[第1話]
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[プロローグ]
白い砂浜と、ただひたすらにはじける波の音。
そんな人の世とは無関心な風景の中で、少年は、じっと視線を遠くに投げて黙っていた。
砂浜の端の灌木の下で膝を抱えたその姿は、そこらの少年よりも随分大柄だった。粗末な着物の裾から骨太の足が飛び出し、ごわごわした合わせが寸足らずなのを強調している。
遠くで鳴いた鳥の声に、少年は顔を上げた。丸みを帯びた頬に幼さが残っている。年の頃はせいぜい十三、四と言ったところか。
少年はしばらく、遥かな空を舞う鳥を見つめていた。その目は、打ち寄せる波の色と同じ、緑がかった青色であった。
やがて鳥が飛び去ってしまうと、視線を地面に落とした少年は片手を髪に突っ込み、根元からむしるように掴んだ。風に揺れた灌木の枝から日が差し、少年の髪をあぶるように照らす。
赤髪。
赤茶けて波打ち、所々に金色の筋が入ったその髪を、人々はそう呼んだ。黒髪の人しかいないこの島で、それは侮蔑の言葉だった。
少年の瞳が、やるせない光を浮かべて海の彼方を見る。
赤い髪と青い瞳の少年は、小さな島の異形の存在なのだった。
少年の耳に、大嫌いな音が近づいて来た。もう慣れっこになってしまったはずの、子供たちのからかいと侮蔑の声。
浜の端まで来れば大丈夫だと思ったのに、暇を持て余した子供たちにとうとう見つかってしまったらしい。
浜の後ろの茂みから現れた子供の群れは、明らかに調子に乗った声で少年を囃し立てた。
「赤髪!」
「赤鬼!」
今まで無視を貫いてきたのが裏目に出たのだろう。反撃などしてこないと思ったのか、子供たちはいつもの遠巻きの囃し声に加え、今日はついに浜に打ち上げられた珊瑚の欠片を投げ始めた。
ひゅ、と音を立てて飛んだ珊瑚が腕や背中にぶつかり、鈍い痛みが広がる。
それでも無視を貫き、黙って歩き去ろうとした少年に向かって、子供たちはさらに二つ、三つと珊瑚を投げた。
――相手にしてはいけない。相手にするだけ無駄だ――。
そう自分に言い聞かせていた少年だったが、とうとう一つが頭を打った。衝撃に頭が傾げ、血がぱっ、と白い砂に飛び散るのが見えた。
少年は、痛みに俯いたまましばらくその紅い染みを見つめ……そして、猛然と子供の群れに突進した。
恐怖の叫びを上げる子供の一人の襟首を引っ掴むと、砂浜に叩き付ける。怯えのどよめきが上がり、幾人かの子供が恐怖に逃げ出した。先ほどまでいじけて暗かった少年の瞳は、今やぎらぎらと怒りに燃え上がり、怒りに震える指が、捕えた相手の首をぎりぎりと絞め付けた。
「鬼だ!」
「殺される!」
止めようと加勢に入る子供の群れを、少年は猛然と振り払った。子供たちが何人束になって掛かろうとも、大柄な少年の怪力の前にはなすすべもない。
千切っては投げ、の乱闘の最中、少年は砂浜の上の一点に目を止めた。そこには、投げつけられた珊瑚が転がっていた。拳の半分程のごつごつした白い角に、少年の額を割った赤い血が染みていた。
少年は、憑かれたようにそれに手を伸ばした。
その目の異様なきらめきに、周りの子供たちが恐怖に凍り付く。
少年は珊瑚を握りしめ、砂浜に倒れてあえいでいる子供を睨み付けた。
「……ふざけやがって……」
掠れた声が絞り出され、少年は片手で敵を引き据え、そしてもう一方の手で珊瑚をゆるゆると振り上げた。逃げられない獲物の恐怖の叫びが上がる。
「死ね」
渾身の力で振り下ろされた手の中の塊は、哀れな子供の頭を叩き割った――はずだった。
何が起きたのか、少年は一瞬わからなかった。
何かに強く押しやられ、波打ち際に倒れ込む。ばしゃり、と上がった水飛沫の冷たさに、少年は弾かれたように目を上げた。
少年の目に飛び込んできたもの……それは、もう一人の少年の姿だった。
陽の光がやわらかな輪郭を照らし、涼やかな風が、艶のある黒髪を舞い上げる。
年の頃は同じ位だろうか。柔和な顔の、ひどく澄んだ目をした少年が、こちらを見下ろし手を差し伸べていた。
「大丈夫か?」
ぼんやりとした頭に、柔らかな声が響く。
まるで操られるかのようにその手を握ると、少年はぐい、と助け起こされていた。
唖然とする中、黒髪の少年は静かな瞳で子供たちの群れを見つめた。バツの悪そうな顔をした子供たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げてゆく。黒髪の少年はため息をついてその様子を見送ってから、懐から手ぬぐいを取り出し、赤毛の少年の額にてきぱきと巻き付けた。
肌に当たる柔らかい布の感覚に、赤毛の少年は我にかえり、弾かれたように身を引いた。
「この布……」
怯えたような響きに、黒髪の少年は安心させるように笑う。
「大丈夫、そんなに血は出ていない」
「……こんな高い布に」
――血の染みが付いてしまった。
そんな戸惑いを感じ取ったのか、黒髪の少年はまた笑った。
「いいんだ。それより、痛かっただろう」
ここに至って、赤毛の少年は相手のこめかみにも血が滲んでいるのに気が付いた。自分と相手の子供の間に割って入り、振り下ろされた珊瑚が掠って怪我をしたのだとようやく理解する。
「――なんで」
自分の傷を顧みず、自らを傷つけた相手を介抱する目の前の相手。
罪悪感と戸惑いの中ようやく絞り出された声に、黒髪の少年は曇りの無い笑顔で答えた。
「お前に人殺しになって欲しくない。島に居られなくなる」
「……今だって、居場所なんか、ない」
暗い声に、黒髪の少年は問うように首を傾げた。促されるように、赤毛の少年の掠れた声が答える。
「……この見てくれだから。おれは……鬼の子だから」
――何故、こんなことを初めて会った相手に話しているのか。
少年の戸惑いを吹き飛ばすように黒髪の少年はまっすぐな視線を返した。
「それは違う。お前は鬼の子なんかじゃないし、居場所もある」
怪訝な視線を跳ね返すように、黒髪の少年は眩く笑い、そして言った。
