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暗転の瞬間――桜子――

――平成30年 03月 30日 金曜日 朝9時⁇分――

 ――人の五感の中で耳の機能は人が死ぬとき最後まで残る。

 大好きだったおばあちゃんが亡くなったとき、お父さんに教えて貰ったことだった。


 異常な金属音が上空でしてから、落下音がしてその後はもうものすごい音の連続だった。

 それでも五分も経たないうちにそれも終わったのだ。

 遠くで水の流れる音が聞こえる。

 足下の暗がりから逃げ出す鼠の声が聞こえる。

 危険を察知し外にあふれ出すゴキブリの足音さえ聞こえる――


 私は死んでしまうんだろう。

 なんて情けない最後だったんだろう。

 最後の日に痴漢冤罪をでっち上げて、小銭を稼ごうとするなんて。

 きっとこの鼠とゴキブリの音は、自分を地獄に連れて行くために来た使者なのかもしれない。


 聴覚はそのままに、

 体には何が起こったのか全く解らない。

 ただずっと、温かい何かに抱かれている気がして、

 これはそう、私が三歳の頃の一番古い記憶だ。

 お母さんが少し離れたところで微笑んでいて、私は大好きなお父さんに抱っこされている。


 ――そうかこれが走馬灯なんだ。 


『桜子、桜子、パパは桜子が大好きだよ』

「わたしもパパ大好き!」

 お父さんの大きな腕の中は、言いようのない安心感に包まれていて。

 あの頃は、家族も皆が仲良くて。

 私は、幼稚園に上がっても、小学校に入ってもお父さんが大好きで。

 いつもお父さんとお風呂に入っていたのだけど、

『え、桜子ちゃんお父さんとお風呂入ってるの!? お父さんヘンタイー!』

「えっ!? ……わたしのお父さんはそんなんじゃ……」

 しばらく経ってからは、

「そうだよね、お父さんとなんかお風呂入らないよね! さとこちゃん!」

『そうだよね、桜子ちゃん!』

 友達との体裁を、小さいなりに守りたくて、お父さんを拒否してしまったんだった。

『桜子、今日はお風呂一緒に入らないのか?』

「う、うん、私ももうお姉さんだからね! お父さんなんかとお風呂一緒に入らないんだからっ!」

 今思えば、小さな反抗期。

 でも、お父さんに甘える時間はその時終わった気がしていて。

 中学校は公立で、その頃には周りの女子と同じように、お父さんは大っ嫌いだった。

『桜子!』

「なによ! 怒鳴らないでよ! バカ!」

 バカ、ハゲ、ヘンタイ。ちょっと、ねぇ、あの。って呼び方を今でもしている。

 意識してお父さんなんて恥ずかしい呼び方しないようにしなきゃ。

 同級生にも馬鹿にされちゃうし。

 でもどうしてか、初めて好きになった男の子に抱きつかれたとき、

 とてもいやらしくて怖い感じがして、一週間でお別れしちゃったんだった。

 お父さんの抱っことまるで違っていて。

『桜子、将来の事は未だ決めなくていいけど、お父さんは仕事頑張ってるんだ。お金は出すから良い高校に入ってくれよ』

 今にしてみれば、反抗期の娘に最大限譲歩したお願いだったんだろう。

 私は塾の模試とかでは優秀だったし、先生にも大手の大学付属の高校を受けられると太鼓判を押してもらっていたから、なおのこと、こういうお父さんが、私が勉強が出来ることすら知らないのかと呆れかえって聞き流していた。この言葉には声すら返さず無視を決め込んだんだった。

