第3幕 死都へ/桜花の海の悪鬼たち。
猛将ラカンと手を組んで、死都へと急ぐ天歌たち。狙うわシドーの首!
しかし、その頃、ミカドよりシドーに与えられたサムライたちの長、サカキが動いていた。シドーへの疑念を晴らすべく、戦う覚悟をもしてシドーへ説明を求めたのである。
そして、シドーの邪悪な企みが動き始める……。
邪悪な魔物に剣聖に、戦いにあふれた第3幕。
第3幕 死都へ/桜花の海の悪鬼たち。
『死都』……かつてのショーグン家の本拠地の都である。南方から運ばれてくる海産物と、北方からもたらされる大陸の品々や文化が、この地を豊かなものにしていった。わずか一年前まで、ここは東の地にて最も栄えた城塞都市であったのである。
だが、今ではもう生者は一人として住み着いていない。
焼け落ち崩れた建物も多く、道を歩くのは亡者の群れと悪鬼の類いのみである。
シドー率いる軍勢の一部が、朽ちた都が見下ろせる丘に集まっていた。騎馬武者が20に、歩兵が15……皆、ミカドの命を受け、シドーへ配下として彼に貸し出された強者たちである。
剛毅さと練度を併せ持つ西のサムライたちであったが、その無残に荒れ果てた都市を見ているだけで吐き気を催してしまう。
かつての大通りをうろつく巨大な獣たち、それに追われて食われる亡者どもの群れ。屋根には餓鬼どもがコソコソとうろつき、人骨とおぼしきものをがじがじとかじっている。どこを見ても、ここはグロテスクな光景にあふれていた。
ただでさえ、東の地にはバケモノどもが多くうろついていて辟易していたというのに、ここには一体、どれだけのバケモノがいるのか、まったく想像もつかないのだ。
そのうえ、この死都で最も多くの魔物がたむろしている場所に突撃して、魔物の霊長たる『シナズヒメ』を討つ……?
熟練した軍事のプロフェッショナルであるサムライたちには、それがあまりにも無謀な作戦であることはよく理解できていた。
そんなことは、不可能なのである。だが、その不可能を克服するために、陰陽道の大家であるシドーが、この集団の長となったはずであった。
シドーには『秘策』がある。サムライたちはそれだけを聞かされてはいたが、呪術に疎いサムライたちに、その策とやらがどのようなものであるかは、まったく見えてこなかった。それゆえに、彼らは深い疑心と不安に取りつかれている。
この死都にたどり着いてから丸二日が経とうとしていた。サムライたちは不安を隠したまま、シドーとその部下である陰陽師たちの指示に、ただただ盲目的に従ってきたのだが……彼らはそろそろ確信が欲しくなっていた。
ミカドから与えられた命令を、自分たちは実行できるのか?
それとも。
このシドーという陰陽道の大家でさえ、これだけの手勢で死都を攻略することなど不可能なのか?その不可能じみたことは、やはり不可能であり、シドーはただただ追放された異端の身から逃れるために……あるいは朝廷に住まう顧問陰陽師の地位欲しさのために、ミカドへ嘘をつき我々をたぶらかしているだけではないのだろうか?
サムライたちは古寺に陣取り、そこへこもりつづけているシドーに疑念を深めつつあった。そこで、サムライたちの代表であるサカキは、この疑念を晴らすためにシドーのもとへと向かっていた。彼は、返答次第によっては、シドーをその手で斬るつもりである。
―――勇猛果敢で知られるサカキというサムライでも、この土地にいたずらに長くいることを楽しめてはいないのだ。幾度かバケモノたちの襲撃もあり、シドーの式神・鬼兵士とサムライたちの活躍でそれらはしのいでみせた。
だが、死傷者も出ているのが現実だ。補給を頼るはずであったリョウゼンの手勢は一人として駆けつけてこないまま、そろそろ食料の備蓄も余裕がなくなりつつある。
このまま、解決策を見いだせずにここへ居続ければ、サムライたちの気力が保たない。長い遠征に疲れ始めているこの一団が滅び去るまで、そう長い時間が残されているわけではないのである……。
サカキには、動く必要があったのだ。
「シドー殿、邪魔をするぞ!」
古寺に乗り込んだサカキは、自分を制しようとする陰陽師たちを振り切り、本堂の前に仁王立ちになると、猛々しい声でそう宣言した。シドーはしばらくの沈黙のあと、サカキに返事をしてやった。
『―――ふむ。サムライ大将のサカキ殿か。あまり邪魔されたくはないのだが……よかろう。入って来るといい。その声に含まれた怒気、ワシへの不満があるのだろう?』
術に疎いサカキといえど、シドーの声に宿る違和感に気がつけないほど鈍感ではない。その声は、山彦のようにどこか不思議な響きを含んでいる。これは……『術』か。どこか離れたところから、術越しで拙者と会話しておるのだろう。サカキはそう結論づけた。
「……ええ。すでに二日もここに留まっているのです。そろそろ、あなたの策とやらを、面と向かって説明していただきたいところですな」
『なるほど、分かり申した。そのままお上がり下され』
「では、入りますぞ!」
サカキはいささか礼儀を欠く乱暴な態度のまま、古寺の本堂へと乗り込んでいく。
障子を開け放った瞬間……濃密な『香』のにおいをサカキの鼻が感じる。薄闇の奥から、貴族の夫人でさえ拒むであろうほどの強い花の香りが漂ってくる。悪いにおいではないが、あまりにも強すぎるのだ。
「……う。これは、いったい何の香ですかな?」
『なあに、屍体をいじくっておるのでな。腐敗臭がものすごいのよ。それをごまかしておるだけだ。さあて、奥へと来られよ、サカキ殿』
―――屍体をいじくっている?