「僕がお前の友になる。だから、お前の居場所はちゃんとある」
ぽかん、と赤毛の少年が見つめる中、黒髪の少年は片手を差し出した。
「長田の家の、マツーだ」
吃驚し、そして戸惑いながらも、やがて赤毛の少年もおずおずと片手を出した。
「……アカハチ、だ」
黒髪の少年、マツーは嬉しそうに笑い、アカハチの手を強く握りしめた。
「これで、今日から友達だな」
マツーは握りしめた手を、勢いをつけて上下にぶんぶんと振る。
「なんでそんなに嬉しそうなんだよ」
怒ったようなアカハチの声に、マツーは笑いを含んだ声で返す。
「嬉しいに決まってる」
「なんで」
マツーは少し考え、そして答えた。
「これでお前の悲しい顔を見なくて済むから……かな?」
ぱっ、とアカハチの頬に血が上る。
「おれは、悲しい顔なんかしたこと無い!」
「嘘をつけ。今まで何度もお前を見かけたけど、いつも悲しそうな顔をしていたよ」
真っ赤な顔で口を引き結ぶと、アカハチは拳を振り上げた。マツーが笑いながらそれをよける。
「ほらみろ、お前の良くないところは先に手が出るところだ。これからは学と言葉の時代だぞ。お前、字は読めるか?」
「今は読めんが、すぐ読めるようになる!」
マツーの屈託のない笑いがはじけた。
「その調子だ。明日から僕と勉強だな。明日またここで会おう。きっとだぞ」
もう一つマツーの明るい笑いがはじけ、アカハチの顔にも、不機嫌なような、それでいて嬉しさを隠しきれない笑みが浮かぶ。
「案外、笑うとかわいいんだな」
軽口を叩くマツーを、拳を振り上げたアカハチが追いかける。
真っ白な砂浜を、二人の少年が笑いながら駆けてゆく。
こうして、二人の少年は出会ったのだった。
[第一章]
月日は巡る。7月の風に乗って笛と歌の音が流れてくる。祭りの時期であった。
ハテルマ島――シュリの都の先の先、遠い南に浮かぶ孤島。
痩せた珊瑚の島には、風に飛ばされまいと岩場にしがみつく植物のように人々が住み、わずかな土と荒い海からの恵みを戴くように暮らしていた。
激しく気まぐれな自然を畏れる人々にとって、神や精霊は常に日々の支配者だった。
だから、豊作を願い、舞踊と歌で実りの神をもてなす祭りの期間、島は年のうちで一番の賑わいを見せる。
今、フクギの木に囲まれた集落の広場では、二人の少年が舞っていた。奉納舞は武道を模しており、稽古の段階といえども勇壮で激しい。みずみずしい少年達の演舞に、輪になって見守る観衆からは何度も歓声が上がった。
そんな様子を、広場から少し離れたガジュマルの木陰から覗きこむ姿があった。髪を結い上げ、すらりとした体躯に黒目がちの瞳。質素な着物を着てはいるが、気品のようなものを感じさせるいでたち。すっかり成長し、十七歳となったマツーであった。
線が細く、どこか中性的な美男に成長したマツーは、今や島の娘達の憧れの的だ。もっとも、本人は色恋には興味を示さず、本を読んだり歌を歌ったりしている方が楽しいようだったが。
物陰に身を隠し、しばらく少年達――弟のナレトとナレカ――の舞を見ていたマツーであったが、ついに意を決したように踵を返した。
彼が足音をひそめて向かったのは、彼の実家の長田屋敷であった。
フクギの生垣が続く土の道を行っても、誰ともすれ違わない。おそらく、村中の人々が広場に集まっているのだろう。
ようやく家の前まで来ると、淡い希望を持って門の中を覗きこむ。
黄色いフクギの花が地面に落ちる音が聞こえるほどの静寂の中、邸内からは物音一つしなかった。
――思った通り、下男たちも出払っているようだ。
安堵し、忍び足で邸内に入ったマツーはしかし、厳しい声に襟首を捕まれた。
「どこへ行っていたのですか」
打ち付けるような声に、恐る恐る視線を上げる。はたして、屋敷の上がり口では、長身の女性が彼を見下ろしていた。
美しい顔立ちだが、切れ長の涼しい目元が厳しい。形の良い唇を固く引き結んでいる。
つまり、ひどく怒っている――。
暗澹とした気持ちがマツーを襲った。
「姉上……。いえ……ちょっと祭りの準備で」
「嘘おっしゃい」
ぴしゃりとはねつけると、女性は厳しく弟を見据えた。
「また、あの悪鬼と会っていましたね」
今度はマツーが眉をひそめる番だった。
「マイツ姉上、なぜそのような事を言うのですか。何度も申し上げましたが、アカハチは悪鬼ではありません。私の友です」
マツーの強い口調も何の効果も無いものか、女性――マイツはきっぱりと言葉を継いだ。
「いい加減になさい。あなたは次の春には我が家の当主になるのです。あなたがしっかりしなくては、ミシュクの獅子嘉殿にも軽んじられます。私が禁じます。あれに会ってはなりません」
「なぜです? アカハチが百姓だからですか……それとも、見た目が変わっているからですか」
マイツは黙り、そしてまた口を開いた。
「それもある――いや……」
瞳が半眼になり、どこか遠くをさまよった。島の司、神人であるマイツは時々こうなることがあった。
「――あの悪鬼はお前にも、我が家にも災いをもたらす。だから、会ってはなりません」
呟くような声なのに、有無を言わせぬ響きでマイツは言い切った。
予言、託宣、司の言葉。ヤイマの島々の中でも特別に神高いとされるこの島で、これまでも、これからも島を動かして行くであろう目に見えない力――。
そういったものに翻弄される運命を受け入れるには、マツーはまだ若すぎた。思わず、怒気のこもった声が口を突く。
「仰る通り、私はもうすぐ当主になります。私は大人です。私が誰と会うかは、私が決めます。姉上の指図は受けません!」
言い終える前に、ぱちん、とはじけるような音が響いた。マイツがマツーの頬を打ったのである。
「誰に向かって物を言っているのですか……」
静かな、だがどこまでも深い声が空気を震わせる。
その声には、母亡き後、家を、弟妹を守ってきた女祭祀の威厳があった。マツーは黙り込む。
ようやく何かを言い返そうと口を開いたマツーを再び視線で黙らせると、マイツは毅然と踵を返し、薄暗い邸内へと消えて行った。
