[第8話]
15世紀後半の”オヤケアカハチの乱”をモチーフにしたシリアス歴史ファンタジー第8話目です。
史実の韻を踏んだうえで、自由に解釈させて頂きました。
あくまでパラレルなサキシマの英雄たちの物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
(完結済・全10話)
※無断転載を禁じます
※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※
第四章-1
青い空に鳥が舞っている。
羽を大きく広げ、太陽の中を舞う鳥をアカハチは眩しそうに見つめていた。
やがて鳥は旋回し、天へ向かって息をいっぱいに吸うように羽ばたき、そして腕に戻ってきた。
「ティーラ……」
赤い鷹が、黄色い瞳をまん丸にして主人を見つめ、頬に頭をこすりつける。
鳥は涙を流さないと言うが、その暖かい体から、深い悲しみが浸み入るように伝わってきた。
「ごめんな。俺たちはここでお別れだ」
滅多に鳴かないティーラが短く鳴き声を上げる。
石塁の城の眼下に、うごく民衆の群れが見えた。その手には、ナリヤ鍛冶の鈍く煌めく武器があった。口々に叫び、拳を振り上げる丘を覆い尽くさんほどの群れ。男、女、老人、それに子供――。
結局は、マツーの言った通りになった。こうなってみれば、あの穏やかなオーハマの日々も夢だったのかもしれない。大漁に喜び、豊作の飯を頬張って笑う人々の顔――それだって、アカハチが作り上げた幻想だったのかもしれなかった。
『だが、お前は代わりに手に入れた。焦がれていた絶対的な力を』
ティーラが怯えたように宙に飛び上がる。
もはやうんざりするほど聞きなれた声に、アカハチは視線も動かさず答えた。
「俺はこんなもの、望んだことはない」
くつくつ、と化鳥の声が笑う。
『そうかな? お前の望みは充分叶ったはずだがな?』
ふわ、とアカハチの頬にやわらかい羽毛が触れた。
人の命を吸って爆ぜるあの不吉な羽ではない。
全身が総毛立つような柔らかく触れるその感触に、アカハチは弾かれたように振り返った。
『正直になればいいのに』
アカハチは凍り付く。
柔らかな輪郭、長い黒髪――それに、まろやかな体の線。
すぐ背後、甘い吐息が掛かるほどの距離でクイツが微笑んでいた。
白くて温かい指がアカハチの頬を撫でる。
『あんたは欲しかったのよ。あんたを抱きしめてくれる誰か。ずっとそばにいてくれる誰かが』
「――来るな!」
力一杯振り払ったクイツが、赤と青の羽になって掻き消える。
だが、続いた甘い震えを帯びた声にアカハチの瞳は引きつる。
『僕は知ってたよ。お前の寂しさ、お前の孤独。それに、お前が周りの皆を殺したいと思ってたこと』
振り返った先には、マツーが笑っていた。その甘美な瞳にアカハチは息を飲む。
『あら兄さま、私だって知ってたわ。
異質であることのさみしさ。目を逸らされ、まるで最初からいなかったみたいに忘れ去られる恐怖――』
再び姿を結んだクイツがマツーと見つめ合う。
『僕だって知ってたよ。誰かに頼られ、求められる快感。群衆の瞳の心地よさ――。
まるで自分が一人じゃないような、錯覚の甘い儚さを』
そっくりな顔の兄妹は互いの指を絡め合い、秘密を交わすように笑い合う。
『ねえアカハチ、』
そう言ってこちらを見るのはクイツなのか、マツーなのか。
寄り添う二つの姿が重なり、溶けて、まるで性別の分からない美しい生き物になる。
皮膚の内側を撫でるような声が響く。
『僕たちには、他に大切なものがあるんだよ。
クイツには赤ちゃんが生まれるし、僕はミャークに行くんだよ。豊見親の所に行くんだよ』
耳の中に、マツーとクイツの涼やかな笑い声が反響する。
『僕たちは行ってしまうよ。お前の手の届かないところに行ってしまうよ』
いつの間にかその姿は二つに分かれ、再びマツーが目の前に立っていた。
顔をこわばらせたアカハチの前で、マツーは夢幻のように微笑む。
その手がふわ、と羽のように上がり、アカハチの首をかき抱いた。
『ねえ、僕を奪ってよ』
首を傾げて、どこか霞んだ瞳のマツーが笑う。
『命を奪ってしまえば、僕はどこへも行かないよ。ずうっとお前と一緒にいるよ』
横から、クイツもアカハチの胴に腕を回す。
柔らかい胸が押し付けられて、アカハチの脳は溶けそうになる。
『そう、それがいいわ。本当は兄さまだってそうして欲しいのよ。兄さまは現世で生きるには純粋すぎるから――』
マツーとクイツが甘い笑みを交わし、頬を寄せ合う。
『そうしようよ。そうすれば僕たち、寂しくないものね』
マツーがアカハチの目を覗きこむ。
黒目勝ちの美しい目。どこまでも優美な顔の輪郭。儚くて、柔らかい美しい青年。
それでも――違う。これは、マツーではなかった。アカハチが知っていた、澄んだ生き物ではなかった。
「……やめろ!」
微笑を浮かべた美しい兄妹が動きを止める。そしてその像は、無数の羽になって散り崩れた。
赤と青の羽が舞う空中を、化鳥の嗤い声が激しく揺らす。
『ちっぽけな人間達! いつの時代もお前たちは面白い!
