[第2話]
15世紀後半の”オヤケアカハチの乱”をモチーフにしたシリアス歴史ファンタジー第2話目です。
史実の韻を踏んだうえで、自由に解釈させて頂きました。
あくまでパラレルなサキシマの英雄たちの物語として楽しんで頂けましたら幸いです。
(完結済・全10話)
※無断転載を禁じます
※本作は[pixiv]様にも重複投稿しています※
第二章 -1-
「――ほう。ヤイマにそんな者が現れたかね」
ちりちりちり。
小鳥の声が幾重にも響くのどかな空気に、ゆったりとした男の声が広がった。
声の主の柔らかな革張りの靴が、庭の黒土を踏みしめる。
二人の男は、南の植物が咲き誇る庭を歩いていた。
広大な敷地に整然と植えられた、椰子や照葉の木々。水をたっぷりとたたえた池には石橋が掛かり、色とりどりの水鳥が放されて水の中をついばんでいる。
だが、ここにいる鳥たちは飛ぶことがない。皆、風切り羽を切られているからだ。
征服した地域から美しい鳥を献上させ、その羽を切って、二度と逃げられない囲いものにする。それがこの庭園の主の趣味だった。
――まったく、良い趣味であることだ――。
仲宗根豊見親はひとりごちた。
豊見親は数か月に及ぶヤイマの「視察」を終え、故国ミャークを経てシュリへ報告へと来ていた。
庭園の主は、豊見親の二歩ほど前を優美な足取りで進む。
ほんの少しなで肩の背に掛かるたっぷりとした長い着物は、柄こそ地味だが最高級の織。結い上げた髪からは高価な香油の香りが漂い、簪の宝石がきらりと光っている。
池の淵で立ち止まると、男は長い裾をさばいてまとめ、緩々としゃがみ込んだ。その姿を見て、池の水鳥達が一斉に集まって来る。
男は、袂に手を入れると掌ほどの紙包みを取り出した。
中身をぱらぱらと池に播く。たちまち、水鳥の群れが水面に浮かぶ餌をわれ先にと奪い合う。
そんな様子を、男の後ろ姿は無言で見守っていた。
その顔には、いつもの底の知れない笑みが浮かんでいるのだろうと豊見親は思う。
後ろ姿の男の視線の先には、焼き菓子のかけらを奪い合う鳥が二羽。ばしゃ、ばしゃと大きな水音を立て、一羽がもう一羽を押しのけ、嘴で突き、水かきの足で蹴り合っている。
やがて一羽が餌をもぎ取り、素早く飲み込む。
水面の餌がなくなると、鳥達はひとしきりガアガア、と不満げに鳴き、やがて男に物欲しげな視線をよこした。
「困ったものだ……。餌は無限にあるわけではないのにね」
小さく呟くと、ようやく男は立ち上がり振り返った。
日焼けのない端正な白い顔に、どこかいつも眠そうな、重い瞼の瞳。豊見親の予想通り、その瞳は今日も真意の測れぬ笑みを含んでいた。
「は……。仰るとおりでございます、御主加那志前」
豊見親は恭しく頭を垂れる。
今、豊見親が相対しているのは繁栄の頂にあるシュリ王府の王、尚真であった。僅か十三歳で即位した少年王は三十台の男の盛りに差しかかろうとしていた。その瞳にはすでに老練の光がある。
数々の策謀と流血を潜り抜けてきた王者がまた一人、ここにいるのであった。
尚真は、おや、と初めて気づいたかのように豊見親の腰の刀に目をやった。
「そういえば、それがわざわざヤイマまで持って行ったという刀かね? 私は刀のことはとんと分からないが、さぞかし良い刀なのだろうねえ」
――猿芝居を臆面もなくやってみせるのだ、この男は――。
豊見親の心の内に、ひんやりとした笑いが浮かぶ。
感じの良い声で、尚真は続ける。
「それで、欲しいものは手に入ったのかな?」
表情を消した豊見親が見上げると、尚真が見つめ返していた。その目は、笑っていなかった。
二人の視線が絡み、火花を散らす。