足が床を擦る音が消えるまで、マツーはその後ろ姿を見つめて立ち尽くしていた。ただ、唇を強く噛みしめながら。
「嫌ね、姉さまって」
はじけるように響いた声に、マツーは顔を上げた。
いつの間にか、背後から大きな瞳の少女が覗きこんでいた。黒目勝ちの瞳をした美しい顔立ちはマツーと瓜二つである。
「クイツ……いたのか」
ころころと笑うと、少女はぱっ、と一歩飛びすさった。
「兄さまって、いつも変なところで間がぬけているんだから。わたし、兄さまが門のところでコソコソしていたところから見ていたわ」
得意満面に笑う少女・クイツはマツーの年子の妹である。
長田の家は子供が多い。大きくなるまで生き残っただけでも、長男のマツー、次男のナレトに三男のナレカ、長女のマイツ、次女のクイツ……と五人がいる。もっとも、全員の父親が同じわけではなかったが。
「間が抜けているとはなんだ、失礼な」
口を尖らせ怒ってみせるマツーに、クイツが笑いながらじゃれつく。
「ね、そんな事より、お話聞かせて兄さま。今日はアカハチとどんな話をしてきたの?」
「ん……そうだな」
土間に草鞋を脱ぎ揃えると、マツーは屋敷の奥へ進んだ。後ろについてくる妹の気持ちが弾んでいるのが、空気を通して伝わってくる。
質素な板の間に胡坐をかくと、クイツは目を輝かせて傍らに座った。クイツがいると、それだけで場が明るくなる気がする。
マツーと他のきょうだい達との間には、数年間の分断があった。長男であるマツーが一度島を出たためだ。
彼は八歳の時に島から連れ出され、十四歳で戻るまで遠いミャークの島で育てられた。
幼いマツーの知らない間に、母とミャークの男たちの間でどんな話があったものか。マツーが覚えているのは、出発の日に、集落の出口に見送りに立った母が泣きながら言い聞かせていたことだけだ。
――ここを去らねばなりません。この地を、ハテルマを――。
今や記憶も朧な母の顔は、涙で一面濡れていた。
そして、マツーは六年間を遠いミャークで過ごし、母の死を境にハテルマに戻った。悲嘆にくれるきょうだいを叱咤し、毅然と家を切り盛りするようになったのは姉のマイツだった。しかし、司の威厳を備えたマイツはあまりに遠く、二人の弟はどこかよそよそしかった。
そんな中、救いになったのがクイツの存在であった。
久しぶりの帰郷にとまどう兄の手を引き、白い砂浜を、青い波の断崖を巡って、一つ一つ故郷を取り戻させてくれたのは、人懐っこく物おじしないこの妹だった。
だから、マツーはクイツに頭が上がらない。
「今日は、島の外の話をしていたんだ」
小さく首をかしげて促すクイツに、マツーは言葉を継ぐ。
「クイツも知っているだろうが、今は戦乱の世の中だ。
イリオモテには慶来慶田城用緒。イシガキには仲間満慶山英極にヒラクボの加那按司……。遠くヨナグニにはサンアイ・イソバという女傑までいるということだ。この島にだって、武勇名高い獅子嘉殿がおられる。
ミャークやシュリを合わせれば、数え切れぬほどの剛のものが群雄割拠している時代だ。それに加えて、シュリ王府の圧力も日に日に強まっている……。
僕たちも、土地を求め、富を求める争いに巻き込まれる日がいつか来るかもしれない」
マツーは一つ息を吐く。
「アカハチは、そういう時は武力で戦うのも仕方がないという。
相手に攻められたとき、何もしなければこちらが奪われ、殺されてしまうと……。それは僕も分かっているつもりだ」
マツーの脳裏に、懸命に剣の稽古をするアカハチの姿が浮かぶ。
数年前に島に流れてきた刀鍛冶から、二人は密かに剣を習っていた。あくまで型の域を出ようとしないマツーと違って、アカハチの剣はおそらく人を殺めることもできる技量に達している。
「だが、そうして殺し、殺されを繰り返して何になる。いつか、シュリやミャーク、ヤマト……それに、もっと大きな国々と渡り合う日が来るかもしれない……。
そんな時、僕は戦ではなく話し合いで物事を進めたいんだ。
だが、互いの違いを認め合うことができなければ、話し合いなどできようはずもない」
今だに、村人たちはアカハチをその外見ゆえに怖れ、さげすむ。
だが、外の世界には、髪の色も、肌の色も、言葉も風習も違う人々が沢山いるのだ。
書物を通して、マツーの世界は遠く海の向こうまで広がっている。それゆえ、狭い島の中で完結して生きる家族や村人達が、マツーは苦々しくて仕方がない。
「違うものを怖い、などと言っている場合じゃない――僕たちは、もっと広い世界を見るべきだ。そんな話をしていた」
クイツはぽかん、と口を開けていたが、やがて弾けるように笑いだした。
「……おかしいか?」
ころころと笑う少女は答える。
「ううん、おかしくない。あのね、私やっぱり兄さまが一番好き」
「からかうな」
「だって、姉さまやナレトやナレカより、兄さまが一番私に似ているから。私もいつか、広い世界を見てみたい」
今度はマツーが驚く番だ。クイツはどこか、普通の娘と違うところがある。
「まったく、男のようだなお前は……。婿が見つかるか心配だよ」
まあ、とクイツが不満の声を上げる。
「私、婿なんていらないわ。兄さまみたいな人がいれば別だけど」
兄が肩をすくめ、妹がまた軽やかに笑う。
来年の春には、長田の家の当主になる。
そんな事実も、このやわらかな一時だけは忘れられる気がした。
断崖に打ち付ける波の音を聞きながら、アカハチは木刀を振り下ろした。
小気味よい音と共に空気が割け、やせた大地の草を薙ぐ。
――まだだ。
もう一度木刀を構えると、気合と共に振り下ろす。
そんな風に、島のはずれの岩場の断崖で、己ひとりの修練をアカハチは何時間も続けていた。夕陽の照らす影が、もう長い。
マツーといるときは良い。
色々な事を話したり、学問を教わったり、剣の稽古をしたり――。
だが、マツーが屋敷に帰ってしまえば、やはりアカハチは一人のままだった。
マツーがアカハチを友として扱い、どんなに公平に接してくれていても、村人たちの冷たい目は変わることは無かった。懸命に小さな畑を耕していても、自分が食べる分だけの魚を獲っていても、彼らの遠巻きの囁き声は変わることがなかった。