サカキはその言葉に思わずギョッとしたが、異端の陰陽師のすることに、一々驚いていてもしょうがないであろうと覚悟を決めると、シドーの言葉のままに寺の奥へと進んだ。
薄暗い廊下を歩く。シドーの声が、まっすぐ進め、今度は左だ、などとサカキを導いてくれる。サカキは、刀から手を離すことはしない。もし、サムライたちの抱く疑念が正しければ……シドーは自分を殺そうとするだろう。サカキはそう考えていたからだ。
手勢のサムライが全滅すれば?……死都への『大冒険』も失敗だ、もはや撤退するしかないという建前もシドーには立つかもしれないのだ。
もちろん、堂々と西の都に帰還するには、何かしらの『手土産』も必要となるだろうが、そもそも、ミカドが求める呪術を、シドーは幾つも手の内に持っているはずだ。先代のミカドが禁じさせた邪悪な術の数々も、この戦乱の世では、ミカドの役に立つであろう。
サムライたちとは違い、シドーには西の都へ帰還するための『取り引き材料』もあるのだ。それに比べて、サムライたちにそのようなものは一つとしてない。
ラカンとキツネたちの裏切りのせいで、ミカドは西のサムライさえも信用しなくなってきている。サカキは、この遠征そのものさえ、ミカドが自分たちを体よく抹殺するための方便に過ぎなかったのではないかと疑う夜もあった。
―――どうあれ、そろそろ真実を確かめなくてはならん。
「……こちらだ、サカキ殿。中庭に降りて参れ」
シドーの言葉に従い、サカキは薄暗い廊下から、天日差す寺の中庭へと足を踏み入れる。
そこにあったのは、猟奇的な……しかし、それでいて美しくもある存在であった。
庭中に立ちこめた香のにおいの中心に、巨大な桜の古木が生えていた。300年の樹齢は過ぎ去っているであろうその巨木……不思議なことだが、季節でもないのに満開の花をつけていた。いや、風に吹かれるたび、それらは散って、庭の土へと雪のように積もっている。咲き続け、散り続けているのか……これが、シドーの術か。
桜のうつくしさに魅入られるように、サカキは大樹のそばへと歩を進める。そして、サムライは邪術の集大成と出会うのだ。
「……琥珀姫」
……それは、うつくしい娘の亡骸。
水色のながい髪と、ゆたかな乳房、白い腕。女の『上半身』が、桜の太い枝らに鎖で吊されていた。香は、彼女のために焚かれていたのだろう。死んでも彼女はうつくしいままだが、すでに腐敗は始まっているはずだ……。
「―――死してなお、体を破壊されてなお、うつくしいものであろう?琥珀姫は」
シドーがサカキのとなりに並び立つ。サカキは、まったく気配を感じさせずに自分に近寄ってきていたシドーに驚く。だが、おそらくこの異様な光景に自分が圧倒され、さらに、雪のように積もった花びらたちのせいで足音を消されていたからだと判断した。
内心の動揺を隠すために、サカキはその亡骸について質問する。
「琥珀姫の屍体をもって『兵器』をつくる……その意味、つまりはどういうことなのですかな?私はサムライに過ぎません。呪術や陰陽にまつわることは、疎いのですよ」
「ハハハ。まあ、そうであろう。ごもっともだ。とりわけ、ワシの術は異端であるからして……いいでしょう、すべて説明しよう。サカキ殿の抱く、ワシへの不信を晴らすために」
「……そうしていただけるなら、幸いですな」
シドーは桜の大樹へ……琥珀姫の亡骸のもとへと進む。サカキはそうなって初めて知るのだ、シドーの衣服がたくしあげられており、その手足を始め、服や顔にまで血がべっとりと付着していることを。まるで、狩猟した動物を解体でもしていたかのようだ。サカキはそんな印象を抱き、そして、その印象は遠からず正解してもいる。
「琥珀姫の亡骸を、調整しておるのだ。彼女は怨憎にまみれ、その血筋に宿りし龍の力を目覚めさせた……より正確には『巫女』として覚醒し、この地にうずまく黄泉の力を取り込んだのだよ。『シナズヒメ』と同様にな」
「……怨憎にまみれさせるために、あれほど苛烈な拷問をかしたわけですな」
「そうである。なかなかの見物であったな。男どもに犯され泣き叫び、舌を裂かれ、鉛を飲まされ腹を焼かれる……ククク!ああ、なんとも見事な拷問っぷりでしたぞ、貴殿の部下たちは!若いということは、よいことですな。何事に対しても貪欲だ」
「……彼らは、あなたの命令に従ったまでのこと」
「そうか?喜び勇んでおったようにワシの目には映ったがな……まあ、よい。ヒトは己のなかに認めがたい衝動を抱えているものだ。認めなくとも、結局はその衝動に支配されるのだがな……おっと、思い出話に花を咲かせているだけでは、貴殿の疑念を晴らせぬのう」
「……ええ」
「琥珀姫は『シナズヒメ』と同じになった。だが、それではまだ足りぬ。短時間でもよいので、『シナズヒメ』を超えてもらわなくてはならない。そうでなければ、死都に跋扈する魔物どもを鎮められない。鎮められなければ、『シナズヒメ』の御所に接触できん」
「ショーグン家の城塞跡か。『シナズヒメ』の根城だな」
「そう、彼ら血族の呪いと血で満ちた地下迷宮よ。あれは、おそらく『竜宮』だな」
「……竜宮?」
「おとぎ話にあるだろう?龍神の姫が住まう、常世ならざるうつくしき魔界だ。『シナズヒメ』もまた、龍の血にまつわる姫君よ」
「琥珀姫と同様に?」
「そうとも。かつて、ショーグン一族がこの東の地を支配したおり、彼らはこの地の豪族どもと婚姻をもった。その豪族たちの多くが、もともとこの地を聖地として奉っておった龍神の末裔たちよ。ショーグンらは龍の血と交わり、その聖地に居城を構えたのだ。この土地の『新たな支配者』としての名実を、明らかにするための行為だな」
「……龍の聖地。ゆえに、竜宮?」
「そんなところだ。もとより、遺跡があったのよ。黄泉にも近い、龍の気に満ちた魔界の砦がな。その上に、ショーグンらはかりそめの城を建てた。真の本丸は、そもそも地下よ」
「……今になって、そんなことを教えていただけるのですな」
「ああ。あれを攻略するには必要な情報かもしれないからな。さて、そろそろワシの秘策について明かすとしようか」
シドーは指でなにごとか印を結ぶ。すると、シドーの術にあやつられ、鎖が生きもののように動き、桜につり下げられていた琥珀姫の上半身が降りてくる。
「シドー殿……彼女の『下半分』は、どうしたのだ?」
「あせるでない。もちろん、余すこと無く有効に利用させてもらっておるぞ」
琥珀姫の亡骸に近づいたシドーは、ぐったりと下を向いていた彼女の首をガクリと後ろに倒し、天を仰がせる。やはり、亡骸か……瞳がにごりはじめている。サカキはあのうつくしかった少女の姿を思い出すと、なんとも心が辛くなった。
「……フフフ。顔を曇らせることはないのだ、サカキ殿。彼女は今まさに『芸術』へと昇華していく過程にあるのだから」
「『芸術』?……拙者には、腐り始めているようにしか見えん」
「それでいい。肉がやわらかくなれば、それはそれで作業がはかどるのだよ」
「作業、ですか」
「そう。作業さ。ワシは、彼女を『つなげて』おるのだ。とくに君が曰くの『下半分』をつかってな。彼女の骨と皮と肉と臓腑……それらで、結びつけておったのだ」
「彼女を『何』とつなげているのです?」
「この地に眠る存在とだよ。そうすれば、琥珀姫は『シナズヒメ』を超える。君や君の部下たちに、『シナズヒメ』の霊威を封じるという名目で、死都にある霊場を巡らせ、結界を張らせた。ご苦労だったな」
―――そんな言葉でねぎらえきれる苦労ではない。15名。すでに、それだけの若いサムライが命を落としている。神社や仏閣、地蔵……そんなものに陰陽師どもが何かを仕掛ける。その時間を得るために、サムライたちは多くを支払ってきた。