だが、尚真はすぐに笑顔に戻り、長い袖の手を鷹揚に差し出した。豊見親は刀を鞘ごと帯から抜き、捧げ持って跪く。
尚真は小首をかしげ、そしていつしか吸い寄せられるように刀に手を伸ばしていた。
だが次の瞬間、顔をしかめて手を引っ込めた。その指先に、血が滲んでいた。触れてもいないのに、刀が王の手を弾き飛ばしたのだ。
「ああ、これは失礼を」
豊見親はすまなそうな顔を作って刀を取り戻すと、再び帯に戻した。自分も相当な猿芝居だな、と心の中で嗤いながら。
「私にすら扱いきれぬ妖刀です。ミャークにもヤイマにも、この刀のような獰猛な力が眠っているのかもしれませんな」
尚真が血のにじむ指先を長い袖に隠し、シュリの蛇とミャークの獅子は、冷たい微笑の瞳を絡め合う。
「頼りにしているよ、豊見親玄雅――。
シュリとミャークはもう切り離せない関係だ。そうだね?」
冷笑を含んだ尚真の声に、豊見親は薄く笑って頭を垂れる。
「そうそう。今日は君に会わせたい人がいてね」
先程までの緊迫した様子をころりと忘れたように、尚真は朗らかな声で話題を移した。
王の目くばせで、木陰から小さな人影が現れた。豊見親は内心、驚いた。気配など、全くなかったのだ。
「君南風――。さあ、これが仲宗根豊見親だよ」
君南風と呼ばれたその姿に、豊見親は意表を突かれた。
豊見親のせいぜい腰あたりまでしかない小さな体。
零れ落ちそうな大きな瞳。ぷくり、とした頬。
比類なき霊力を持つと名高いクメ島の神人、君南風が目の前の幼女とはにわかに信じがたかった。
「何をじろじろ見ておるのじゃ?」
幼女が舌足らずな声で発する。
「君南風、あなたがあまりに愛らしいから豊見親はびっくりしているのだよ」
幼女――せいぜい十歳くらい――はふん、と鼻を鳴らす。
「尚真殿。お世辞は結構じゃ。それより、この傷男の子守を儂がするのかえ?」
あっけにとられる豊見親を頭の天辺からつま先までねめつけると、幼女――君南風は不機嫌そうに首をかしげた。
「そう。ぜひあなたにお願いしたいんだ」
君南風はちらりと豊見親の刀に目をやる。
「ふん……。こやつに儂の力など必要ないと思うがの」
尚真は笑うだけだ。
監視役というわけか、と豊見親は内心呟く。だが、幼い外見に騙されるほど豊見親は愚かではない。
「さあ、これで万全だ。ヤイマの鳥も、早くこの庭に加えたいものだね」
尚真が朗らかな声で言い、ガアガア、と羽を切られた鳥たちが騒ぎ立てた。
まるで、自由を求めて泣き叫ぶように。
柔らかな風が、うららかに照る陽の光の中で吹いていた。
今宵は新月。月のうち二度ある潮が大きく引く日である。
この日にはとりわけ大きく潮が引き、海岸沿いの一帯は広大な干潟になる。この時を心待ちにしていた村人たちは、朗らかな顔で貝や海草採りに夢中になっていた。
干潟に背を丸めて貝を採る村人達の中に、ひときわ大きな姿がある。頭にかぶった日よけの手ぬぐいから、明るい色の髪がはみ出していた。
「おーい。こっちの方にも沢山いるよ」
村の女の親しげな声に、大きな姿はのっそりと背を起こした。
そのまま声の方向に泥の中を歩き……そして足を滑らせ、ひっくり返る。ぼちゃん、と泥の干潟に尻もちをついた大きな姿に、村の女たちから笑い声が上がった。だが、その声は大らかで優しい。
ここはオーハマの村。
アカハチがハテルマ島を出て、すでに数年の月日が経っていた。
アカハチは、この新天地でようやく人の温かさを知ったのだった。
「まったく、そそっかしいんだから」
泥をかき分ける音と共に、鈴を転がすような笑い声が近づいてきた。アカハチの鼻の頭についた泥を拭ったのは、クイツの白い指だ。
瞳を絡ませ二人は笑い合う。
アカハチとクイツは、この村で若い夫婦になっていた。