むしろ、成長するにつれアカハチは以前にも増して異端視されるようになっていた。
天を突くような長身、さらに色が薄くなった茶色い髪と青緑の瞳。彫の深い顔立ちは、村人達がそうとは知らないものの、西の異人そのものであった。
マツーだけは、髪に混じる金の筋を、海の色の瞳をきれいだと言ってくれる。だが、アカハチは自分の姿が大嫌いなままだった。だから、せめて目立たないようにと波打つ髪を短く切っていたが、切れ味の悪い小刀のせいで髪はいびつに乱れ、異形らしさをさらに増す結果になっていた。
アカハチは時々思う。一人だった時と、友が出来てからと、どちらが幸せなのだろうかと。
アカハチにはもともと、親も、家族もなかった。
彼は、島の外れの断崖に捨てられていた。二日も鳴き続けた赤子に根負けして拾ってくれた老婆はとうに亡くなり、アカハチにとっては孤独こそが日常だった。
だが、マツーが友となり、誰かと過ごす暖かさを知ったことで、アカハチは一人でいるときの吹きすさぶような寂しさを知ってしまった。
黒髪の綺麗なマツーと、赤毛で醜い異形の自分。残酷な落差が荒涼とした気持ちに拍車を掛ける。
そんな重苦しい気持ちを振り払うように、アカハチは一心に剣を振るった。
「また、怖い顔をしているな」
顔を上げると、巨大な岩の陰からマツーが顔を覗かせていた。
「なんだ……来たのか」
ぶっきらぼうに言い放つアカハチの声に、嬉しさが滲んでいる。
小走りに近づいてきたマツーはあたりを見渡した。
「遅くなった。師匠は?」
アカハチは首を振ると、懐から紙切れを取り出して振ってみせた。島では貴重な紙に、墨の達筆な文字が踊っている。
「また、師匠の気まぐれだ。今度はイシガキに行って、しばらく帰らないとさ」
なあんだ、とマツーは気の抜けたような声で笑うと、肩をすくめた。
「じゃあ、これでしばらく稽古は休みだね」
そうだな、とマツーを見たアカハチが眉をひそめる。頬に、赤い跡が残っていた。
「また、マイツ殿か?」
苦笑いをするマツーと、心配そうな顔のアカハチは、どちらともなく草の上に座りこむ。土にまだ、昼間の陽のぬくもりが残っていた。
「さっき頬を張られたよ」
肩をすくめておどけて見せるマツーにアカハチは顔をしかめた。
「マイツ殿は、お前に厳しすぎる」
ん……と曖昧に答えて、マツーは立てた両ひざに腕を回した。
「仕方ないさ。母上も亡くなってしまったし、僕が長男だから。
でも……」
促すように目で問うアカハチに、マツーは言葉を続けた。
「僕じゃなくて、マイツ姉上か、ナレトかナレカか……他の誰かが、僕だったら良かったかもね」
自嘲気味に呟くマツーに、アカハチは何も言えなかった。
マツーは聡い。剣術も、本当は良くできる。だが……優しすぎるのだ。
村の交渉事でも、島で長田の家と双璧をなす豪族・獅子嘉一派との関係でも、とかく相手の立場を思い過ぎて強く出られない所があった。
豪族の長男として、本当なら刀の一つでも下げていなくてはいけないのに、争いは好まないといって護身用の短刀を懐に入れたきりで、よくマイツに叱られていた。
平和な世なら、弱きを助く良い治世者になれただろう。だが、この戦乱の時代には――。
勝気な弟のナレトとナレカが、自分たちのどちらかが長男として生まれていたら……と囁き合っていたのを、アカハチは立ち聞きしたばかりだった。マイツも本音ではどう思っているのか。
マツーが時折見せるさみしそうな顔は、年々顕著になるきょうだいの確執のせいでもあるに違いなかった。
こんな時、アカハチは何と声を掛けてやっていいかわからない。
お前のやさしいところが好きだ、などど言ったところで、慰めにもならないと分かっているからだ。
「生まれた時代が悪かったかもな」
ようやくそんな事を言って、アカハチは視線を遠くに投げる。
夕陽がわずかな雲の切れ間から光を投げ、断崖ではじける海を照らしていた。水平線に、うすい靄が垂れこめている。
マツーもかすんだ水平線を見つめ、そして呟いた。
「パイパティローマなんて、あるのかな?」
それは、ハテルマ島のはるか南にあるという、太古に沈んだ大陸の生き残りが住むという島の名前だった。
沈んだ大陸には今より遥かに進んだ文明が栄え、そこには歌と踊りを愛し、精霊と戯れる平和な人々が住んでいたそうだ。そんな人々が、今も遥か遠くの南の楽園で暮らしているという。
そしてハテルマ島では、今でも時折、太古の人々の血を色濃く引いて産まれるものがいると言われていた。
歌えば鳥がさえずり、光が差す。笑えば蝶が舞い、南風が吹く――本人は意識していないらしいが、マツーもそんな不思議な性質を持った一人だ。
アカハチは、星明りの下でマツーの周りを燐光でできた蝶が舞っているのを見たことすらあった。そういう時、マツーは平然としていて、何を聞かれてもニコニコしているだけなのだった。
そんなマツーを見ていると、遥かな楽園の物語を信じてみたくもなる。
だが、ひび割れた大地に、しがみつくように生きる自分はどうだ。
生まれてこの方、赤い畑に鍬を立て、掘っても掘っても出てくる珊瑚の石を拾い、僅かに実った稗粟で飢えをしのぐ自分はどうだ――。
「ただの伝説だ。俺みたいに、苦しい思いをした誰かが作ったおとぎ話さ」
言い放つアカハチをじっと見つめてから、マツーはやがて小さく喉の奥で歌い始めた。
――むかしむかし、鳥と蛇が大喧嘩。人間たちは大慌て――本当はそんな他愛もない歌詞が付いているのだと、いつかマツーが言っていた素朴な歌だった。
周囲の鳥達が耳を澄まし、やがて伴奏を務めるように囀り始める。
二人が見守る中、水平線を包んでいた靄が晴れ、うつくしい夕陽が顔を出す――。
アカハチは、何度見ても慣れることのない奇跡に言葉を無くし、目を見張った。
ふと、優しい旋律が途切れた。
「マツー?」
アカハチが怪訝に覗きこむ横で、マツーは青ざめていた。震える片手を上げ、こめかみのあたりを強く押さえる。
「どうしたんだよ? どっか悪いのか?」
