生あたたかい血
――時を少し経て 平成30年 03月 30日 金曜日 朝9時43分――
見ると正道の右膝の下10センチくらいのところから鉄筋コンクリートの芯鉄を思わせるかなり太い鉄の棒が突き出ている。鋭利な先端には血と皮膚のような組織片がこびり付いている。
「――ぐっ」
真っ暗がりでそれが眼に映ってなかった時はそうでもなかったのに、それを目にした瞬間変な汗が吹き出て、正道は慌てて両手でがっしりと自らの右腿を挟み込んだ。
桜子を庇うため上から覆い被さっていたのだ。天井からの崩落物であれば、後ろ脹ら脛から刺さり、骨を貫通して脛に出たのだろう。
異常な痛みに言葉すら出ない。
「大変!」
桜子はその正道の様子を携帯のディスプレイの明かりを向けて見て突き出ている鉄の棒に手を伸ばすが、痛みが自らにまで伝わってくるようで、怖くなって画面の明かりを傷から遠ざけ、自分の方に向ける。ふと眼を伏せて、そこで初めてディスプレイに表示されている文字を見た。
Jアラートの第三報は途中まで正常に受信できていたが、後半は文字化けが発生して意味不明な文字列が続いていた。
電波感度は圏外という見慣れない表示になっている。
都内では地下鉄でだって圏外には滅多にならないし、緊急回線は扱いが別なのではという思いが一瞬で駆け抜け、急ぎ緊急の表示をタップして119と押す。しかし繋がらない。
「……うそ!」
周りの様子は窺えない。そろりと立ち上がり、
「すみません! 誰か! 誰かいませんか!」
と叫ぶが返答は無く、声は反響しながら暗闇の中に消えていくだけ。
やはり遠くで水の流れる音が聞こえるだけだ。
「そんな……、日向さん!」
正道の怪我に本人以上に慌てている。
「かなり、い、痛ったいけど、大丈夫だから。
それにこれ以外には怪我もしてないみたいだから。
落ち着いて? お、扇谷さん」
脂汗は止まらない。両手でしっかり腿を挟んだまま、顔だけは少し落ち着いたフリをして彼女に語りかける。
「うそです……、大丈夫なわけないです。
早く治療しないと。
電話、繋がらないし。
誰か、私、誰か捜してきます。さっきの刑事さん達!」
携帯のライトを辺りに向け、彼女は交番の職員を捜し始めた。二人の居たところには奇跡的に瓦礫も落ちていなかった。振動でスチールの机の引き出しが半分開いている。正道の上に半分かかっているそれに、先ほど彼女はしたたか頭をぶつけた。
正道は自らの傷を手で抑える事で一杯だったが、携帯の光が当たると滅茶苦茶になった交番の様子が照らし出されてゆく。桜子が光量を最大にして、明かりを元々交番の入り口があった方に向けた瞬間――。
「――そんな!! あお、き、さん?」
急に彼女が悲鳴にも似た叫び声を上げたので、正道は顔を上げ桜子に眼を向ける。
「やだ……」
そう呟くと携帯を手から離してしまったらしく、明かりが四方八方を映し出し、
一瞬天井にどす黒い何かの広がりが見えたが、カツンと音を立てて床に落ちた。
明かりが無くなり交番の中が真っ暗に戻り、それと同時にどさりと音がした。
彼女が倒れた。
「扇谷さん!? ――くそっ!」
彼女までは数メートルしか離れていない。
だが激痛がする右足を引きずって立てる状況まではまだまだ回復していない。
何があったのかは解らないが、なんとか彼女のところまでは行かなければ。
暗闇の中で、飛び出た鉄の棒が床や肌に触れないよう、右足を微妙に曲げたままの姿勢で、
尻を引きずって後ろ方向に腕を突っ張って移動する。
少しの移動でも悲鳴を上げそうになるが我慢した。
「扇谷さん! 大丈夫!?」
彼女の隣まで来て携帯を拾い上げると、暗闇にまた明かりが広がる。
光を彼女に向けると、彼女は口を押さえて倒れていた。
肩をさするとすぐに気がついた様子で、いきなり正道に抱きつく。ガタガタと震えている。
しかし、正道の傷に配慮してくれてわざわざ左肩に抱きついてくれた。
「大丈夫?」
声をかけつつ、正道は左手を彼女の背に回し、
右手に持った携帯を先ほど彼女が見ていた方向へ構えた。
するとそこには、人の下半身があった。
――言葉が出なかった。
元々交番の入り口だった部分が、外の建物が崩れて落ちてきた巨大なH鋼に塞がれており、
それに上から押しつぶされる形で交番内に向けて人の下半身だけが投げ出されていた。
グレイのスーツとパンプスのから、その体がさっきの青木という警視のものだと解る。
周囲にはおびただしい量の血痕が広がっている。
先ほどの突風のせいか血痕は下から巻き上げられる形で、扇状に天井にまで広がって染みを作っている。
本能的に危険を感じて、彼女を左手でしっかりと抱き締めて二、三歩分後じさるが、足の痛みが酷い。
「――うう」
と、声を漏らしてしまう。
その声が彼女の耳に届いたらしく、彼女は震えながらも顔を上げた。
しかし、彼女は涙を流していて、呼吸がおかしくなっていた。
ヒューヒューという呼吸。喉に手を当てている。
「い、息が……」
尋常ならざる恐怖の連続に耐えられなかったのか、過呼吸の症状に見舞われている。
左手を正道の首元に弱々しく添えるが、かなり苦しそうだ。
「扇谷さん! ……過呼吸? パニック症状か」
知識があるわけでも無いが、状況を見れば明らかだ。
自らも飲まれてしまいそうだが、冷静になり考える。
しかし咄嗟に思いつく対処もない。焦っては駄目なのだけは解る。
まず、彼女の腰に回している左手の力を緩めた。
おぞましいものを照らし出していた右手の光もそれから遠ざけ、右手でも彼女を包み込んだ。
正道は自分が先に深呼吸を始めてから、
「大丈夫だから。俺たちは助かるから」
と言って彼女の背中をさすり、
「深呼吸して」
と促した。
先ほどまでは自分の血の臭いなのかと思っていたが、息を吸い込めば濃厚な血の臭いが辺りに漂っていた。これは目の前の遺体から放たれる臭いだったのか。この環境での深呼吸にどの程度安息効果があるかは解らなかったが自分にとりあえず出来る事を冷静に。と言い聞かせる。
――次第に彼女の呼吸も落ち着いていった。
「――はぁ、ありがとうございます。もう大丈夫です」
彼の胸の中で彼女が顔を上げた。
小さくはかない命がそこにあるように感じ、正道は改めてこの状況を乗り越えなくてはと思う。
「あーよかった。俺も流石にあれはパニックになりそうだったよ」
「ご、ごめんなさい。青木さんだってあんな亡くなり方したくなかったはずなのに、私怖くて……」
彼女の頬を涙が一粒伝っていったのは暗闇の中で見えなかった。
正道が右手の携帯を持ち上げると、また少し明かりが広がる。
「あ」
すると彼女が弱々しく声をあげ、
「あの、もう少しだけ、こうしてて貰っても良いですか……」
彼は彼女を優しく抱き締めているままだった。
「ああ、うん、はい」
なんとも不器用な返事しか出来なかったが、それは高校生がいきなりこんな、
人の死体や、グロテスク極まりない大怪我をみたらパニックにもなるだろうなと正道は思う。
まして女の子だものなと。
暗がりの中にしばらく居たのが効いたのか、携帯の明かりが弱くとも徐々に目が慣れてきて、
辺りが見えはじめていた――。