まさか自分とクイツが夫婦になるなど、島を出るときは思ってもみなかった、とアカハチはしみじみ思う。
あれから、色々なことがあった。
だが、思い返してみれば、このクイツがいなければ島を出ることさえ叶わなかったのだと思うと、なんとも不思議な気持ちになる。
あの日――アカハチがミャークの豊見親の船を奪って出奔した夜まで時は遡る。
豊見親を殴ったかどで追われる身となったアカハチは、闇夜に紛れてハテルマの港に駆けつけた。
幸い、船には誰も残っていなかった。
だが、アカハチは漁に出るための小さなサバニ船しか繰ったことがない。ミャークの船は巨大な軍船だ。どうやって動かしたら良いのか、そもそも一人で動かせるものなのか――。やってみるさ、と思ってはみたものの、いざ船に乗り込んでみると、どう動かすかが分からない。帆を上げる綱と格闘しているうちに、アカハチを探しに来た松明が近づいて来た。
焦るアカハチの手がもつれる。すぐそばまで、追手の怒声が聞こえてきていた。
「畜生っ……」
思わず悪態を吐いたアカハチを、ぐいと押しのける者がいた。
「どいて、私がやるから! あんたはあいつらを食い止めて!」
わああ、と怒声をあげながら、松明を持った男たちが船に上がってくる。
男たちに組み付き、海に投げ飛ばしながらアカハチは怒鳴った。
「クイツ! だから、なんでお前がここにいるんだよ!」
クイツの緊迫した声が返ってくる。
「あんたひとりじゃ心配だからよ!」
叩き付けられた松明をすんでのところでかわすと、アカハチはもう一人の男を肘で突き飛ばした。男が甲板を越えて海に落ち、水飛沫の音と共に哀れな悲鳴が上がる。
「ふざけんな、俺は一人だって……」
怒鳴るアカハチに、クイツがぴしゃりと言い返す。
「ふざけてるのはそっちよ! 覚えておきなさい、自分ひとりじゃ……」
ばっ、と白い帆が満月の夜に躍る。
「……自分ひとりじゃ、何にもできないってね!」
帆が風を一気にはらみ、船は港から離れた。
アカハチが、追手の最後の一人を遠くへ向かって掴み投げ、月明りの下に大きな水柱が上がる。
港から投げつけられる石や松明をものともせず、船は大海に漕ぎだした。
そうして、アカハチとクイツはハテルマを出たのである。
だが、その旅は順風満帆とは行かなかった。
二人はイシガキ島を目指して出港した。対岸のイリオモテ島はミャークの息がかかっていたから論外だったし、その南東に浮かぶアラグスクやクロの島は名を上げるには小さすぎる気がした。だから、広大な未踏の地が残るという遠い北の島を目指したのである。
幸い船には食料が豊富に詰まれたままだったから、飢えることはなかった。
だが……肝心の水が詰まれていなかったのである。
途中のアラグスクかクロ、どちらかの島で補給を考えた二人はしかし、二つの島にすでにミャークの伝令が行っていることを知って愕然とした。
船の上から、港に人々が集まっているのが見えた。手に槍や剣を持った顔は一様に緊張していて、上陸するや否や二人を捉えるつもりなのだと分かった。
アカハチは彼らの瞳を知っていた。自分もミャークの船を見るとき、同じ目をしていたのだろうと思った。
水を得ることが叶わず、二人は船の帆に溜まった夜露を集め、波間に漂う椰子の実を血眼になって探した。
だが悪いことに、その後すぐに船は季節外れの嵐に襲われることになったのである。
暴風と大粒の雨の中、船は荒れる波に木の葉のように翻弄され、クイツも、そしてアカハチも思わず悲鳴を上げた。
「しっかりつかまれ、振り落とされるぞ!」
返事をする余裕もないクイツは、激しく上下に揺れる甲板の縁に必死でしがみついている。
アカハチは何とか舵を嵐から取り戻そうと、雨粒でびしょぬれになった甲板を這って進んだ。
