【第10話】いつだって大事な時は雨なんだ
胃には、十四時間何も入れていない。四時間前にクスリをキメたときは、何も食べなくても向こう三日は平気な気がしたが、幻想だった。喉の渇きがどうしようもなく、コンビニエンスストアで買った一リットルの緑茶は、もう飲み干してしまった。痩せ方は、水太りでは誤魔化せないほどだった。
ベッドのそばには空になったペットボトルとティッシュペーパーが散らばっていた。ティッシュペーパーは広げようとするとパキパキと音がしそうだ。クスリをキメてから三回自慰をした。射出される精子の量に比例するように、徐々にオーガズムを感じなくなっていった。四回目を行う気力はない。だからこうしてベッドに仰向けになっている。
シーツから臭いが立ち昇る。近しいのは皮蛋だろうか。かつて黄身だったものを掬うと、粘性の高い黒い液体が箸から落ちていき、着地した瞬間にまた強烈な臭いが立ち込めるのだ。しばらく嗅覚を働かせていると気づく。自分の至る所からその臭いが昇っていることに。廃棄寸前の生ゴミにも似た気分だった。
どこからともなく声が聞こえてくる。それは頭の中からであり、壁を隔てた向こう側でもあった。声変わり前の子供のようであり、酒でかすれた中高年のようでもある。
「クスリを使っているお前は死ねばいいんだ」
「そのまま目を閉じて、もう二度と開けるな」
「お前が消えた方が、周りは助かるんだぞ」
強い命令口調と、静かに諭すような声色が繰り返される。共通しているのは、弓木峻の死亡を願っているということ。耳を塞いでも、声は止むことはない。思わず体を起こして照明をつけた。息を荒げていても、誰かに聞こえることはない。
とうとう俺も依存症になってしまったのだろうか。いや、違う。本物のジャンキーは毎日やってるが、俺は週に四、五度しかやってない。それに、小学校の掲示板に貼ってあった薬物乱用防止のポスター。そこには、今にも落ちそうなほど目玉が飛び出し、骨の形が見えるほど痩せ細り、鼠色の肌をした薬物依存者がいた。彼は注射器を子供たちに向けて、子供たちは必死にポスターの外へと脱出しようとしている。クスリの怖さを思い知らせるには、刺激が強い方が適しているのだろう。
だったら、今の俺は?
ゆっくりとした足取りでバスルームに向かう。鏡の中の俺は目の下にクマはできていたが、瞳孔は開いておらず、肌も漂白されていない。まだ、俺は依存症ではないと安心する。と同時に、かさつき皮がめくれて唇から言葉が漏れ出た。
「俺、何やってんだろ……」
クスリを始めたときには自分が嫌いだった。今はより憎悪している。クスリから逃れられない自分を。会社に戻ることはもうないだろう。バスルームのドアを開けると、キッチンの蛇口から水が一滴、零れ落ちていた。俺はシンクの下を見つめて一人、躊躇っていた。
外に出ることが出来たのは五日が経った後だった。ベッドからもぞもぞと起き上がり、チェックのシャツを羽織る。窓に叩きつける雨音の大きさはギターを掻き鳴らしたようで、テレビによると、台風が近づいてきているらしい。だが、クスリのストックが無くなってきたので、行く外はない。
駅前の裏通り。今はもう何のテナントも入っていない寂れたビルの下で、待っていた売人からクスリを手に入れる。値段は少しずつ上昇してきていて、足元を見られているのは確実だった。しかし、快楽が頭から離れず、どうしても購入してしまう俺がいた。雨は出かけたときから弱まってきていて、クスリを手に入れたときには、晴れ間さえ覗くようになっていた。水たまりに日差しが跳ね返って、俺を無邪気に照らす。
俺はクスリをバッグに詰め込み、自転車に乗って家へと戻る。表通りに出ると、雨が止んだのを機に、人が外に出てきている。前を行く禿げた男も、その前を行く太った女も、道を行く全員が私服警官のように思えた。今にも手に持ったスマートフォンで通報されるのではないか。せめて顔を見られないようにと、自転車を漕ぐスピードを上げる。
帰る途中にまた雨が降り出す。ぽつぽつなどという段階を経ずに、一気に降り出したその雨は、俺に罰を与えているかのようだった。