何故、神の手鎖から逃げようともがくのだ? 何故、神の意思に従って楽にならぬのだ?』
哄笑が響き渡る。
「やめろ……! だまれ……!」
耳を塞いで大地に膝を付いたアカハチはしかし、鮮烈な叫び声に目を見開いた。
宙に羽ばたくティーラが鳴いていた。
高らかに、毅然として。姿の見えない化鳥に挑むように、赤い羽を雄々しく広げて。
「……ティーラ……」
羽音と共に宙を旋回した赤い鷹は、一直線にアカハチの腕に戻ると、再び暖かい体を押し付けてきた。
鳥は言っていた。伝えようとしていた。
「そうだ……」
アカハチは大きな体を屈めて鳥を抱く。暖かい鼓動を、命の脈動を感じながら。
「――自由。俺たちは……どんなに鎖につながれていても、自由だ」
立ち上がったアカハチは、両手で鷹を抱いたまま瞑目した。伝わってくる体温が、生きた羽毛の感触が愛おしかった。
「さあ――お前は飛んで行け。海の向こうの、広い世界まで」
アカハチが腕を空にいっぱいに広げる。
ティーラは何度も頭上を旋回し、最後にアカハチと瞳を交わした。
そしてその姿は、やがて遥か南へと飛び去って行った。
その姿が消えるまで、アカハチは言葉無く空を見つめ続けた。
やがて――終わりを告げるその言葉が響き渡った。
「王府軍が来た! その数三千!」
アカハチは振り返って頷く。
――もう後戻りは、出来ないのだ。
闇に包まれたイシガキの海上に、ぽつり、と炎が燃えた。
炎はさらに一つ、もう一つと燃え上がる。そして海面すれすれに浮かんだ炎の群れは、隊列を組むようにオーハマの湾を目指して進んで行った。君南風の呼んだ、小さな炎の鳳凰達だった。
「将を欠いた我らじゃ。もはや竜も呼べぬ。奇策も、仕方あるまいな……?」
豪華な真紅の衣に包まれた君南風は、掠れた声で呟いた。
「あなたが気に病むことじゃない。シュリの奴らに大きい顔をさせるくらいなら、汚名なんて僕らがいくらでも着るさ」
用緒の声に振り向きもせず、君南風の声が続く。
「儂は……分からなくなった。
儂らが守ろうとしているものは、一体何じゃ?
一つの国……一つの民……。海で結ばれ混じり合う我らに、そもそもそんなものは存在するのか?