唇を薄く開いて、そのまま言葉の無いマツーは蒼白の顔で視線を彷徨わせた。
アカハチが背中をさすってやろうとしたとき、不吉な音が鳴り響いた。
長い尾を引いて響き渡る島の半鐘――それは招かれざる来客を告げる音だ。
二人は交わす言葉ももどかしく立ち上がり、彼方へ目をやった。
港に向けて、黒い帆船が近づいていた。まるで嵐を含んだ黒雲のように。
港は不安と警戒のざわめきで満たされていた。
村人が見つめる中、巨大な碇が透き通った海に投げ込まれ、珊瑚の森を砕く。
波の上に浮かぶのは、黒く塗られた巨大な軍船。
船腹に大きく描かれているのは、駿馬の紋章――。
群れとなって集まった村民たちは、ひそめた重い声で囁き交わしていた。
――ミャークの船だ――。
ミャーク。蒼白の顔で船を見つめるマツーの横で、アカハチも身を固くする。
その言葉は、ハテルマの民の警戒と恐怖を呼び起こす言葉だった。
ここハテルマと、ミャークの島々は古くからのつながりがあった。いや、つながり、などと言う言葉を使って良いものか。
苦いつながり。
言葉には出さないまでも、ハテルマの人々はそう捉えているに違いなかった。
伝説では、昔、ハテルマをはじめとするヤイマの島々、ミャークの島々、そしてシュリの島々は一続きの大きな陸地だったという。
そしてある時、陸地の大部分が浮沈の末に海に消え、わずかな大地が島々として残った。
生き残った人々がそれぞれの島で暮らすこととなったのが、現在のシュリの島々、そしてその南に位置し、サキシマと呼ばれることとなったヤイマ、ミャークの島々の文明の始まりであるという。
そして言い伝えが伝説となり、人々がそれぞれの島の暮らしを確立したころ――ミャークの遠征が始まったのである。
ミャークは川を、山を持つことを許されなかった過酷な島だった。
彼らはまず、ヤイマの島々の中で最も緑の深いイリオモテ島へ進出してきた。激戦の末に島の西部と同盟を結ぶと、次はさらに西のヨナグニ島へと兵を差し向けた。
財を、富を求めてミャークの人々は嵐のように戦った。そして、この一連の行軍で、物資の補給地として使われたのがイリオモテの対岸に位置する島、ハテルマであった。
水や食料だけではない。休息と称して、ミャークの男達は夜な夜なハテルマの女達を捕らえた。
非劇は枚挙にいとまがなかったが、争い慣れしていないハテルマの人々は、長くシュリやヤイマの島々と渡り合ってきたミャークの人々には敵うはずもなく、多くの涙が流された。
そうして生まれた混血児たち――マツーもまた、その一人だった。本人は多くを語らなかったが、マツーもまた、何度目かの遠征の際に島に降り立ったミャークの武将の落とし種ということだった。
力を増したハテルマ島の豪族、獅子嘉の目が光るようになり、ようやく事態が改善されたつい最近まで、そんな状況が島にはあったのである。
しかし、このような不本意な血の絆が、結果的にハテルマを守ってきたともいえる。
ミャークは、北に浮かぶ大国・シュリに恭順してきた。だが、それは隷属というよりも狡猾な二つの国の相互依存であり、かけひきであった。
ミャークが遠征を繰り返すのは表向きはシュリ王府の領土拡大のためだが、シュリの保護下にありつつも独立性を保つための示威行為と、遠隔地であるヤイマの実質的な支配権の獲得を兼ねているというのが本当のところだろう。
だからこそ、ミャークはハテルマをシュリに渡すまいとしてきた。小さな島ではあるが、遠征の足掛かりの要所であるからだ。
ミャークはハテルマをシュリから遠ざける理由として血縁を持ちだした。ハテルマとミャークには血の繋がりができている。だから、ハテルマの管理はまかせてくれ、というわけだ。
ゆえに、他のヤイマの島々がそうであるようには、ハテルマはシュリ王府に強く圧迫されることはなかった。
いつしか既成事実となった主従関係のもと、その庇護ゆえに誰も声高にミャークを非難することができない――そんな事情に、人々の感情は複雑に渦を巻いているのだった。
そんな状況の中で、マツーは幼い六年間をミャークで過ごしたのである。
その六年がどんなものであったか、アカハチは知らなかった。
ミャーク――その言葉を聞く時にマツーの瞳に宿る光があまりに暗く、アカハチはどうしても尋ねることができなかった。
アカハチとマツーが固い瞳で見守る中、船から上陸のための戸板が渡された。
足を踏み出した人物の姿に村人がざわめいた。
緑の唐草模様の胴衣に身を包んだ武人。
決して大柄ではないが、引き締まった体躯からはどこか相手をひるませるような気が発散されている。
そして、腰に差されたのは漆黒の拵の刀。
その刀にどこか不吉なものを感じ、アカハチは思わず身構えた。
不意に大きく風が吹き、武人の顔を隠していた頭巾を吹き払う。
あらわになったのは、海風で縮れた髪と日に焼けた精悍な顔立ちであった。
額から鼻梁、そして頬を通って古い刀傷が十字に走っている。そして、整った若々しい美貌に老練な光を添えるのは、鷲のような鋭い瞳。
その瞳はゆっくりと視線を巡らせ、確かにアカハチを、そしてマツーを見据えた。
「こいつ……」
初めて相対するというのに、本能的な敵愾心がアカハチの心に燃え上がる。
アカハチの燃えるような瞳が武人の冷たい瞳と絡み合い、二人はしばしの間噛みつくような視線を戦わせた。
そのとき。
アカハチの肩にずしりとかかる重みがあった。
「マツー⁉ おい、大丈夫か?」
傍らのマツーが、アカハチの肩に倒れかかっていた。
額に冷汗が浮かび、長い睫毛が蒼白の頬に影を落としている。
くずおれそうな親友を支える間に、武人は悠然と歩み去った。
黒い軍靴が、島の砂に重くめり込む。
アカハチはマツーの両肩を抱きながら、武人の後ろ姿に燃えるような視線を投げ続けた。
ミャークの一行の訪れで祭りの準備は中断され、村をあげての歓迎の宴が開かれることになった。
祭りの神事に使うはずだった上等の穀物も、干した魚も、すべて宴に供されることになった。
「くそっ……」
厨で忙しく動き回る下女たちを見下ろしながら、アカハチは悪態を吐いた。
