている通り惨澹としたものです。自分の思慮不足を深く自省しております」
「留置場に収容されて、自らの行いを振り返る機会があったと思います。そのときに何を思いましたか」
「私は、覚醒剤を使用している最中は、自分しか傷つけていないから構わないと感じていました。しかし、留置場に収容されると、それまでの同僚や家族との繋がりは絶たれます。その際に初めて、周囲に人がいてくれたことの有り難みを痛感し、関わった方々をも傷つけたのだと実感しました。覚せい剤を使用し、良好な関係を得るはずが、却って失ってしまい、自らの過ちを心から悔いています」
拘置所で何度も交わされた質問。寝る前に諳んじて記憶に定着させたやり取り。再放送のように繰り返される場面。だが、だんだんと感情が籠るのが手に取るように分かった。
「あなたは、これからは法を遵守して、二度と罪を犯さないと約束できますか」
「はい、約束します」
声が震えていた。
(続く)