「フフフ。犠牲者の出る過酷な任務であっただろう?……だが、ワシはワシで、『目的』を果たすために働いておったのだよ、とても忙しくな―――」
「―――それで、貴方の『秘策』とやらは、本当に完成するのですか?……なにより、その完成は、果たしてミカドの命にそぐうものなのでしょうかな。いささか、疑問ですぞ」
サカキはこの陰陽師と長く会話する気が失せてしまっていた。この男は正直者などではないのだ。様子をうかがいながらの会話では、まったく時間のムダだと判断していた。シドーは腕を組み直し、サカキのことを正面から見つめ直す。
「……ふむ。サカキよ。どうやら君は真実を追究するタチかね?……サムライとは、与えられた正義に対し、ただ、ひたすら盲目的に従うことを美徳とするのではなかったか?」
「ミカドへの忠はつらぬく。だがしかし、あなたは仮初めの主に過ぎん。ここらでハッキリとさせておきたいのですよ。あなたの『目的』というのは……『我々の目的』とどこまで一致しておるのですかな?あなたは、『シナズヒメ』を討ちたいのですか?それとも、『別の目的』のために、我々をただ利用しているだけなのか?」
「……ふむ。思ったより、賢かったか。そなたは、なかなかに優れた洞察をしている」
「……誤魔化すことさえしないのですな」
「君には通じぬだろう。ワシも、ムダなことは嫌いだ」
「何を企んでいるのだ、シドー」
サカキはゆっくりと刀を抜く。その所作を見て、シドーは目を細める。
「ほう。天狗の剣……斑尾流か。すぐれた剣術だな、アレは」
「……色々と詳しいようだな」
「まあな。我が師アーシヤは天地のすべてを識れと、弟子を教育する男であった。陰陽、天体、呪術……そして、武の道。すべてを網羅しておるよ、彼の継承者であるワシもな」
「殺される前に話しておけ。ミカドや我々を謀り、どんな悪夢を貴様は求めた?」
「ククク!ああ、いいね。詩的な感性を帯びた質問は好きだぞ……いいとも、貴殿に教えてやる。冥土の土産は多い方がよかろうしな」
そう言いながら、シドーは琥珀姫の亡骸から手を離す。そして、シドーはゆっくりと天を仰ぐ……いや、彼らの頭上で舞い散る古き桜の大木を見上げているようだ。
「サカキ殿よ。この桜、いささかおかしかろう?季節でも無いのに、咲き狂っておる。むろん、ワシの術と、琥珀姫の霊威がそれをさせておるのだが……原因は他にもあるのだ」
「どんなものだ?」
「この古寺もまた、龍どもの遺産なのよ。まだ、ヤツらの血が濃すぎて、魔の霊長たる威厳を損ねておらぬ頃のな……ヤツらの本態は、丘のように大きな巨体である。クジラよりも大きな魔王もいたのだ。蛇にも似ていたと伝わるが、実際のところそうではなかった。獣だ。きちんと、太い手足も生えておったぞ」
「……文献で読んだというような語りぶりではないな」
「ふふ。ミカドが君を選んだ理由がよく分かる。君は洞察に優れているのだ。忠誠心もある。ミカドに、術を刻まれただろう?」
その指摘にサカキは驚く。ばれることはない、とミカドに伝えられていたことだった。だが、今、シドーの一つしかない眼球は、サカキの左の瞳をのぞき込んでいる。
「瞳の奥に術を刻まれている。おそらくは、君を通じて見ているのだろう、ミカドもな。猜疑心に取りつかれたみじめな男が、ワシを野放しにするほどの余裕を持てはしまい」
「無礼だぞ、シドー!」
「真実とは、偽れる正義なぞとはつねづね真逆に位置するものだ。ああ、惜しいことよのう、サカキ。貴様がミカドごときの犬でないのであれば、もう少し長生き出来た。『シナズヒメ』と戦う機会を与えてやっても良かったのにのう。どうせ、アレには勝てぬがな」
「……謀反と見なす。斬らせてもらうぞ、シドー!」
「ククク!素手であるワシに、『西の剣聖』と歌になった男が一方的に斬りかかるか?」
「貴様は、武器を隠している!何かは知らぬが、見抜けぬとでも思っているか!」
確信している。身の危険があることも。シドーという者の実力が底知れぬことも。それでも、サムライは底知れぬその邪悪に斬りかかる!シドーは、一太刀目を素早く躱した。桜花の雪原に飛び込みながら、器用に身を回らせていた。
「おのれ、柔術の類いもおさめておるのか!」
「当たり前だ。アーシヤは、あらゆることを識っていた。そして、ワシもな」
「ならば、容赦はせんぞ!」
「君のような男は、仕事に手を抜くことはなかろうよ」
サカキは足下に積もった桜花を蹴散らしながら、シドーに幾度となく斬りかかる。シドーは巧みなステップと躍るような上体の反らしを組み合わせ、白刃の襲撃を避け続けてみせた。シドーの瞳が、暴れる剣聖の動きをじっと見つめている。それは、なんとも不気味な感覚だった。
サカキはその不穏な空気を嫌う。動きを観察されている。長くつき合えば、不利になるだけだろう。彼は、速攻を選んだのだ。サカキは剣舞のリズムを急変させ、攻撃を陰陽師に命中させる。シドーの左腕を、刀が浅くではあるものの切り裂いた。シドーは感心する。
「ほうほう。さすがは、歌に詠まれしサカキ殿。素晴らしい太刀筋よ。斑尾の真髄、極めつつあるようだな。西に伝わる天狗の剣……東の天狗と、どちらが厄介だったのか」
「……逃げ続けるだけか?いつかは我が剣、貴様の首を捉えるぞ!」
「ああ。たしかに。今のも刀を持っていないからこそ、避けられたに過ぎん。わずかでもワシが武装しておれば、ワシは遅れ、そなたの剣はすでにこの腕を断ち切ってしまっていただろう。そして、そなたは無言のままにワシの首を断ったのだろうな」
そう。実力……剣の実力だけなら、サカキはシドーを圧倒している。それは理解しているのだ、お互いに。ならば、なぜシドーはあそこまでの余裕を持つ?……式神か?
「うむ。一瞬だけ、琥珀姫を見たな。ワシがアレを使うと考えたか?いい洞察をしているし、冷静なことは評価しよう。だが、もし、そなたが東の天狗とやるときがあれば、そういう動きをせぬほうがいい。アレは、その刹那の隙を絶対に逃さぬぞ?」
「……心得ておこう。天狗より伝えられし斑尾の剣で、東の天狗など、たやすく斬ってみせようぞ。シドーよ、その様子、地獄から見ておれ」
―――やれやれ、挑発が過ぎて本気にさせてしまったな。もう48になる……老いを感じるワシの脚では、そろそろ避けられまいて。シドーはそう考える。
斑尾の剣聖の『本気の攻撃』がこれから始まる。まちがいなく、術を唱える隙もない。あの剣は、ワシの胸を突くだろう。おそらくは斑尾必殺の心臓貫き……こやつの全力は、老いたワシの身では、とてもとても躱せぬのう。
シドーがニタリと唇を歪ませ、黄色くにごった歯を見せる。斑尾の剣聖は心に攻撃一つを意識させたまま、神速の踏み込みでシドーに接近する。迷いは無い。ゆえに、その身が生み出せる最速を現せるのだ!速い!おそろしく、速い!
シドーは逃げてみせようとはしたが……かつてほどのスピードを彼は持たない。その牙の突撃から逃れることはやはり叶わず、その胸を心臓ごと瞬時に刀で貫かれていた。サカキはその手のひらに拍動と、その消失を覚える。心臓が壊れ、その機能を停止したのだ。
「……その年齢で、よく動けたほうだ。見事よ、邪悪なるシドー―――」
「―――褒めてくれるな。剣士として、ワシはみじめに負けていたぞ?」
「ッ!?」
心臓が止まっているはずなのに!?
心にわき出た驚愕。それは隙となり剣聖の慧眼を曇らせる。シドーは彼から最高の武器を奪い取るため、両手で己をつらぬく刀を握りしめてくる。しかし、さすがは剣聖ということか、彼は後方から己に向かう殺気に反応し、それを回避するために、あえて太刀を捨てると、左に向かって全力で飛び退いていた。
シュバキイイイイイイインンンッッ!!
