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【第9話】誰かの責める声がする



 SNSを開くと、プロフィール画面で風船が舞っていた。起きて仕事に行って、帰ってたまにクスリをやって寝る毎日にささやかな彩りが加えられたようで、意味はないと知っていても少しだけ嬉しくなる。


 スマートフォンを鞄にしまうと、滝尾が話しかけてきた。朝礼まではまだ五分以上ある。滝尾の話はかいつまんで言うと説教だった。昨日俺が報告した数値が間違っていたらしく、困るんだけど、と詰められた。俺のミスであることは分かっていたが、納得はできない。エンターキーを強く叩く。隣の上野が驚いてこちらを見たが、気にしなかった。


 居所の悪い虫を治めるために、クスリのことを考える。今日は南渕先輩の家に行く日ではない。だけれど、一応は特別な日だ。ファミリーレストランでステーキでも食べて、家に帰ったら炙ろう。そう考えると、苛立ちは期待に置き換わっていき、気分は持ち直される。


 だが、それもそう長くは続かなかった。昼休みに休憩スペースで話す輩の声が、相変わらず鬱陶しい。慌ててイヤフォンをつけて、音楽を流す。曲が終わると数秒ばかりのインターバルがあり、狂おしい雑音がまた入り込んできて、机を叩きたくなる。曲の世界に没入することを妨げる雑音を、俺は本気で憎悪した。音量を上げる。突っ伏したまま、昼休憩は終わっていく。




 電気を点ける。いつものようにジーッという音がうるさい。耳元で蚊が飛び交っているようだ。俺は、テレビを点けた。鞄を床に無造作に置く。スーツを脱いでジャージに着替えてから、クスリが置いてあるベッドの下を覗く。長方形の衣装ケースの一番奥に突っ込んであるクスリとライターに手を伸ばして取り出そうとすると、テレビは七時のニュースを流し始めた。


 トップで扱われていたのは、有名歌手が覚せい剤取締法違反で逮捕されたというニュースだった。数年前から毎日のようにやっていたらしい。俺は週二回しかできないというのに。貧富の差をまざまざと見せつけられた格好だ。インサートで白い粉と注射器の写真が随所に挟まれる。未経験者に恐怖を植え付けるために挿入している写真も、俺みたいに使っている奴からすれば逆効果だ。


 テレビでは街角のインタビューの様子が流されている。ファンはショックですと顔を覆い、仕事帰りらしいサラリーマンは、なんでクスリになんか手を出しちゃったのかねぇと訝しんでいた。そんなことは簡単だ。クスリを売ってくる人がいて、買えるだけの財力があった。需要と供給が一致しただけの話なのに、なぜわざわざ複雑にしようとするのだろうか。


 クスリの入ったポリ袋とライターを取り出して、衣装ケースを再びベッドの下にしまう。コメンテーターは知ったような顔をして、クスリは違法行為だという小学生でもわかる事実を、強い言葉を並べて語っていた。特に彼は人気があるのだから社会的影響を鑑みると、これは許されることではないと言う。実に暴力的な正論だ。


 だが、正直反感しか湧かない。お前はアイツによって傷つけられたのかよ。アイツ自身は誰も傷つけてないだろ。自分を傷つけているだけなんだから、どうしようと本人の勝手だろうが。


 それに社会的影響というのも引っかかる。あのコメンテーターは、一般人を親鳥の後について真似をする雛鳥程度にしか考えていないのではないか。有名人がやったからやる?それがまかり通っていたら日本は今ごろ薬物大国だ。皆やって良いことといけないことぐらいの分別はつく。お前らメディアが両者の分断を、恣意的な報道で深めてんだろ。滔々とどの口が言ってんだ。


 俺はテレビのスイッチを切った。イヤフォンを耳につけると、コードの擦れる音以外は何もしなくなる。俺はいつものようにアトマイザーの蓋を開け、クスリを入れる。サラサラという音が耳に心地いい。下からライターで炙ると、高揚を約束してくれる煙が立ち上り、俺は新しく買ったガラスのストローでそれを吸った。



 会社で怒られたことも、コメンテーターのしたり顔も、全てがどこか彼方へと飛んでいき、頭の中は水風船をぶちまけたような快楽で満杯になる。


 だが、三時間もしないうちに峠を越えて下り坂に突入する。頭は真鍮が含まれたかのように重くなった。トイレをするにも五分とかかる有様だ。俺はだらけんとする手を動かし、辛うじてコンタクトレンズを外してベッドに横になる。自分で自分を傷つけているだけだから別にいいだろ。お前には関係ないくせに。そう呟く。”お前”の具体像もイメージできずに、何度も呟く。


 シーツが灰色に変わっていくのを視界の端で捉える。ひどく落ちぶれた二十六歳の誕生日。新しい朝が来ないことを願った。




 会社には二日に一日遅刻するようになった。いつもの事と特に反応を返す人もいない。残りのもう一日はベッドから起き上がれず、欠勤している。おかげで、先月の給与明細には四万円としか書かれていなかった。クスリを一回買ってしまえばすぐに飛んでしまう。家賃も先月は払っていない。


 ここ最近は月曜と水曜には自分の家で、火曜と金曜には南渕先輩の家でクスリをやっている。クスリを買うのは毎週日曜日。場所は駅前のトイレだったり、人気のない路地だったり、ビルの地下駐車場だったりさまざまだった。売人とは何度も会っているが、未だにサングラスの奥の瞳を見たことはない。


