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【第11話】故郷の空



 スクランブル交差点の信号が青に変わる。電子音で流れてくるのは、耳に覚えのあるメロディ。十五年前にとある映画で演奏され、一躍知名度を上げた曲だ。弾むテンポに足取りも軽くなるようだ。横断歩道を渡っていると、突然、前を歩いていた女が止まる。


 女は手を大きく広げ、頭の上で振ってみせた。踵でリズムを刻みながら、体の動きはだんだん大きくなっていく。つま先立ちで一回転。腰を軸に上半身を捻る。生きる喜びを全身で表現する。女がダンスを続けていると、触発されたように周りの人間が一人、二人と踊り出す。一糸乱れぬ挙動は、絵画を観ているようだ。


 どこからともなく、クラリネットが鳴り出した。フルートの抜けるような高音、チューバの地鳴りにも似た低音、トランペットの華のあるスウィングが続く。グロッケンが彩りを加え、スネアドラムが下支える。アルトサックスのソロが秋晴れの空に響く。交差点は、街は、たちまち音楽の一部となる。


 踊り出す人間は、両手では利かない数になっていた。手を取り合って、近づいては離れ、離れては近づき。ステップも完璧に揃っている。ダンスはますます勢いを増し、ツイストやバック宙も披露された。俺は目の前の光景を飲み込むことが出来ず、一人佇んでいた。


 いや、むしろ、見事なパフォーマンスを無料で観られることができ、僥倖すら感じている。


 演奏が一旦止まり、ダンサーの動きも止まった。ただ一人、初めに踊り始めた女を除いて。女は俺の元へと歩み寄ると、左膝を地面について、右手を差し出した。他のダンサーは早くしろと言わんばかりに、じっと俺のことを見ている。戸惑いながらも俺は左手を出して、女の右手を掴む。その瞬間、演奏は再開された。女は立ち上がる。俺は右手を大きく振り上げた。纏わりつくものを皆、吹き飛ばせんとする勢いで。


 宙に放ったはずの右手に、何かがぶつかった。目を開けると交差点にいたはずなのに、いつの間にか自分の部屋にいる。テーブルの上にはライターとアトマイザーが、置かれたままになっていた。デジタル時計は十二時を少し過ぎている。最後に時計を見たときには二時の少し前だったはずなのに。


 百円ショップで買ったおもちゃのサングラスを掛け、マスクをつける。ドアを開けると、開けっ放しになっていた廊下の窓から風が一筋吹いて俺を揺らした。背中を押してくれるようで心強く、微かな迷いも消える。俺は階段を下った。






 自転車を漕いで、二キロメートル離れた住宅街へと向かう。サングラス越しに入ってくる日差しはまだ夏の暑さを残していて、家々の白い壁に反射して光っていた。平日の昼過ぎということもあり、歩いている人間はほとんどいない。Tシャツ一枚の、軽装の男とすれ違ったが、俺はパーカーとスウェットをグレーで統一している。とにかく記憶に残らないように。自転車の防犯登録番号もガムテープで隠し、指紋がつかないように軍手もしている。存在を隠すのは昔から得意だった。


 曲がり角に差し掛かったとき、前を老齢の女性が横切った。年齢は還暦を過ぎているだろうか。髪に白髪染めの跡が見受けられる。黒のロングベストを羽織っていて、いかにも金を持っていますという風貌だ。黄土色のショルダーバッグは左肩に、つまり道路側にかけられている。さらに、耳にはイヤフォンをしていて、俺の前を通ったときも歌を口ずさんでいた。周囲を気にする様子が全く見られない。


 しかし、俺は動くことが出来なかった。息が荒くなる。だが、前を歩く老婆はどうだ。どうぞ取ってくださいと言わんばかりの格好だ。俺は目いっぱいの力を込めて、自転車を漕ぎ出した。立ち漕ぎで一気にスピードを上げ、老女に近づくと、左手をショルダーバッグの紐にかけて、一気に引き寄せる。老女は右手をブランとぶら下げていたので、ショルダーバッグは呆気ないほど簡単に抜き取ることができた。


 俺は、ショルダーバッグを自転車の籠に入れ、目の前の角を右に曲がる。老婆の追いかけてくる姿は見えない。「誰か捕まえてー」と貧弱な声が聞こえはしたものの、歩いている人間はいない。入り組んだ住宅街で、脚の弱った老婆を撒くことは、寒気がするほど容易かった。いつもは邪魔な向かい風も、不思議と心地よく感じる。クスリをやったときにも似た、舞い上がるような感動だった。


 住宅街から十分ほど、家とは反対側に自転車を漕いだところで、俺はコンビニの裏に自転車を止めた。誰も通りかからないことを確認してから、ショルダーバッグの中から財布を取り出す。牛革の長財布は体験したことのない光沢を持っていた。


 軍手ではペラペラの紙幣は掴み辛かったが、十五人の諭吉が俺の前に姿を出した。興奮を抑えきれずに、だけれど声は出さず、俺は拳を突き上げた。これで、また半月クスリをやることができる。砂漠でオアシスを見つけたような感慨深さ。ショルダーバッグは、近くにあったカゴ台車の後ろに捨てた。



(続く)

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