甲高い金属の高鳴りの音が響いていた。サカキを切り裂くために放たれた一撃は外され、その代わりに、シドーの右腕ごとサカキの太刀を砕いてしまっていた。
「……くく。ワシの腕ごとやってくれるか……なるほど、さすがにワシが嫌いらしいわ」
サカキは刀をへし折った『それ』が『何』なのか、まったく分からなかった。少なくとも生まれて初めて見る物体である。桜の花びらの海の底から、赤い腐肉に覆われた『骨の連なり』が浮かび上がって、ゆらゆらと揺れていた……。
「こ、これは、一体なんだ?……骨の……『尾』なのか?」
「そうとも。これは『古き龍』の『尾』よ」
腕を砕かれたシドーは、胸に折れた刀の先を刺したまま、何事もなかったように歩いた。サカキに近づいてくる。サカキは脇差しを抜き、シドーに備えるほかない。心臓を突いても霊威は削がれなかった。ならば、もはや首を切り落とすしか―――。
「首を狙っておるな。気をつけよ、サカキ。そなたの目はどうにも素直すぎる。それではいかんな。そんなことでは、天狗にも悟られる。読まれれば、アレには当たらぬぞ」
「……貴様になら、当てられる!」
「ああ。うむうむ、たしかにそうであろうとも。もしも、そなたとワシが純粋な一対一なら、それも十分に叶う。だが、余興はお終いだ。陰陽師らしく術に頼らせてもらうぞ」
「なにを……ッ!?」
『きいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいひひひいッ!』
太刀を握った不気味な大猿が……いや、『鬼兵士』が中庭にあふれてくる。今までののっぺりとしていた貌ではなく、より凶悪的な歪みが顔面に刻まれている。オオサンショウウオに似た体躯を持つ白いバケモノどもがサカキを取り囲んでいた。
「く、くそ!多勢に無勢か!ならば―――」
「―――ワシと刺し違える?そう素直な発想しているうちは、天狗に勝てんだろうよ」
「うるさい!貴様だけは、道連れにしてやる!」
サカキはシドーに襲いかかる。速い。そして、正確な動作だ。これも避けられんのう?シドーの確信はあたり、その脇差しの一撃が、シドーの首を一瞬で撥ね飛ばしていた。
シドーの頭部が桜の花びらの上を転がり、そして、そのまま笑った。
「はははは!いやいや、いい動きよ!さすがだ、さすがに剣聖よ!……だが、そなたはワシを理解しておらんようだな!」
「く、首だけで喋るか!」
「そう。言ったであろう?……ワシは琥珀姫をつかって『つなげている』とな」
―――『何』と?
―――あの『尾』の主か!
「貴様は、魔道の術で、己が命をバケモノとつなげたのか!」
「半分正解。それから先は……君にはいらぬ情報だ。サカキ、ワシの返り血を浴びてしもうたな?……呪いに満ちているそれは、そなたの手足から力を削ぐぞ?」
「なんだと……ッ?クソ!」
シドーは嘘をついたわけではなかった。サカキの手足は、すぐに痺れはじめる。手脚が重い!それに、感覚も狂わされているのか、耳が遠のき、視界がかすんでしまう。
「ぬう!か、体が……動かぬッ!」
「ハハハ!さあて、呪われたその体で、いつまでワシの式神と戦えることかのう?」
『キシャアアアアアアアアアアアアアアアアヒヒヒヒヒイイイイイッッ!!』
奇声を上げて『鬼兵士』どもが四方から迫る。サカキは呪われた体をどうにか動かし、それらを何匹か斬り捨てたが、やがて、一匹に背中から斬りつけられた。それでも、痛みに耐えながら脇差しを振りつづけるが……どうにもムチャなことだ、ながくは保たない。
サカキの体を、幾本もの刃が貫いていく……。
サカキは、すぐに動けなくなった。命も尽きようとしている。シドーの首無しの体が動き、シドーの首を拾い上げ、あるべき場所にそれを『取り付ける』。シドーは首のつながり具合を確かめるように、頭を左右に振ってみながら、鬼兵士たちに組み伏せられる瀕死のサムライのそばへ近づいていった。
「いい太刀筋であったよ。おかげで、ピタリとくっつく。ムダに肉を失わずにすんだぞ」
「……ばけ、ものめ……」
口から血をあふれさせながら、サカキは恨めしそうにシドーを見上げていた。
「くくく。いいのう。耳心地のよい言葉だ。そう、ワシは『バケモノ』なのよ。そして、サカキ。お前もそうなるのだ」
「なん、だと……?」
シドーはその場にしゃがみ、地に膝をつくサカキの顔をのぞき込む。シドーはうれしそうな顔をしていた。瀕死のサカキは、己が身に何か不吉なことが起きそうなことを予感して絶望する。シドーの口が動いた。
「サカキ、サカキよ。お前もワシの『仲間』にしてやろう。そうなれば、今までとは異なり、本物の主従の間柄となるな。サカキよ聞け。ワシはのう、お前の皮をこれから剥ぐぞ」
「……な、なに……ッ!?」
「死にかけておるが、剣聖である貴殿のことだ、そうやすやすとは死ねないだろう。だから、生きたまま皮と肉を剥ぎ取られることになる。まずは、その精悍な顔から剥いでいくとしようか?心配するな。ワシは料理が得意だ」
シドーは懐から短刀を取り出すと、サカキのほほにその刃の尖端をぴたりとそえる。
「こ、ころせ!」
「異な事を申すな。生きたままやるのがいいのだ。さあさあ、サカキよ。その目で笑うワシを見ておれ。その心でワシを呪いつづけるのだ。痛みと屈辱と、ワシへの恨み……それらが術として組まれ、お前はワシの『道具』になるのだよ……琥珀姫と似ておるなあ」
目のふちに近づけられた刃を見たからではない。琥珀姫と同じように、シドーのような邪悪なる男の『道具』になることがたまらなくイヤだった。彼は、シドーへ願ってしまう。
「や、やめろ……拙者を殺せ。拙者を、侮辱……する……な」
「誤解しておるぞ。これは侮辱などではないのだ。お前は、我が野心の贄となる!さあ、空を見上げよ!大義であった、誇り高きサムライよ!これより、貴殿たちサムライが完成させてくれた術が始まるぞ!」
「せ、拙者たちが……完成させた……?……おのれ、霊場を巡らせたのは……」
「そうとも、もちろん『シナズヒメ』討伐が目的などではなく、『シナズヒメ』とこの死都の力をワシと琥珀姫で操るための仕込みぞ!諸君らは必死になってその任務に血を捧げてくれた!その犠牲者たちの怨念!今では、すっかり、ワシの呪術の構成素材となった!」
サカキの脳裏にこの死都で散っていった若いサムライたちの顔が浮かぶ。まだ、15になったばかりの少年もいた。皆、家のため、仲間のため、ミカドへの忠を示すために命を捨てて任務にあたった―――それが!あの苦しみが、まったくのムダであったのだ!
「……おのれ……おのれぇ……ッ!!」
悔しさのあまりか、体中を剣で貫かれているせいなのか。サカキの瞳が赤い涙を流し始める。血涙か。これはこれで見事だ、サカキ。
「ああ、そなたの涙は熱く、気高く、うつくしい……♪」」
シドーは感嘆の息を漏らししつつも、『作業』を進めることに決めていた。
シドーはサカキのあごをつかむと、それを持ち上げていく。彼はこの剣聖に見せてやりたかったのだ、彼の人生の集大成を!そして、顔の皮を剥ぐためにも、アゴの下から刃を入れることが最適でもあったから―――。
「さあ、見ておるがいい、サカキ!そして、ミカドよ!……貴様も求めた『暗黒の太陽』が産まれるぞ!貴様ごとき凡愚などではなく、ワシのためだけの、暗黒のかがやきがな!天に座り、この世をより深い闇に堕とす、悪そのものが!……光栄に思えよ、サカキ。貴様もまたその偉業の一部となるのだ!」
―――狂っている。
……何もかもが、この千獄の地では狂っている……。
シドーに顔の肉を削がれながら、サカキは痛苦と絶望に呑まれていく―――。
天歌らは馬を走らせていた。食料などの荷物の多くはあの廃村に置き捨て、馬の足を霊符で強化させると、驚異的な進軍速度で山賊とサムライの連合軍は死都へと向かう。
その先頭を行くのは、やはり霊馬・深谷王である。
天歌と蓮華姫の二人をその背に乗せているというのに、『戦場』へと向かう歓びなのであろう、軍馬の脚は大地をますます強く蹴り込んで疾駆していた。深谷王のすぐ後ろにつくのがラカンの馬である。今、その馬の背にいるのはラカンのみ。玉藻姫は、ラカンに命じられて自前の馬に乗り換えていたのだ。
今日の作戦はスピードが命だからである。ラカン&天歌の同盟により軍勢の力は強化された、あとは素早く死都に攻め込み、シドーを仕留め、素早く帰還する!