あの後、マツーはマイツに攫われるように連れ帰られ、アカハチは一人港に残された。
弟を庇うように抱いて振り返った姉司の、侮蔑と嫌悪の瞳がまだ脳裏に残っている。
それでもアカハチはマツーを追いかけ、今、長田の屋敷のフクギの大木に登っていた。
土百姓が宴に参加することができないなら、せめて様子だけでも覗き見てやろうと思ったし、何より急に具合の悪くなったマツーのことが心配だった。
「ちっとも見えねえ、余計なことしやがって……」
いつもは開け放たれている屋敷の戸の内を、来客用に出してきた屏風が隠してしまっている。見えるのは裏庭に面した厨だけだ。
ここは、アカハチの秘密の視察台だった。
マツーは、アカハチに会いに行かないようにと、姉に屋敷に閉じ込められることが時々あった。そんな時、アカハチはここに上って親友の様子を眺めることにしていた。
怒り狂うマイツの手前、アカハチがいることに気づかないふりをするマツーはいつも笑いを噛み殺していて、しょっちゅう「何がおかしいのですか」と叱責されていた。
それは一種の悪童の遊びのようなもので、後で「お前、すごくわざとらしかったぞ」と笑い合うところまでが一連のお約束になっていた。
上る枝を変えても、頭をひょこひょこ動かしても屋敷の中が覗けないことに業を煮やし、アカハチは腹立ちまぎれに手を伸ばして近くの枝をむしり取った……つもりだった。
指が、柔らかいものを掴む。
ぎょっとして上を向くと、アカハチの日に焼けた手が白い足首を掴んでいるのだった。
「あっ……お前」
しいっ、と口に人差し指を立てる姿にアカハチは目を見開いた。
そこにいたのはマツー……ではない。
兄にそっくりなマツーの妹、クイツであった。
マツーと違うのは、兄よりも若干大きな瞳と華奢な手足、それに膨らんだ胸くらいであろうか。
アカハチの潜むすぐ上の太い枝にしゃがみこみ、屋敷の中を伺っている。からげた裾から白いふくらはぎがあらわになり、アカハチの胸は居心地の悪いざわめきで満たされる。
「お前、なんでここにいるんだよ」
二人は面識がないわけではない。昔、マツーと三人で遊んだこともある。だが、お互い十五を過ぎてからは兄のマツーを挟んで一言二言言葉を交わすくらいで、こうして二人で相対するのは初めてであった。
クイツは小声で返す。
「あんたがいつもここに上って兄さまを見てるから。私も中が見えるかと思って」
見られていたのか、と動揺するアカハチを尻目に、足首を掴んでいた手を振り払うと屋敷に視線を戻す。
「お前は、宴に出ればいいじゃないか」
クイツはものすごく嫌そうな顔をした。
「冗談じゃないわ。酔っぱらいのミャークの男に酒を注ぐなんてごめんよ。どうせ、姉さまは私を表に出したくないだろうし」
姉のマイツと妹のクイツの反りが合わないということはそれとなくマツーから聞いていた。確かに、あの生真面目なマイツと、ポンポンと物をいうこのクイツでは合わないだろうな、とアカハチは思う。
「ここにいてもらちがあかないわ」
クイツはきっぱりと言うと、するすると木から降り始めた。
「おい、どうするんだよ」
「こうなったら、忍び込むしかない。アカハチ、あんたも手伝って」
「忍び込むって……どうやるんだよ」
あっけにとられるアカハチに、クイツはマツーとそっくりな顔で、不敵な笑みを返した。
「二人なら、大丈夫よ」
何のことはない。
クイツが裏口にいた下男達の注意を逸らした瞬間に、アカハチがみぞおちを殴って気を失わせる。そんな古典的な手段で二人は屋敷に忍び込んでいた。
ミャークの一行が到着し、家人が全員表玄関に駆けつけたところで、二人は素早く広間に滑り込んだ。
薄暗い部屋には、焼いた魚や炊いた飯の皿がずらりと並び、良い香りが充満している。
「こっちよ、早く!」
豪華な料理に目を見張っているアカハチを、クイツが広間の奥の物入れに引っ張り込んだ。埃っぽく、じめじめした暗がりでアカハチとクイツは押し合いへし合いする。
そうする間にも、ドタドタという足音と共に男たちの野太い声が聞こえてきた。
そっ、と物入れの戸をずらすと、十名ほどのミャークの男たちががやがやと騒ぎながら円座になって座ろうとしていた。
皆、すでに顔が赤い。貴重な酒を飲んでいたのかと思うと、アカハチの胸に怒りがこみ上げた。
酔った男たちが騒ぎ立てる中、少し遅れて別の足音が聞こえてくる。
やがて、視界に二人の人影が入ってきた。
一人は、顔に一切の表情が無いマツー。
そしてそのすぐ横には、港で観た十字傷の武人が、刀の柄にゆったりと手を掛けて悠然と歩いているのだった。
二人が広間に入ってくると、ミャークの男たちの酔いに任せた歓声が上がる。
「豊見親様、さあさあお座りください」
媚びるような声で、ナレトが豊見親と呼ばれた十字傷の男を上座に案内する。ナレカも作り笑いを浮かべて、いそいそと敷物を整えてやっている。
暗闇で、クイツがふん、と鼻を鳴らすのが聞こえた。
この弟二人はマツーにちっとも似ていない、とアカハチは思う。いや、もともとナレトとナレカ、マイツ、それにマツーとクイツはそれぞれ父親が違うそうだから、顔立ちは違って当然なのだろう。
だが、顔立ち云々ではなく、その目にはマツーには無い狡猾さのようなものがあった。
やがて最後に入ってきたのは、上等の着物に身を包んだマイツであった。
めずらしく微笑みを浮かべた司は、もともとの整った顔立ちと相まって輝くように美しい。だが、その笑みが張り付いたようなのがかえって不気味だった。
マイツは朗らかに手を叩く。
「さあさあ、宴を始めましょう。我らの仲宗根豊見親様のために」
当然のように上座に胡坐をかいた男――仲宗根豊見親――が傲慢に杯を上げ、ミャークの男たちが濁った歓声を上げる。
豊見親の横でマツーは正座し、石のように動かない。
マイツ、ナレト、ナレカがのっぺりとした笑みを浮かべる中、男たちはめいめいに焼いた魚を手づかみし、握った飯を頬張り……そして酒を際限なく飲み干して騒いだ。
上座で、豊見親だけが静かに杯を傾けている。