あと少し、というところで揺れる甲板に立ち上がり、舵に手を伸ばす。
だか、その瞬間――暴風にあおられて船が大きく揺らぎ、よろめいた。
アカハチの肩に激痛が走る。ぞっとして視線を移すと、はたして船の舵は根元から折れていた。アカハチの巨体と衝突し、折れたのである。さすがのアカハチも顔色を無くす。
思わずクイツの方を見ようとした時、もう一度船があおられるように揺れた。アカハチの体が宙に浮かび、飛ばされ、そして船の太い帆柱に激突した。後頭部に、鈍い痛みが広がる。
そしてアカハチは、全身に叩き付ける雨粒を感じながらゆっくり意識を失って行った。
次に目が覚めたのは布団の上だった。
焦点が定まらない視界の中に、人の顔がいくつも覗きこんでいる。全て知らない顔だ。
――ああ、きっとまたこいつらも敵なのだ――。
反射的に身構えようとするが、体がぴくりとも動かない。それどころか、瞼が勝手に落ちてこようとする。
だが、半眼の霞んだ視界の中に、ようやくよく知った姿が現れた。
長い黒髪、柔和な輪郭の綺麗な顔。
アカハチは手を伸ばす。
「アカハチ!」
――女の声。ああ、これはクイツだ――。
クイツは涙を目に浮かべ、アカハチの手を握って自分の頬に押し付けた。
「ああ、やっと気が付いた……。私が分かる?」
よかった、よかった……と呟きながら、クイツは泣いていた。俯いた華奢な肩を震わせる姿はいつもの勝気な様子と違っていて、アカハチはぼんやりとした頭で面喰っていた。
よかったねえ、よかったねえ、と知らない顔達が声を掛ける。その声が温かいのに気付きアカハチはようやく理解する。自分はどうやら敵に囲まれているのではないらしい。
それから、クイツはアカハチの頬を両手でこすり、ぺちぺちと叩きまくった。
「…………何、しやがる…………」
掠れた声に、皆が歓声を上げた。
――気づいたぞ。――もうだめかと思った。――一年もだもの。
――一年? 自分はどうなった。あれから、何があったのか――。
アカハチの困惑を感じ取ったかのように、クイツが話しかけてきた。
「あんた、一年も眠りっぱなしだったのよ。船の柱に頭をぶつけて」
あれから……舵を失った船は風にあおられて漂流し、ついにイシガキ島まで流され、島の南部にあるオーハマの村の岩礁で大破したのだという。
意識の無い大男を必死に抱きしめながら戸板の上で漂流していたクイツは、オーハマの村の漁師に発見された。
「あんたを見て怖がるかと思ったけど」とクイツは笑う。
漁師はすぐに村の人々を呼び集め、二人は村人の家に担ぎ込まれた。
暖かい湯を供し、滴る海水を拭き取ってくれる村人たちをクイツが不思議に思っていると、村人たちは口々に話し始めた。
昨夜、村人たちは海が金色に輝くのを見たのだという。
オーハマの村には古くからの言い伝えがあった。海が金色に輝くとき、それは幸運の訪れであると。果たして翌朝海辺に駆けつけてみると、金の髪の人が波間に浮いているではないか。
それで村人たちは、この異邦人が吉兆の証だと理解し、厚く遇したのだという。
――金の髪? 自分の髪は金色なんかじゃない。確かに金の筋が所々入ってはいるが、遠目から見ればただの茶色い髪だ――。
愛おしそうにクイツが髪を撫でる。
「潮風に当たって、色が抜けたのね」
きしむ体で顔を横に向けると、今や長く伸びた髪が布団の上に広がっているのが見えた。
その色は、確かに輝くような金色だった。
それから――与えられた小さな家で意識の戻らないアカハチを介抱しながら、クイツは懸命に働いた。細い腕で畑を耕し、腰をかがめて貝や蛸を取り、夜は寝る間を惜しんで草を編み、草履を作って小金に替えた。