時間はかけん!一日のうちに、すべてを終わらせるぞ!それが、ラカンの作戦であり、天歌もまたその作戦を承諾していた。彼らはやはり気が合うのである。
「……ふふ!素晴らしいスピードだな!いつか、私もその馬の背に乗ってみたいものだ」
ラカンは追いかける深谷王の速さに惚れているようだ。つい、そんな言葉を放つ。
『お褒めにあずかり光栄ですな。ですが、天歌殿が私の主です。貴方は最高の武人でもあり、うつくしい姫でもありますが……私の背は埋まっておりますよ』
「そうであるぞ、ラカン殿。深谷王は、我々夫婦の所有物じゃ!」
「ハハハ!それは失礼つかまつった!つい、その走りには目を奪われてしまってな!許せよ、蓮華姫!そなたの気分を害するつもりは、まったくなかった!」
「……(悪意なく、私の居場所を奪おうとしていることこそが、一番気分悪いのじゃ)」
14の小娘だ。夫があきらかな興味を抱く年上の美女/ライバルに対して、心を許せるほどの器用さはまだ蓮華姫にはないのである。
「……戦力は鬼のように増強されたけど、どうにもチームワークに問題が残りますね」
馬上の大牙はそうつぶやいた。同感ですな、彼と併走して走るシロキジが同調する。
「それに。あの、なんとも失礼な質問ですが……その、蓮華さまを死都に連れて行くのは……正しい判断ですか?」
「蓮華ちゃんは龍の血を引いています。見た目以上の戦力ですよ」
「……なるほど。龍……最強のアヤカシの末裔……」
「潜在能力だけなら天歌にも……いや、シロキジさんに分かりやすく言えば、おそらくラカンさんにも匹敵するはずですよ」
「ですが、彼女はまだ幼い」
「ええ。でも、幼いだけじゃありません。復讐心に裏打ちされた優秀な射手です」
「復讐心?」
「シドーは彼女にとって怨敵です。両親と、そして姉の仇でもある……シロキジさん。情報を共有しておきます。シドーは、彼女の姉を『兵器』として使うつもりらしいですね」
「ふむ。なるほど。龍の血族を呪術体に……玉藻さまが予言していた通りですな」
「キツネさんが予言していた?」
「人柱を用いるだろう。死都の邪悪どもを手なずけ、『シナズヒメ』を打倒を達成するためには、『シナズヒメ』のニセモノを作るほかない……そう語っておられました」
「……あなたがたも、ミカドと同じく『シナズヒメ』を狙っている。東の地を征服するには、『シナズヒメ』と死都が邪魔だから。あなたたちも、シドーと同じことをやろうとしていましたか?」
その問いにシロキジは沈黙してしまう。大牙は苦笑した。
「意地悪な問いになってしまいましたね。どんなことをしたとしても、『シナズヒメ』は倒さなくちゃならないのは真実です。この乱世も誰かが終わらせなくちゃなりません……分かっています。きれいごとでは世の中が回らないってこと」
「……大牙殿」
「でも、きっと僕も若いのでしょう。できることなら、これ以上、呪術や悪霊なんかに頼らず、国を盗っていただきたいものです。誰もが呪術に囚われてしまえば、この乱世はいつまでも終わらない気がしています」
「……ええ。仏門のお言葉、肝に銘じます。正直に話しますが、『シナズヒメ』を模造することを考えていないわけではありませんでした。ですが、それはあくまでも最終手段。ラカンさまは、呪いの力など頼られてはおりません……」
「そうよ!山賊坊主、言いがかりはよしてもらえませんこと?」
玉藻が口をとがらせながら大牙をにらむ。
「あの方はサムライの力で乱世を鎮めたいだけですわ。卑劣な呪術になど頼りません!」
「はあ?きれい事ぬかすな、作戦の一つとして考えておったくせに?……ラカンはともかく、お前らキツネの卑劣さはうちがようわかっとる。お前はやる気やったに違いない」
お里が口をはさんできた。彼女は玉藻のことが嫌いで嫌いで仕方がないようだ。
「ぐぐぐ、やかましいですわ、この田舎女!」
「腹が立つんわ図星の証拠。あー、怖い怖い。キツネはすぐに裏切りよんで?ラカンもサムライさんたちも、よーく気をつけるこっちゃなあ」
キツネがタヌキの挑発にブチ切れ、馬に乗ったままアヤカシどもは口げんかを始める。大牙は頭を抱えてしまう。
「……うわぁ。ほんっと、チームワークに問題ありすぎだよ……これから死都に乗り込むのに?あんな地獄よりヒドいところに行くのに……どうなのかなあ、このチーム状況……」
「ははは。ま、まあ、戦力だけならとてつもなく増強されましたから。皆、すぐれた戦士です。戦になれば、すべきことを果たすでしょう。それに、いざとなれば我々が調整しましょうよ、大牙殿」
「……シロキジさんも、苦労するタイプなんでしょうね」
「え?そ、そうですかなあ?」
「お嬢さま育ちのアヤカシとか、異端な発想する頭領なんてヤツらに振り回され続けるんですよ。僕たちの人生なんて、あの雲みたいに流され続けるだけで―――お里!天歌ッ!!」
大牙の叫びが、騎馬集団に緊張を呼び込む。アヤカシどもがケンカをやめて、サムライどもは周囲に目を光らせる。大牙は馬を加速させ、深谷王と併走を始める。蓮華姫が目をパチクリさせていた。
「ど、どうしたのじゃ大牙殿?」
「……天歌。君なら、もう気がついているよね?」
「ん。まあな。オレだけじゃなく、咲夜もだろ?」
……また、ラカンのこと……蓮華姫は拗ねたように口を尖らせる。
「ラカンさんも気づかれましたか?」
「ああ。しかし、坊主殿に言われなければ見過ごしていたところだな。まさか、玉藻らアヤカシよりも先に、ヒトである者がこんな『異変』を悟れるとは意外だった」
「……『異変』?何が起きておるというのじゃ?……周囲には餓鬼の群れしかおらぬが」
「空を見てみろ。それで分かる」
蓮華姫は夫の声にしたがって、空を見上げる。青い空……多少の雲もあるせいか、すこし薄暗い…………いや、そうではない。
「お日様が変じゃ」
そう。太陽に異変が生じていた。普段ならまぶしてく視線をやれるはずもない太陽。その太陽を見ることが出来るほど、光が弱まっている。
周囲の薄暗さがゆっくりと増していく。空を見上げていなければ、弱っていく太陽に気がつかなければ、ただ、雲が太陽を遮ったのであろうとしか思わなかったはずの現象だ。
だが、雲などではない。
日の光を遮ったのは、偉大なる龍神の力。
……いや、その力を利用してシドーが唱えた呪術である。
太陽の表面に、紋様が刻みつけられていた。それは、まるで……。
「……『瞳』のようじゃの。輝いておるくせに……黒い模様がハッキリと見える……」
「……『暗黒の太陽』ってか」
天歌がメノウのつぶやいた言葉をふと思い出し、それを口にする。その言葉に反応を示したのはアヤカシたちであった。
「て、天ちゃん!今、なんて言ったんや!?」
「さ、山賊なんかが、どうして、その術のことを知っているのよ!?」
「……ん?テメーら、あれが何なのか知っているのか?」
「玉藻、教えよ」
「ラカンさま……はい。あれは、呪術のなかでも指折りの異端。はるかな時代に忘れ去られたはずの、龍神らの魔王の術……世の中を終わりに導きかねない、大邪術でございます」
「世が終わるだと?お里、どういうことだ?」
「……太陽に刻まれている瞳が見えるのは、術の中心から666里の距離や。術はどんどん深まり、最後にはお日さんが『漆黒の輝き』を放つようになるらしい。そうなると、666里のあいだにおるもんは、ヒトもアヤカシも、それどころか鳥や虫けらさえも、例外なく命を奪われ、生け贄にされる……そういう呪いや」
「ふむ。666里となると。つまりは国ごと全滅じゃのう……た、大変ではないか?」
「……どうすれば止められる?」
「『術者』を仕留めることですわ、ラカンさま。つまり、シドー……そして」
「そして、この術の『原動力』となっている琥珀姫はんやで。これは龍の術や。彼女も祓わんと、動き出してしもうとるこの術は止められへんやろ」
「姉上を討たねばならぬのか……」
覚悟はしていたつもりだった。姉・琥珀の遺体がシドーに操られ、敵となる可能性という事態を。しかし、蓮華姫は自問する。私は、覚悟が出来ているのか?姉さまに矢を放てるだろうか……?本当に、そんなことをしてよいのであろうか?