切れ長の漆黒の瞳と、薄い笑みを浮かべた唇。隙の無い物腰。
顔に走る十字傷ですら、その端正な顔の彩りに見える美丈夫。
髪は香油で固めた片頭に結ってあり、どこか匂い立つような色気がある。
王者の風格――そんなものを、この男は発散させているのだった。
「……なあ、あのオッサン誰なんだ?」
暗がりで囁いたアカハチに、クイツは呆れたように返した。
「知らないの? 仲宗根豊見親……今のミャークの実質的な支配者よ。……ミャークで、兄さまはあいつの家に居たみたい」
だからマイツ達はあいつらにへこへこしているのか、とアカハチはようやく理解する。
クイツはいぶかし気に続ける。
「でも、なぜかしら……。豊見親程の人物がハテルマまで来るなんて」
今までの遠征では、息子が名代として来たことはあっても、豊見親本人が出向いてきたことはなかった。
それがわざわざ――ということは、大きな戦の前触れか、それとも何か魂胆があるのか。
二人の間に嫌な沈黙が落ちる。
やがて酒の熱で場が温まったころ、豊見親は口を開いた。
囁くような、しかしどこか底知れない深さの声が、暗がりに潜むアカハチとクイツの耳にもはっきりと届いた。
「お人形のようだった眞與殿が、大きくなられましたな」
豊見親の言葉に、どっとミャークの一行から笑いが起こる。その声には嘲笑の響きがあった。
「……おい、『まよ』って、なんだ?」
ひそめた声で問うアカハチに答えるクイツの声は苦々しい。
「……兄さまの、ミャークでの名前。
『松』なんて土臭い、田舎の名前だからって、ミャークで付けられたのですって。
でも、ハテルマに帰って来てからは、絶対にその名前で呼ばせなかった」
暗闇の中で、クイツが怒りに身を固くしているのが分かる。
「懐かしいですな、祭りで娘の衣装を着た眞與殿をよく覚えていますよ」
豊見親が薄く笑いながら杯を傾け、周りが追従して囃し立てる。
――そうそう、白粉に、紅まで差していましたな――
どっと上がるどよめきの中、取り巻きの一人が酔いに任せて立ち上がり、マツーの髷から一筋流れた後れ毛をつまみ上げた。
――ごらんあれ、今も充分娘のようですぞ。長い黒髪に白い肌!
囃す声がさらに大きくなる。
マツーの顔には表情がないままだ。
物影で拳を固くするアカハチの腕を、クイツが強く握りしめる。
だが、その指もまた怒りで震えているのを、アカハチはよくわかっていた。
「そうそう」
もう一口杯から飲むと、豊見親は呟くように言葉を投げた。
「眞與殿には変わったご趣味があるようですな」
豊見親の切れ長の目が、横目でマツーを見る。
「港で、何やら大きな赤鬼と戯れていましたが……。あれは、飼っているのですかな?」
アカハチの顔色が変わる。
くつくつ、と豊見親は鳥のように喉の奥で笑い、悠々と杯を傾けた。
ミャークの一行の大騒ぎは、もはや止めようもない。
――私も見ましたぞ、天を突くような赤鬼を!
――汚らしい赤毛であったこと!
――これは傑作。女子のような眞與様は、赤毛の鬼を飼っておる!
わあわあ。わあわあわあ。
怒りで真っ白になったアカハチの頭の中に、嘲りのどよめきが意味をなさない音となって響き渡る。
ほんの少し残った理性の部分が、強く爪を立てるクイツの指を感じてはいた。
だが。
――殺す。あいつら、全員殺してやる――
長らく忘れていた、凶暴な熱がアカハチの体を駆け巡った。
その時。
「いいかげんに、なされよ」
酒に酔った空気が一瞬で凍り付いた。
言葉を発したのは、マツーであった。
マツーはすっくと立ち上がった。その目は、背筋を凍りつかせるように果てしなく冷たい。
尋常ではない様子にナレトとナレカが顔色を変え、マイツが真っ青になって膝立ちになる。
物影に隠れるアカハチもクイツも異変に身を固くした。
明らかに、マツーの様子がおかしい。
いつもは穏やかで、声を荒げることなど決してないのに、その声が滴るほどの敵意と侮蔑を含んでいる。
マツーは冷たい目で豊見親を見下すと、滔々と言った。
「私のことだけならいざ知らず、わが友までも侮辱するとは、非礼の極み――。仲宗根豊見親玄雅ともあろうお方が、このような無礼を野放しにされるとは」
なんだと、と横から掴みかかったミャークの男が吹っ飛んだ。
マツーがその腹に強烈な蹴りを入れたのだ。
クイツが息を飲む。
「あの馬鹿……」
アカハチも思わず呟く。
村の喧嘩なら良い。だが、相対しているのはミャークの権力者の一行である。
男たちが、わっとマツーに襲いかかった。
マツーは普段のおっとりした様子からは想像できない素早さで拳をかわし、一人の顔面に肘鉄を食らわせ、もう一人の腹に痛烈な膝蹴りを入れた。
ミャークの男たちが、爛々と輝くマツーの目におびえた様子で後じさる。
マツーは無言でもう一人の襟首を掴むと、胴に拳をめり込ませ、その体を豊見親に向かって吹き飛ばした。
潰れたような声を上げて飛んできた男を、す、と体を引いて避けると豊見親は薄く笑った。
「やれやれ……手がつけられなくなるのは変わらんな」
マツーはどこか焦点の定まらない目で豊見親を見ると、獣のように踊りかかった。
「怒りに酔うか」
呟く豊見親に拳がめり込む……はずだった。
マツーが息を飲む。
突き出された拳は空を切り、敵を失ったマツーは大きく体勢を崩していた。そして、瞬きの間にマツーの背に廻りこんだ豊見親が、薄い笑みを浮かべて腕を捻り上げていた。
そのまま、掴んだ手首を回転させる。
驚きに目を見開いたマツーは、声を発する間もなく床に叩き付けられていた。
「まだまだだな、眞與」
膝と片手でうつ伏せにマツーを床に押し付けると、豊見親は楽しそうに呟いた。
そして、やおら空いたもう一方の手をマツーの首に掛けた。そのまま、じわじわと指先をめり込ませてゆく。
むせてもがきながらも必死に振り返り、凶暴な視線を投げつけるマツーに豊見親は嗤い声を上げた。
だが、さらに手に力を込めようとした瞬間――豊見親は弾かれたように手を引っ込めた。引きつった視線の先に、青い蝶が――青白く光を放つ巨大な蝶達がマツーを守るように乱舞していた。