儂らは何のために殺し合うのじゃ?」
オゾロに肩を支えられた豊見親が誰に言うともなく呟く。
「その問いに答えられるのは、生き残ったものだけ。
家族、家、国……人は皆、小さな砦を築き、そこに己を繋がずにはいられない。
だから人は戦い、血を流す――。生きて、流された血の理由を語るために」
島で生を受け、海で育まれたもの達が見つめるはるか先に、無数の炎が遠ざかって行った。
爆音と共に火柱が上がった。怒号と悲鳴が響き渡る。
石塁の壁が飛び散り、巨大な岩が群衆に降り注ぐ。
「火薬だ!」
叫ぶコルセの横で、また何人かが爆風に吹き飛ばされた。
見上げた黒い夜空に、無数の炎の鳥が舞っていた。
次々に降下する鳥の翼が触れるたびに、強固な石の壁が吹き飛び、断末魔の悲鳴が上がる。
――内通者。誰かが、あらかじめ火薬を仕込んでいた。予定調和であるかのように、炎が石の城を食い尽くしてゆく。
「畜生……っ!」
思わず呪詛の言葉が漏れた。
アカハチとタケチャはここにはいない。
嵌められた――。コルセはこぼれんばかりに歯噛みをした。
海上から近づく無数の松明の明かりに、一時反乱軍はオーハマの湾に集結したのだ。
だが、罠だった――。
松明と思った明かりはたちまち燃え上がる鳥になって舞い上がり、石塁の丘を目指して降下した。
そして、同時に最悪の報がもたらされた。王府軍は、アラカワとトノシロの二手に分かれて上陸を開始したのである。
混乱の中、反乱軍は総崩れになった。
タケチャとコルセはそれぞれ王府軍を食い止めに軍を引きつれて駆け、コルセ達は炎を消すために残った。
だが、炎だけではなかったのだ。
爆音と逃げ惑う人々の悲鳴の中、暗闇の先に鋭い嘶きが響いた。
噛みつくようなコルセの視線の先、あたりを焼き尽くす赤い炎を背に、白い馬が棒立ちになっていた。
凛々しい声が闇を貫く。
「オヤケアカハチはどこにいる!」
「貴様は……」
コルセの憎悪の瞳の先で、その青年は強い瞳で見つめ返していた。
炎に照らされた、束ねただけの長い髪。白い月のような美しい面差し。
「裏切り者の、長田大主!」
その声に、反乱軍の男たちが殺気に満ちた目で次々に駆けつけた。
「俺達を王府に売ったな! 今更何をしに来た!」
怒号を無視した長田大主は、馬上から毅然と声を放つ。
「おまえたちに用は無い! さあ答えろ、アカハチはどこだ!」
「誰が教えるか! 死ね、腐れ侍!」
罵声と共に斬りかかった男の首が、飛んだ。
弾かれたように見つめる群衆の瞳を、炎に照らされた瞳が見つめ返していた。
「邪魔をするな……」
その声に、コルセは思わずあとじさる。
闇に煌めく瞳と刃。それは、この世のものではなかった。
「ああ、来る……」
闇夜に立ち尽くしたナリヤは、感極まった様子で声を漏らした。
白い手が自らの輪郭を恍惚と撫で、甘い吐息が漏れる。
視線の先に、闇を切り裂くように白い馬が駆けてきていた。
その上で煌めく抜き身の刀。柄を握る白い指。
「素敵だわ、マツーちゃん……」
感極まったナリヤは、やにわに馬の進路に躍り出て立ちふさがった。
驚いた馬がいななき、棒立ちになって立ち止まる。
「どいてください師匠! 邪魔です!」
それでも両手を前に突き出し、呆けたように立ち尽くすナリヤをマツーは軽蔑したように見下した。
「やっぱりあなたが一枚噛んでいたんですね……。
農民達を煽って、何が楽しいんですか⁉ 一体、何が目的なんですか⁉」
厳しい言葉も聞こえない様子でナリヤは馬ににじり寄り、歓喜に震える声で呟いた。
「これを待っていた……。我が先祖が打った神殺しの刀……」
刃に触れようとした震える手が、見えない力に弾かれた。
指先から噴き出た血にも気付かないのか、ナリヤはうわごとのように呟き続けた。
「やっと見られる……神が堕ちる、その瞬間を!」
その目の異様な輝きに、マツーは僅かにたじろぎ、何かを言おうと唇を開く。
だが――そこに割り込んだ幼い声があった。
「なりや……おなりや……どこにいるの?」
暗闇に、ひどく薄い体をした女がさまよい出ていた。
ぼさぼさに乱れた髪に、帯をだらしなく絞めた姿。緩い襟元からは、鎖骨の浮き出た白い肌が覗いていた。
「ひどいわ……私を置いて行かないで。
母様は弟のことで手一杯なの。なりやは私を一番たいせつにしてくれるっていったじゃない……」
幼女のようにあどけない女の真っ白な手が、ナリヤに伸ばされる。
「……姉上――?」
裸足の女はぼんやりとマツーに目を向け、そして弾かれたようにナリヤにしがみついた。
「嫌! まざむんだわ! なりや、なりや!」
腕の中で震える女――マイツをナリヤは豊満な胸に抱きしめた。
「大丈夫よマイツちゃん……。このナリヤがついているわ」
マイツはいやいやをするように首を振り、たどたどしく言いつのる。
「怖い……だってマツーには、」
空洞のような瞳が彷徨う。
「マツーにはまざむんがついているの。たくさん、たくさんよ……」
そうね、そうね、とマイツを抱いたナリヤが頷く。
「ほんとうよ。男の人も、女の人も、ちいさい子も……。
なのに、だれも信じてくれないの。母様は絶対だれにも言うなって……頭がおかしいと思われるからって……」
そうね、そうね、と言い聞かせるナリヤにマイツが言いつのる。
「マツーなんか嫌い……。
母様は言ったの。マツーの方が霊力が高い、私は司に相応しくないって。
だったら、あの子が司になればよかったのよ。私が男の子だったら、私が家を継げたのに。
嫌い、あんな赤毛の鬼とつるんで、私を馬鹿にして……」
俯いて泣きじゃくる女の髪を撫でながら、ナリヤは呟いた。
「かわいそうだこと。母を失い、家を失い……なまじ半端にセジがあったがゆえに、正気まで失ってしまった……」
マツーの固い声が暗闇を震わせる。
「師匠、あなたは……」
ナリヤは赤い唇の端を上げ、マツーを見た。
「やっと気がついたのね、世間知らずのマツーちゃん? 大昔の伝説に人生を狂わされたのはあなただけじゃないのよ。
伝説の三振りの刃の刀鍛冶は、私の先祖――。
笑っちゃうわね。家宝とか言って、あのちっぽけな刀を代々守ってきた」
あの刀――マツーの小刀。
「私は生まれた時から、あれを守って小さなタケトミの島で司をやることを運命づけられていた……。冗談じゃないわ!」
ナリヤは目を見開く。
「神? 託宣? 司になれですって? いい、マツーちゃん? あいつらはね、こっちの人生なんかお構いなしに私に命令するのよ!