簡単に答えの出るような問題ではない。この蓮華姫という少女は、家族のためならばとその身を犠牲にすることを厭わない人間だ。リョウゼンに嫁ぐことも、出会ったばかりの血なまぐさい山賊の妻になることも、家族のために了承した。
人一倍、彼女の家族愛は強い。それは、たとえ『死』という劇的な事象を前にしても、断絶されるほど弱いものでは決してないのだ。
―――たとえ、それが死体であったとしても。私は姉さまに矢を放てるかどうか……。
そんなヨメの悩みに天歌は気がつけたらしい。
「考えようだ。もし、お前がシドーの道具にされていたら?お前の姉貴が今、お前の代わりにオレの背中にいたら……お前はどういう結末を望むってんだ?」
そうか。と、蓮華姫は納得した。そんな可能性も存在していたのだ。姉がリョウゼンに嫁がされていれば、あのこんがり童子に巡り会い、天歌と遭遇し、その妻となってここにいる可能性も存在していたのだ。
そして、この私が拷問と陵辱を受け、怨念に縛られた兵器と化していた可能性もあった。シドーとやらに操られ、多くの命を奪う邪悪な業を背負わされようとしている。そうなれば、願うことなど一つである。
「―――姉上を討つ。うん。覚悟を決めれたよ」
「それでいい。安心しろ、オレも一緒に戦うんだ」
「……うむ。それは、とても心強いことだな」
若夫婦が彼らなりの血なまぐさい絆を固めていたとき、大牙は己の心にわき出た疑問をアヤカシにぶつけようとしていた。
「……お里、この術の『生け贄』にされるという話だったけど、僕たちを『材料』にしてシドーは何をするというんだい?……というより、これは、何をするための術なのかな?」
「……願いを叶えるんやて」
「……願いを叶える?」
お里は静かにうなずいた。彼女の表情は苦々しい。『暗黒の太陽』とやらに対する嫌悪感はかなり強いらしいね。そして、それを人が扱えるとは想定もしていなかったようなリアクションだ。君なら、その可能性を考えていたら、666里の外に逃げようとしたはずだから……大牙の観察を受けながらも、お里は説明をつづけた。
「おびただしい命を犠牲にして、天地を巡る霊力の連関に強制的に命令を送って、歪めてしまう。術者の望みが叶うように『世界を書き換える』んや。それは使う者によって、皆それぞれの結末を招くことになるっちゅう話やで」
「それは、なんともスケールの大きな術じゃのう。天地の理さえも愚弄するようじゃ。しかし、そうまでして、シドーは何を願うのじゃろうか……?」
「どうあれ、おびただしい数の命を犠牲にしてまで叶えるような『願い』や……どーせ、ろくなもんではないやろうな……ッ」
「……なるほど。テメーが予測してた通りだったな、大牙」
「……え?……ああ、うん。そうだね。本当に、世界を千獄化する術の『上位版』があったなんて、正直驚きだけど―――なるほど。これを行うための『下地』が東の地には……というか死都には揃っていたのか……シドーは、死都にあふれる呪いの骨組みやシステムを『シナズヒメ』から奪おうとしている?それとも……」
天歌は苦笑する。大牙め、『驚いた』とか言うわりに口調がいつにも増して冷静じゃねえかよ、この土壇場でよ?……コイツは、好奇心の虜になっているんだろうな。自分の死や世の終わりよりも先に、あの術の仕組みや成り立ちについて考え出しているんだろう。まったく、夢中になりやがって?相変わらずの変人だぜ。
「大牙、テメーはシドーの腹を考えろ。ここにいるやつのなかで、お前があいつに一番近い考えを出来るはずだ。ヤツの考えを見抜いて、どうすりゃいいか教えやがれ!」
「え?ああ、うん……そうだね、考えてみるよ……どうすれば、シドーが嫌がるか」
大牙は聡明な頭脳が、邪悪な陰陽師の野心をトレースしていく。彼の目的は分からないが、手段は分かっている。じゃあ、その手段を崩せばいいだけか―――。
「……うん、とりあえず今はチームを分散すべきだよ。これだけの術なら、その儀式も大規模なもののはず……だよね?」
「そ、そーですわ!ラカンさま、赤色坊主の言うとおり、この術は複雑な術式を用いるものでございます。死都の気脈の流れを変えるために、死都の霊場に変化を刻んだはず」
「つまり、それを壊せばよいというわけじゃな?」
「いいや、壊すだけや足りん。それをやっても、あくまで『術の完成を遅くする』だけやぞ。もしかしたら、もう取り返しのつかんレベルで術は動き出してしもうてるかもしれん……でも、そうやって稼いだ時間をつかって、シドーと琥珀姫はんを倒すしか道はない。あの術に関わるモンを、可能な限り破壊し尽くすんや!」
「ほう。ならば、たしかに坊主殿の言う通りということか。我らは極めて精強、少ない数でも任務はこなせる……同時にいくつかの目標を攻撃すべきだな……」
ラカンは頭のなかで作戦を即座に組み上げる。
「―――シドー討伐班は私と天歌と蓮華殿だ!特攻暗殺なら、それだけで足りる!玉藻、その僧侶殿といっしょに兵の半分を率いて、死都を右回りに霊場とやらを潰していけ!」
「んじゃあ、左回りってことだぜ、お里!お前はシロキジのおっさんといっしょに、咲夜のサムライたちの半分を連れて暴れてこい!」
「なるほど……アヤカシの王族がそれぞれに分けられとるっちゅうことやな!」
「つまり、私たちを部隊先導の『猟犬』代わりになさるわけですね」
「なかなか能力的にバランスが取れているチーム分けかも。深谷王、蓮華ちゃん……天歌とラカンさんへの呪術的なサポートは君たちがするんだ、出来るよね?」
「うむ。任せておけ!……姉上は、私の矢が鎮めてみせよう。それが、妹としてできる、最後の恩返しに他ならん!」
『蓮華姫さま、その覚悟、見事でございます!大牙殿、こちらは任せられよ、私の鼻も呪術を嗅げる。シドーとやらの術……そして、琥珀姫の気配も、私には分かりますぞ』
「ハハハ!よしよし、なかなかいいチームワークじゃねえか!」
「まったくだな!では、散開するぞ!皆の者、可能な限り死ぬな!だが、激しく戦え!」
ラカンの号令に従い、軍勢たちは三手に別れていった。サムライたちの士気は高い。シドーを止めねば、自分たちは全滅するのだ。少しでも生存の確率を上げるためにも、作戦を確実かつ忠実に達成していくことしかないと悟ったことも大きい。
そして、何よりも先に、鍛え抜かれたこの戦士たちが、本能的に戦いを愛していることも忘れてはならない事実である―――この勇者ども、窮地になっても怯えることはない。
死都に突入した軍馬どもを待ち構えていたのは、ゾンビと、そしてあの獅子と山羊の双頭をもつ『地獄のケモノ』の群れであった。
サムライたちは、その全てと戦うわけにはいかない。霊符に強められた馬を走らせ、ゾンビの群れを力ずくで突破していく。右からも、左からも、亡者の腕が生者の血肉を求めて伸びてくるが、それを槍や刀で払いのけながら、とにかくアヤカシの王族たちの導く霊場目掛けて突撃するのみであった。
そして、追いかけてきた地獄のケモノに対しては、馬上から矢をもって対応にあたる。ラカンの軍勢はどれもこれもが百戦錬磨のサムライたちだ、その矢がケモノを外すことはなかった。とくに、その中でもシロキジは群を抜いた腕前をしていた。
軍馬を走らせながら、彼は高速ですれちがったケモノの胴体へ矢を当てる。その強弓が放った矢は、ケモノの肉を深々と貫き、その尖端は心臓にさえ到達する。双頭の獣を一矢で倒す名人芸を見るのは、お里にとって初めての光景であった。彼女は感嘆の声をあげた!