周りから怯えのどよめきが上がる。燐光を発する蝶たちは、明らかにこの世のものではなかった。
そして、そこに出来た一瞬の隙に――鈍い音が広間に響き渡った。
杯や酒瓶が粉々になって飛び散り、わっと群衆から声が上がる。
物入れから飛び出したアカハチが、豊見親を殴り飛ばしたのだった。蝶たちが青い光の粒になって霧消する。豊見親はマツーからもぎ離されるように吹っ飛んで、広間の壁に叩き付けられていた。
「豊見親様!」
「豊見親様‼」
血相を変えて取りすがる取り巻きを手で制すると、豊見親は悠然と身を起こし、片手で顔を撫ぜた。口と、目の端が切れて血が出ていた。
マイツが蒼白の顔で立ち尽くし、ナレトとナレカがおろおろと動きまわる。
だが、豊見親の顔にはまだ笑みが浮かんでいた。
「さすがは赤鬼――……力だけは強いと見える」
「てめえ……マツーに手ぇ出してんじゃねえ!」
がば、とマツーを後ろに庇うと、アカハチは怒気と共に怒鳴った。
「アカハチ……やめろ、あいつには手を出すな」
むせながら、マツーが必死に懇願する。目に、いつもの澄んだ光が戻っていた。
「大体、俺は最初っから気に食わなかったんだ。偉そうに居座りやがって、何様のつもりだ!」
吠えるアカハチに、豊見親は余裕の笑みを返す。
「愚かな……ハテルマには狂犬が二匹もいたか」
アカハチの額に青筋が立つ。
怒声と共に近くの柱を掴むと、力任せに引きむしる。磨いた丸太がめりめりと音を立てて屋根からはがれ、傾いた天井に満座の悲鳴が上がった。
むしり取った丸太を構えたアカハチに、豊見親は、ゆらりと構えを取った。
「死にやがれ‼」
「死ぬのは、お前だ」
後は、乱闘になった。
波の音だけが響く中、満月の明りがどこまでも続く白い浜を照らしていた。
月明りは、浜に逃げ込んできた二人の少年の姿も煌々と映し出しす。振り返って追手の来ないのを確かめたアカハチは、前のめりになってぜいぜい、と息を整えた。そして、ふと顔を上げて思わず吹きだす。月明りがマツーの顔を照らしていた。
「お互い、酷い顔だな」
乱闘騒ぎの中、殴られ、腫れあがった二人の顔は見られたものではない。
「……ああ、全くだ」
俯いたマツーは砂浜を二、三歩とぼとぼと歩くと、珊瑚の欠片を一つ蹴った。
ぽちゃん、と音を立て、欠片は夜の波間に飲み込まれる。
「……ごめん」
何がだよ、と明るく言ってアカハチも続ける。
「俺も悪かった。あのオッサン、むかつくからって殴ることはなかったな」
困ったような顔で曖昧に笑うマツーを元気づけるように、アカハチはわざと明るい声で続けた。
「俺は今夜、島を出る」
マツーは一瞬、何を言われたか分からないような顔をして、それから悲鳴のような声で続けた。
「馬鹿な事を言うな! 豊見親には僕が詫びる。お前が出て行くことなんて――」
アカハチは黙って首を振る。
ミャークの人間は誇り高く、執念深い。
衆目の中恥をかかせたアカハチを、豊見親は決して許さないだろう。マツーもまた、それは分かっているはずだ。
泣きそうな顔の親友の肩を掴んで顔を覗き込むと、アカハチはきっぱりと言った。
「俺も、広い世界を見てみたいんだ」
その声に、断固とした決意を感じたのだろう。マツーは目を伏せて唇を噛んだ。
二人はずっとこの島で共にあるのだと、どこかで二人共、信じていた。いや、信じていたかっただけだ。
「ずっとの別れというわけじゃない。おれは馬鹿にされたままじゃ終わらない」
顔を上げたマツーを励ますように、アカハチは続ける。
「もっと広い世界で、おれは名を上げる。有名になって、金持ちになって――。次に会う時には、お前と並ぶくらいになっているから」
――豊見親にも負けないくらいに。
言外のそんな響きに、マツーは頷くしかない。
「だから、お前もこの島でしっかりやれよ。
次に会う時には、お互い一廉の男になっていよう」
な、と励ますように覗きこむアカハチをマツーはしばらく見つめ、やがて決心したように頷いた。
「わかった。約束だ」
そして二人の少年は見つめ合い、固く手を握り合った。
泣きたくなるのをこらえて、わざと笑顔を作って。
いつまでも惜しんでいたいそんな時を、不意に破るものがある。
遠くから近づいてくる、いくつもの松明の明かり。
「ちぇ……もう探しに来やがった」
忌々しそうにつぶやくと、アカハチは笑って別れを告げた。
「じゃあな」
「アカハチ!」
「なんだよ」
マツーが急いた様子で懐を探る。
「せめて、これを持っていってくれ」
差し出されたのは、マツーがいつも身に付けていた護身用の短刀だった。素朴な意匠の、美しい刀だった。
「……ありがとな」
アカハチはなんとか明るい声で返す。これを受け取ってしまったら、本当に別れになってしまう。分かり切ったことなのに、なかなか笑顔を作ることができなかった。
急いで踵を返そうとするアカハチに、マツーの声が続いた。
「だけど、出て行くって……船は? どうやって――」
振り返ったアカハチは陽気に言い切った。
「船ならある。豪華でいいやつが」
一瞬思案したマツーの顔が、曇る。
「まさか……」
眉をひそめるマツーに、アカハチはにやりと笑う。
「豊見親様、大変です! 船が、船が――!」
血相を変えて飛び込んできた部下の声に、豊見親はゆるゆると寝台から身を起こした。
濡れ布を当てた額に、大きなたんこぶが腫れあがっている。
「豊見親様、起きてはなりません、どうか――」
血相を変えて引き留めるマイツを振り切って高台に向かった豊見親は、愉快なものを見ることになった。
平坦な島の彼方の水平線に、遠ざかってゆく小さな明かり。
「あの小僧……私の船を奪って行きおった」
傍らに追いついたマイツが真っ青になって震え、小さな声で呟く。
「……これから、嵐が来ます。あの船は、きっとどこへも着きますまい……」
だが、そんな様子も意に介さず豊見親は笑った。
はじめは小さく、そしてやがて高らかに。
豊見親は楽しくて仕方がなかった。
久しく出会っていなかった、傑物の登場が。