その献身的な様子に、吉兆とはいえ最初はいくらかの警戒心を持っていた村人たちも、この若い娘を何くれと無く助けてくれるようになった。
「あんたは幸せ者だよ、アカハチさん」
知らない若者が笑いながら声を掛ける。
「あんたが目を覚ましそうもないから、村の男と添わせようって話は何度もあったんだけどね」
クイツが真っ赤になって若者の口をふさごうとする。
「自分はこの男と結婚するんだ、この男以外と結婚するくらいなら死ぬ、って言い張ってね」
村人たちが笑いあう中、クイツは真っ赤な顔で怒ってみせる。
「お前が――俺を?」
向き直ったクイツが、くしゃ、と顔を歪めた。
「あんたが、このまま死んだらどうしようかと思った……。私……私…………」
そのまま子供のようにべそをかき始めたクイツの頭に、アカハチはそっと触れる。
村人たちが目くばせをしあい、部屋から出てゆく。
そうして、二人は夫婦になったのである。
二人がオーハマに来てから、村では豊作が続いた。何年も干ばつで苦しんでいたのが、雨が降るようになり、新しい井戸の水源まで見つかった。
そんな幸運続きに、村人たちはアカハチを幸福の象徴として大切にした。大切、と言っても素朴な村のことだ。漁で捕れた魚を一匹多く分けてくれたり、酒の席で皆が皿におかずを寄越してくれたり、といった風だったが、アカハチはそれが嬉しかった。アカハチもその信頼に応えるように、身を粉にして村のために働いた。
家族もなく、石つぶてを投げられていた少年は、ここで初めて何かの一員となる温かさを知ったのである。
魚籠が採った貝で一杯になっている。
「今夜はこの貝を煮て、みんなで一杯やろうな」
干潟に立った二人は、また目を合わせて笑い合う。
「なんだか……あっという間だったわね。ここまで来るのに」
「そうだな……」
お前がいてくれたおかげだ、とは不器用なアカハチは言えない。
だが、そんな気持ちを見透かしたようにクイツが笑う。
「あんた変わったわ。小さな鷹の雛を拾ってきたときは笑ってしまった。大男が体を縮めて、箸で虫だの肉だの食べさせてやって。
島にいたときはちょっと怖かったけど……本当は優しいんだって分かった」
目を細めて二人は大空を見上げた。
視線の先に、赤い羽毛に覆われた鷹が舞っている。二人がかわいがっている、雛から育てた鷹のティーラだ。
「……あの鷹はこの島の鳥じゃない。
きっと、渡りの途中で産み落とされたはぐれ者だ……俺みたいな」
――だから。見捨てておけなかった。
遠い目をするアカハチに、クイツは言葉を継ぐ。
「でも、あの鷹は帰る場所を見つけたのね。ここに」
二人が見上げる中、ティーラは優美な羽音と共にアカハチの肩に舞い降りた。
小ぶりな鷹は、甘えた様子で頭をアカハチの頬にこすりつける。
なによ、と口を尖らせ、人差し指でティーラの嘴を弾こうとしたクイツは、逆にティーラの嘴につつき返される。
思わぬ反撃に驚き、泥の中で後じさりしたクイツはうっかり足を滑らせた。さっきのアカハチのように泥まみれになるところだったクイツはしかし、アカハチのがっしりした腕に抱きとられていた。
アカハチはそのままクイツを横抱きにする。
「お前は……軽いな」
「あんたが重すぎるのよ」
なんだよ、とすねてみせるアカハチの首に、クイツは甘く腕を回し顔をうずめた。
「今日も大漁……明日も、明後日も……。村はこれからも豊作のまま……。私たちはずっと、幸せに暮らすのよ」
寝言のように呟く愛しい女の顔を見下したアカハチは、その顔がかつて別れた親友に瓜二つなことに改めて驚く。
――これからもずっと幸せに。
アカハチは決意を込めて頷く。
目を上げると、オモト岳の頂に黒雲が掛かっていた。