「やるやんけ!」
「皆の衆!仕留められなくとも、動けぬほどの手傷を負わせたならば、それでよい!何よりも、急ぐのは霊場の破壊だ!……お里さま、先導役お願い申す!」
「おーう。任せとき。こっちや、全員ついて来い!」
お里が馬を走らせ、シロキジたちが続いていく。お里は、ククク、と笑った。
「しかし、アンタ、とんでもない腕やわ。アレの首二つを同時に刎ねる男どもは身近におるんやけど……シロキジはん、アンタみたいな弓の使い手は初めて見たで」
「ハハハ!お褒めにあずかり光栄ですな」
「……その弓、北海の獣の骨が混じっとるようやな……つまり、お前はオロチの民か」
『オロチ』。それは遠い北の海に住む異民族である。彼らは北海貿易の中心的な民族であり、弓の名手としても知られている。
「……ええ。父がオロチの海賊でした。私は、純粋なオロチではありませんが、とりあえずはオロチの血に連なる者です」
「そうかい」
―――南まで商業船で旅をしてくるオロチは珍しくはないが、すっかりと本土に定住し、それどころかサムライになっている者なんて、お里は聞いたこともなかった。
「『それ』を家来にしている。ということは、あのラカンは北海にまで旅をしたんか」
「ええ。かつて、ショーグンさまの一族の男に、オロチと縁の深い豪族の姫が、嫁がれることになりました。そして、我らが北の地に、その姫君の護衛として、まだ11になったばかりのラカンさまがお出でになられた。当時、海賊の一員であった私は、仲間とともにその姫君を誘拐しようとたくらみ、ラカンさまに殺されかけました」
「……アンタほどの戦士をかい。11のガキの所行じゃないなあ。まあ、あの天ちゃんと互角に競えたのなら、おかしくもないか。それで、そんときスカウトされたんか?」
「……首を刎ねるには惜しいと言われました。以後、私はラカンさまのサムライです」
「なるほど。ヒトには歴史があるもんやな」
「ええ。私も、ずいぶん長く旅をしてきましたよ。あなたがたは北の海には?」
「途中までは行ったことがある。でも、まだやな」
「ならば、是非とも足を運ばれるとよい。あの深谷王に比類するようなアヤカシと、それらが守る古代海賊の宝……冒険の日々がそこにはありますぞ。それに、トドが美味い!」
「ハハハ。そらええな。今日を生きぬいたなら、必ず行ったるわ!……ほら、霊場が見えてきたぞ!うちが術で丸ごと燃やしてしまうから、お前らしばらく時間稼ぎぃ!」
「了解だ!皆、お里さまをお守りするぞ!彼女には、敵の指一本触れさせない!」
「大鬼だあああああああッ!弓を引けえええええええッ!!」
数より質のほうが厄介なことがある。キツネの姫君が率いるチームの前に、身の丈10メートルはあろうかという巨人が現れた。サムライどもは自分たちの道をふさごうとするかのように、大通りへ陣取るその大鬼に対して弓を射る!何本もの矢が大鬼の苔むした皮膚を貫いていくが……その程度では、威力が足りない。
『GISYAAAAAAAAAAAAAAAAAAHHHHHHHHHHッッ!!』
大鬼が咆吼し、その咆吼を浴びた馬どもが萎縮してしまう。キツネは怒る!