神の意思に屈しろ、自分を捨てろですって? 頭はぼんやりするし、吐き気はするし……周りからは腫れもの扱いよ!」
腕の中に抱かれたマイツの白い手が、ナリヤの頬をさする。
「だから、私は逃げてやったのよ。気まぐれな神に尽くすなんてごめんだわ。
代わりに、昔先祖がしていたように、刀を、武器を打ちまくってやろうと思ったの。
人の世界をかき乱す神が地に堕ちるのを、見届けてやろうと思ったの!
人の世に神はいらないのよ!」
叫ぶナリヤは恍惚状態に陥っていた。
傍らで、マイツがなりや、おなりや……となだめている。
「だから、ハテルマでお前を見つけたとき、あの刀を渡した。
アカハチを刺し殺すところを見せてくれると思ったのに……。お前のセジが分かれて刀に移ってしまうなんて予想外だった」
口を開いたまま、言葉のないマツーが馬上から見おろしている。
「しかも、お前はあの刀をアカハチに渡してしまった。お前のセジの大部分――実りの祝福は刀と共にオーハマに移った」
「じゃあ、ハテルマの干ばつは……」
「そうよ。あんな痩せた土地だもの。ナビヤが死んでからは、お前のセジのおかげでやっと暮らせていたのにね。
お前がアカハチに肩入れしたせいで、台無し」
茫然とするマツーにナリヤは畳みかける。
「アカハチがあの嵐の中イシガキ島に流れ着くなんて、出来過ぎていると思わなかったの?
オーハマでアカハチがすんなりと受け入れられたのだって、おかしいと思わなかったの?
全部あの刀――いえ、刀についたセジを通じて、お前がそう願ったせいだわね」
「僕――が」
そうよ、とナリヤは甲高い笑い声を上げ、続けた。
「願えばかなう――危なっかしい力よね。そんな危険な力を持つ人々が、大陸もろとも沈んで良かったんじゃないかしら。
お前に瓜二つのクイツがアカハチの妻をやっているのも、お前がそう願ったからなの?」
「もう……やめてください……。沢山だ」
ナリヤの瞳がマツーを射った。
「これが神世の功罪よ。いたずらに人の世をかき乱し、人は彷徨い、傷つき倒れる。
神の世の残りもの――この落とし前、どうつけてくれるのかしら?」
生暖かい夜風が、頬を撫ぜた。その風は、遠くで燃え上がる反乱軍の砦の火の粉も含んでいたのかもしれなかった。
幾何の沈黙の後――静かな声が闇の中に響いた。
「そんな風に挑発しなくても、僕は分かっています。僕が、何をしなくてはいけないか」
マツーは、ナリヤの腕の中で震える女に目をやり、呟いた。
「姉上……僕は、知らぬ間にあなたを苦しめてきたのですね……」
マイツが顔を背けてナリヤの胸に顔をうずめる。
「その苦しみ、これからは僕が引き受けます」
言葉を切ったマツーは、視線を移す。
「ナリヤ鍛冶……姉上を、頼みます」
薄い肩を震わせ続けるマイツを少しの間見つめてから、マツーは手綱を取った。
「二人とも、お元気で」
やがて、白い馬は暗闇に消えて行った。
その姿が点になるまで、二人の女は固く抱き合いながら見つめ続けた。