 行く間も帰る間も考えるのはクスリの事ばかりだ。今度はいつクスリを打とうかと。毎週買った後は明日やるのだからと我慢しようとするが、頭の中はクスリが支配していて、誘惑に負けて買ってからすぐやってしまう。背徳感もクスリによって消える。


 近頃は炙るクスリの量が増えてきた。嵩む費用に危険を感じ、ネットショッピングで注射器を買って、静脈注射も以前試してみた。クスリを溶かすと、水は少しドロドロして粘性を持つようになった。溶液を注射器に入れる。深緑色の静脈に狙いを定め、注射針を刺す。二ミリメートルの針先が皮膚に刺さった瞬間、鋭い痛みが腕から全身に行き渡った。少し鳥肌も立っている。


 俺は注射針を、その先にある肌色を凝視する。一回目は失敗し、血だけが流れる結果に終わってしまったが、二回目は上手くいった。アブリと比べると効き始めるのに少し時間がかかったが、もたらされる快楽は何一つ変わることがない。


 量が少なくて済むので、最近は家にいるときは静注でやることが多くなっていた。


 会社で机に向かっている間も、考えることはクスリの事だけ。早く帰ってやりたい、今カフスから伸びている、この手で打ちたいとばかり願っている。夏は終わりに向かっているというのに、冷房の風がどんどん冷たく感じるのは、俺が痩せていっているからだろうか。以前、シャワーを浴びて、鏡に映った自分を見ると、両の脇腹で肋骨が浮き出ていた。


 食べる量が少なくなって、脳が働かないのか、仕事でのミスも増えた。入力する箇所を間違えるのはもちろん、酷いときには書類と入力内容が一つもあっていないこともあった。そのたびに滝尾からは釘を刺され、ストレスを感じ、解消するためにクスリをやりたいと考える。完全なる悪循環だ。このままでは、今の仕事も長くは続かないだろう。退社という結末から、逃げることはできない。




 九月も中盤に差し掛かったある日、俺はもう何度目か覚えていない遅刻をした。昼休憩も終わった頃になってようやく会社に顔を出し、覇気のない挨拶をして、机に向かう。机に腰を下ろそうとすると、佐竹信光が俺の机へと歩いてくるのが見えた。部長の佐竹は、普段俺とはめったに話さない。俺は椅子の背もたれに手をかけたまま、座ろうとしない。佐竹は俺のところまでやってきて、背筋を伸ばして


「弓木君、ちょっといいかな」


 と言った。口調は穏やかだが、厳しい現実が彼の口に充満しているのを感じた。俺は「はい」とだけ言って頷く。俺たちはオフィスの隣の会議室へと向かう。会議室は椅子と長机以外のものは無く、いたって簡素だ。佐竹の「座って」という言葉に促され、腰を下ろす。


「弓木君、最近どう?」


「そうですね……。前までは少し夏バテ気味だったんですけど、最近は調子も少しずつ良くなってきたと思います」


「そうか……」


 佐竹は少し俯いて、首を横に振った。明らかに困惑した顔で、俺を見ている。


「弓木君さ、ここのところ仕事でミス多いよね。どうかしたの?」


「はい、すみません」


「謝るんじゃなくてさ、俺は理由を聞きたいの」


 今度は俺が口を結ぶ。俯いて反省している姿は、大根役者だ。


「滝尾が言うには、いつも上の空で仕事に集中していないように見えるって。一年前はしないようなミスを多発しているんだってね」


 俺は何も言わない。


「正直、困るんだよね。あまり出せていないとはいえ、最低限給料分の働きをしてくれないと。遅刻はする、欠勤はする。仕事に出てきてもミスばかり。そんな人間が自分と同じだけの給料をもらっていたらどう思うかな。部内の士気が下がるんだよね」


 佐竹は続ける。


「それに、弓木君がミスをすると、誰かがそれをカバーしないといけなくなるよね。カバーに一杯一杯で、本筋の仕事が進まなくなるのは分かるよね。言ってないけど、弓木君の課の業績、ここ二ヶ月でだいぶ落ちているから。別に弓木君を責めようとして言っているんじゃないよ。ただ、そういう事態になっているという認識をしてほしいだけ」


 その口ぶりは、課の成績が落ちているのは俺のせいだと言いたげだった。事実、今の俺は、邪魔なお荷物以外の何物でもない。


「それで、滝尾とも相談したんだけど、弓木君には一先ず医者に行ってもらって、診察を受けて、診断書を提出してもらいたいんだよね。別に病名がつかなくても、現状の把握になるし。その間は会社は休みにしておくから。とりあえず、今日はこれで帰ってしばらく休養を取った方がいいと思うよ。いや、取ってください」


 突きつけられた現実は、想像よりも厳しくなかった。いよいよクビかと思っていたら、想定外の甘い処分に拍子抜けしたくらいだ。


「それは、つまり命令ということですか」


 一応確認してみる。


「そう、命令。分からないなら、はっきり言おうか。状態が回復するまでは会社に来ないでください。仮に明日出社してきたとしても、帰らせます。仕事はさせません。今は回復に努めてください」


 佐竹は丁寧に言っていたが、それはつまり拒絶ということで、お荷物を捨ててしまいたいということに他ならなかった。それでも、まだ温厚な方だとも思う。俺は「分かりました」とだけ言って会議室を後にする。出しかけたメモ帳や筆箱、コーヒーのペットボトルを鞄にしまう。ジッパーの閉まる音が、今の俺にはとても由々しく聞こえる。


「お先に失礼します。皆さんありがとうございました」


 反応をしてくれたのは、滝尾と上野だけだった。




(続く)

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