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【プロローグ】たった一人で夜にいる


 

 迷っていた。何がしたいのか。自分には何があるのか。ずっと不安だった。目に見えない恐怖がのしかかり、押し潰されそうだった。


 求めていた。不安から解放してくれる優しさを。心配のない世界に連れて行ってくれるヒーローを。何もかも忘れられて、新しく生まれ変わることのできる瞬間を。


 だから、今日も俺はクスリに手を伸ばす。アルミホイルにクスリを開けて、下からライターで炙る。プラスチックのストローを通って、煙が俺の体を満たす。口の中が生暖かい。煙は細胞に浸透していき、意識に棘が生えた。脳のひだが、意志を持って動き出すかのようだ。


 八時間の仕事を終えた体に、活力が蘇ってくる。疲労は彼方に吹き飛んでいく。思考はどろどろとした蛹だ。だが、クスリによって固められ、やがて蛹を抜け出し、蝶になり羽ばたいていく。俺は、空を自由に飛んでいる。くるりと宙返りをしてみせる。誰も称賛する者はいないから、自分で自分を褒め称えよう。俺は窓に映った自分に向けて、手を開いておどけてみせた。鏡の中の俺は、口を開けて笑っている。


 解放は続く。ベッドに上り、ジャンプをした。布団は何も跳ね返さず、また受け入れることもしない。しかし、俺にはそれで十分だった。俺には手の届かない、一般的な幸福を掴めるという確信が湧いてくる。俺は飛び続けた。木製のベッドは、五五キログラムの妄動にも耐えられるくらい頑丈だった。


 キッチンで鼻歌混じりに皿を洗う。水道水の冷たさも、俺の目を覚ますまでには至らない。踵でリズムを刻みながら、立つ泡にほだされていく。頭では一種のショーが開演していた。宙を舞う空中ブランコ。玉乗りに興じるクラウン。特等席に座る俺は、テント中に聞こえるような大きな拍手を送っている。腰を捻りながら皿を拭くと、湿った布巾の感触が、羊毛のように心地よかった。


 することもなくなり、俺はベッドに入り、目を瞑った。だが、脳が興奮して眠ることはできないし、そもそも眠る気もなかった。俺はクスリがしたくて生きている。この高揚感を味わえるなら、本当に誰にでもできるつまらない仕事の日々も耐えられる。クスリは、まったく俺を解放してくれるパートナーで、人生の指針でもあった。


 冴えた頭で俺は思う。明後日もまたクスリをやろうと。このまま眠って起きたら日付が飛んで、明後日にワープしていればいい。クスリを使っている時間だけが、俺が俺でいられるかけがえのない時間だった。他人が俺を慰めることはない。俺を慰めてくれるのはクスリと、それに伴う自慰行為だけだ。


 そういえば、今日はまだ抜いていなかった。俺は起き上がり、枕元のティッシュ箱から、ティッシュペーパーを五枚抜き取る。ふと目をやると、灰色のジャージに、ありきたりな突起が芽生えていた。欲求が放たれる瞬間を、待望する俺がいた。





 神様、私にお与えください。

 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを、

 変えられるものは変えてゆく勇気を、

 そして二つのものを見分ける賢さを。




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