 T女子校は名門お嬢様校で、入学した時は両親ともに鼻高々だったろうに、

 お父さんが仕事の都合で入学式に来てくれなかったことを凄い怒ったんだった。

「どうして来てくれなかったの!?」

『ごめん、大事な商談だったんだ』

「娘より仕事が大事なの!?」

『ごめん、桜子』

「アンタなんか大嫌い!!」

 そういえばあれ以来まともに口を聞いていない。

 その後は芽衣子率いる悪い女子グループに加入して、高校受験で燃え尽きて、グレてしまった女子高生のフリをして、そのロールを楽しむことしかしてこなかった。


 ――でも何故、こんな時に思い出されるのが、お父さんの事ばかりなんだろう。

 小さい時に散々抱きしめてくれたお父さん。あのお父さんが大好きだったんだ、私。

 今もその心地よさに包まれて、死ねるんだ。あの男の人には悪いことをしたのに。

 あの人は身を挺して、私をまるであの頃のお父さんのように大切に抱きしめて――


 ふと、桜子は暗がりの中で眼を開いた。浅く呼吸する自分の呼吸音が聞こえる。

 瓦礫の崩れゆく音は収まって、水の音、鼠の声、虫の足音、

 その他には、自分の顔から少し離れたところからするもう一つの呼吸音がしているだけ。

「……私、生きてるの?……」

 そう呟いた筈だったが、口の中に入り込んだ細かい粒子がざらつき、途端にむせ返ってしまう。

 暗がりで辺りの様子は解らないものの、自分の腰の部分に他人の温かさを感じていた。

(そうだ、あの時、日向さんに抱き締められて、それで……)

 上半身を身じろぎすると、しっかりと未だ彼の腕の中に自分が居ることが確認できた。

 初対面の男に抱かれているのに、初めて付き合った男子に抱きつかれたときのいやらしい感じではなく、この男性の腕の中に居ると、まるで父の腕の中のようだった。

 温かくて心地よくて、優しくて。

 意外にもしっかりと抱き留めてくれている彼の腕を解いて、すぐ近くにある彼の呼吸音の聞こえる、

 顔のあるだろう場所に手を伸ばす。

 彼の耳の下の首筋に手が触れたところで、ぬるりと汗とは異なる手触りを感じ一瞬おののく。

「血。――怪我してる?」

 そのまま彼の頬に手のひらを滑らすと、彼は呻いて頭を桜子の手のひらに押しつけるようにして倒した。すると、彼の倒した頭の向こうには、暗がりが裂かれている箇所があって、赤茶色の煙も立ち上ってはいるが、遙か遠くにかろうじて青い空が姿を覗かせていた。

 私は上を見ているんだと、彼女は自覚する。

 彼は覆い被さる様に、彼女の上に。

 手を彼の頬についたまま、揺さぶる。

「あの、大丈夫ですか!? 日向さん!」

 彼女の声に反応して、彼が何度か不規則な呼吸をした後、

「――う。うう」

 彼も気がついたようだ。

「キミ、大丈夫?」

 開口一番、彼は桜子の身を案じた。

 自由になっていた手で探るように暗闇を掻いて、

 桜子の左頬に指が触れ、一度躊躇って離れた後に、彼女が彼にしているのと同じように、

 彼も彼女の左首筋に手を触れるが、そこにぬるりと汗と異なる感触。

 桜子自身、自分が負傷しているとは思っていなかったので驚く。

「キミ、怪我してる、の?」

「だ、大丈夫です。私よりあなたのほうが、耳の下のところ。血が……」

 遙か遠くの空からの光は、辺りを照らす程強いものではない、

 眼が慣れてきているとは言え、彼も彼女もお互いの顔を黒い輪郭程度にしか見えていない。

「そうだ、携帯っ。ちょっと待って下さい。あ、あの、もう大丈夫ですから腕を」

 彼女が少し恥ずかしがりに言うと、彼は慌てて、

「ああ、そうだったごめんね」

 と、言うなり彼女を解放し、彼女の横に寝転んだようだが、

「うっ!!」

 痛みを耐える声をだして、彼の呼吸音は早くなった。


 水の流れる音は絶えず聞こえている。

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