合羽の下のシャツもすぐにびしょ濡れになり、ひりつくような寒気がする。すぐに玄関に駆け込もうとした瞬間、俺は駐車場にある車が停まっているのを発見した。ナンバープレートには何千回と見た数字の並び。俺は合羽を脱ぎ捨て、階段を足早に駆け上がっていった。
鍵は開いていた。今までにない勢いでドアを開けると、正面のベッドに両親が腰かけていた。二人とも俺が入ってきたのを見て、目尻を下げて口を結んでいる。
「なんで勝手に入ってくんの?家族だからって連絡もなしに入ってくるのは違うでしょ?プライバシーの侵害だよ!」
俺は声高に二人を怒鳴る。二人は少し黙って互いの顔を見合わせる。口を開いたのは、父親だった。
「お前、仕事休むように言われたんだってな。会社から連絡があったぞ。お子さんの直近の働きぶりは、当社の求める水準に残念ながら達しておりません。本人には一度通院をするよう勧めましたって」
「だから何?別に俺の問題なんだからいいじゃんかよ!」
拳を握り締めて冷蔵庫を叩いた。厚いプラスチックは衝撃をそのまま跳ね返してくる。
「ここ一週間電話をしてもろくに出なかっただろ。もう待っていられなくてな。まあとりあえずはお前の姿を見れてよかったよ。どうだ、元気か?」
「はぁ?何その質問?見て分かんないの?元気だよ!少なくともこうやって怒鳴れるくらいには!」
「そうか、でもお前ちょっと痩せたな。ちゃんと三食食べてるか」
「何が言いたいの?無駄話するなら帰ってよ!安否は確認できたんだからいいでしょ!」
口調は激しさを増す。脳裏にはいくらでも罵倒が浮かび、喉元まで出かかっていた。
「なあ、お前そのバッグ」
「ああこれ。去年買ったの」
「中には何が入ってる?」
「勝手に人ん家上がりこんどいて、今度はバッグの中まで確かめようとする気?どんだけ人のプライベートにズケズケ踏め込めば気が済むの?」
「分かった。じゃあ中を見ることはしない。ただ、何が入っているかちょっとだけ教えてくれ」
「財布と音楽プレイヤー、あとスマホの充電器と手帳だよ」
「お前、メモなんてつける人間だったか」
「うっさいな」
外は雨が降り続いていて、雷も鳴り出している。窓の外が光って二秒後に特大の雷鳴が鳴り響き、俺は少し身を縮めた。が、二人は動じなかった。下を向いて、次の言葉を探している。父親が母親に「おい」と告げた。母親はポーチの中に手を伸ばす。
「これは何だ」
父親が一オクターブ下がった声で俺に言う。きっと今の俺は目が泳いでいるのだろうと思った。口の中は乾き、背中に汗が滲む。
「さ、砂糖だよ。グラニュー糖。最近、料理を始めたから」
「そうか。じゃあ、これは」
父親がポケットから取り出したのはアトマイザーとライターだった。
「お前、煙草吸わないだろ。それに母さんが言うには、こっちは香水を入れるためのものなんだってな。お前、香水つけるような人間じゃないだろ」
「別に煙草は前から吸ってたよ。それに、最近彼女ができてさ、つけといたほうがいいよって言われてるの」
「なぁお前、やってんのか」
「何を」
「そこまで言わなきゃ駄目か?」
「いや。いやいやいやいや。俺はやってないから。やってるのは会社の先輩で、家に置いとくとマズいから、預かっておくように言われてるだけだから」
二人は何も言わない。天井の照明のジーッという音だけが鳴る空間に、俺は耐えられそうもなかった。
「ねぇ。本当にやってないから。信じてよ。息子を疑うの?お願いだから信じて。マジで頼むから。ホントやってないんだってば」
文法も言い回しも支離滅裂。今の俺が言っていることを辞書で引けば「うわ言」と出てくるだろう。とにかく俺は必死で、喚き続けた。
どれくらい経っただろうか。十秒にも感じるし、一時間にも感じる。
「分かった。じゃあ俺たちはもう帰るから」
父親がそう言って立ち上がると、母親も続いて立ち上がり、ドアの方に向かって歩いていった。後ろ姿に黒々しく重い物を俺は見る。
「元気でやれよ。体にだけは気をつけてな」
ドアが閉まって、二つの足音が階段を下っていく。一人残された俺は、力が抜けたように膝から崩れ落ちた。ねぇ信じてよ。俺はやってないんだってば。向ける相手もいないまま、繰り返す。激しく降る雨が、俺のか細い声を打ち消している。
(続く)