「こ、こら、お暴れになるんじゃありませんわ!ら、落馬してしま……うひゃ!」
しばらくラカンの背に取りついていたせいで、馬の乗り方をすっかり忘れてしまっていた玉藻が、怯えて跳び上がった馬の背から落とされてしまう。
「玉藻さまあああ!」
「まずい、大鬼が突撃してくるぞ!」
「ちょ、サムライたち、早くあれを射殺しなさいな!」
玉藻がそう叫びながら地面から跳び上がり、まるで自分を追いかけてきているかのような大鬼から逃げるため、後方へと駆けていく。彼女もアヤカシ、その脚力は見事なものだが……さすがに大鬼の突撃より素早いというわけでもない。
サムライたちは大鬼に矢を射り、それらは深々と大鬼の身に刺さっていく。かなりの深手を与えているはずだが、それでも大鬼の突撃は止まらない。そして、彼が狙っていたのは玉藻であった。大鬼は、やわらかそうな女の肉を好むものだから。
「ちょ、ま、まずいですわあああああああああああああッ!?」
『GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAッッ!!』
大鬼がその巨大な右腕を振りかぶり、キツネの姫目掛けて振り落としてくる!私としたことが……ッ!キツネはダメージを覚悟する。骨が折れて全身がグチャグチャになったとしても、どうにか生き抜けるかしら……ああ、たぶん、ムリね―――。
「ラカンさま……お兄さま……ッ」
死を覚悟し、その身を痙攣させた玉藻であったが、彼女の体をつかんだのは大鬼ではなく赤鬼の腕であった。
「危ない!」
「ひゃう!?」
間一髪とはこのことか。大牙のタックルが玉藻を地面に押し倒し、そのおかげで大鬼の腕は空をつかんでいた。
獲物を取り逃した大鬼は、ふたたび獲物へ襲いかかるためにその身を大きく旋回させる。だが、その隙は大きく、玉藻を守ろうとしているサムライたちが新たな矢を射るには十分な時間があった。
いくつもの矢が大鬼に次から次に命中していく。腹に頭に胸に、それぞれは深々と刺さり、さすがの大鬼とて、それだけの矢に貫かれれば、暴れつづける体力はない。ついに、大鬼がその身を揺らし、片膝を大地に突いた。
その瞬間、玉藻は風に化ける。
恐ろしいスピードで大鬼に飛びかかり、鉄扇の一掻きで大鬼の首を深く切り裂いていた。大鬼の首から赤い鮮血が薄暗い空へと舞い上がり、そのまま大鬼は息絶える―――。
「お見事。さすがはキツネのお姫さまですね」
大牙はパチパチと手を叩いて玉藻の活躍を褒める。
「ふん!当たり前ですわ、私は玉藻!キツネの女王になる女!……そこの赤色坊主ぅ!」
「なんですか?」
玉藻は目を鋭くさせたまま、大牙へ宣言する。
「男の身でありながらこの私の体に触れ……そのうえ、私の命を救ったからといって……フラグが立ったとか思わないことですわ!!」
「ふら……ぐ?……それ、なんです?僕は、大陸の言葉にあんまりくわしくなくて」
「うるさい!お黙りなさい、赤色坊主!」
「そうだね。今は、あそこの神社に火を点けないと……キツネさん。君は、風だけじゃなくて炎にも化けられるかい?僕の火だけだと、火力が足りないんだ」
「も、もちろんですわ!……わ、私は玉藻!玉藻なんだから!炎にぐらいなれますわ!」
「そう。僕は大牙っていうんだ。よろしくね」
『―――あの寺ですぞ!あの寺から、濃密な魔龍の力が流れております!』
「うむ!そうじゃ、これはおそらく姉上の力……死霊も悪鬼も、怯えて鎮まっておる!」
「ふん。敵の群れを突っ切る仕事かと思っていたら、案外、手薄だな……蓮華、咲夜、気をつけろよ?……向こうもこっちと同じ。数じゃなくて質で勝負ってコトだぜ」
「……ふふ。シドーめ、自信過剰な愚か者よ。我々と戯れてくれるつもりのようだ……それだけ、こちらの時間切れが近いのかもしれないがな……」
ラカンは天を仰ぐ。空はどんどん暗くなっている。どこまで暗くなれば『手遅れ』になるのか?……それをアヤカシどもは教えなかった。
おそらく、アヤカシどもとて知らないのだろう。龍神……あまりにも旧き神々だ。本土だけでなく大陸や北海、そして東の海の果てにあると伝わる『もう一つの大陸』にさえ、その覇を唱えていたという旧き世界の支配者だ。
その直系であるオロチや、長命なアヤカシどもにさえ、龍神たちにまつわる知識はそれほど多く継承されていないほどに、龍神たちの伝説は古く遠いものなのだ―――。
……ならば、シドーは一体どこで『暗黒の太陽』とやらの知識を得たのか?……森羅万象の理を解し、あらゆる呪術を識っていたという『聖者アーシヤ』。ヤツの師である彼からか?……つまり、この術を伝えた『文献/テキスト』が存在しているということか?
アーシヤからの口伝であるのなら、ヤツを仕留めるだけでこの脅威を封じることは可能だろう。だが、もしも、そうでなければ?……どこかにテキストが残っているのなら、それを破壊しなければ、この国家滅亡の究極邪術は誰の手に渡る?……ミカドの手にだ。
もしも、これが本当に世界を意のままに作りかえる術だとすれば?……古代の権力を復活させたいと願うあの欲深く愚かな王ならば、自分のために使おうとするかもしれない。どれほどの命が犠牲になったとしても、アレは己が正義のためならやってしまうだろう!
「……シドーめ。引っ捕らえて、いろいろと話を聞きたいところだが……時間があるのかどうかさえ疑わしいのが残念だ!……ここは速攻で、仕留めさせてもらうぞ!」
『さあ、あの扉を蹴破ります!決戦に備えて下さい!』
深谷王がいななき、寺の門を前足で蹴破ってみせる。開け放たれた門の奥からは、むせかえるような甘いかおりがただよってくる……。
「う。なんだよ、こいつは……っ」
「香だな。それに……(わずかながら、煙草のにおいもする……?)」
「これ……姉さまの、お香……?」
蓮華は深谷王の背の上で、周囲を見回す。本能的に姉の姿を探していたのだ。いくらなんでも焚きすぎてはいるが、この香は、姉が好んで使っていたものに違いない。遺品を探すつもりで、里の屋敷を探したが……あれは何者かに持ち去られていたはず……。
少女の瞳がきょろきょろと辺りを見回す。姉の姿は見つけられなかった。だが、その代わり、古寺の屋根に座る一人の男を見つける。片目の痩せた男……それだけで十分だ。それが、誰なのかを推し量るのには、十分すぎることだった。
「……シドーぉおおおおおおおおおおおおおッ!!」
蓮華が叫び、彼女は馬上から矢を放つ。シドーは目を見開きながら、己にせまる破魔の矢を平手でたたき落としてみせた。だが、シドーの手はまるで焼かれたように焦げていく。彼は感嘆の声を漏らす。
「……おお!なんと素晴らしい霊力か。矢にこれほどの魔を込められるとはな。ワシとしたことが人選をあやまったかもしれぬ。姫よ、そなたは姉よりも龍の血が濃いようだ」
「テメーがシドーだな?」
天歌は馬の上からその陰陽師に聞く。あの夜、炎につつまれたタツガミの里を見下ろしていた男。たしかに、それと同一人物。だがしかし、あのときよりもずいぶん痩せて弱っているようにも見える―――。
「いかにも、ワシがシドーよ」
そのシドーはじとりとした目線で天歌たちを観察していた。彼は三人と馬たちに一通り視線をやったあとで、ふたたび口を開く。
「……『天狗』よ、メノウを下したのは、貴様か?それとも、おうつくしい咲夜姫か?」
「その名で呼んでいいのは、私が認めた男のみだぞ、シドー?」
気安く本名を呼ばれたせいで、誇り高きラカンは怒っている。シドーは苦笑した。
「フフフ。それは、すまなかったな。では、貴女のことは公式の名である、ラカンとお呼びいたそう。しかし、そなたらが共にここを訪れるとはな……修羅の心を持つ者同士、気が惹かれおったのか?」
「そんなところだ。おい、教えておいてやる。メノウは、自分を贄にしてまで戦ったぞ」
陰陽師は天歌の発言に目を細める。怒ったのか?……いや、そうではない。シドーはメノウに死ぬことを命じていたのだ。彼の心にあるのは好奇心だけであった。
「ふむふむ。メノウを死に追いやったのは『天狗』のほうか。のう、天狗よう。あれは、おもしろい『玩具』であっただろう?」
「『玩具』だあ?」
「そう、あれはワシの遊び道具よ。幼少のころより、ワシの忠実な下僕として育て、『道具』としての在り方を細かく教え込んだ。ワシの傑作の一つ……どうだ?天狗よ?アレは、じつにみじめで、なんとも滑稽な人形であったであろう?ワシの命令通りに救われぬ道を歩み、ついには貴様に斬られて死におったのよ。ああ、哀れで間抜けな末路であったな!」
満足。シドーの心をメノウの敗北はその感情で彩ってくれていた。彼はメノウという『道具』をついに『完成』させたのだ。
他の『実験体』と同じように人買いから金で買い、与えるふりをして依存させ、すべてを奪ってみた。その身も、その心も、その人生も、そして、ついに命までも!
「完璧な支配だ。アレこそ、ワシのためにあらゆるものを差し出す、究極の奴隷!そうなるべく育て、導き、実際に命を捨てさせてまでワシに尽くさせたぞ!フハハ!よくぞ、よくそこまでやってくれたぞ、メノウよ!見事な『道具』っぷりである!」
他人のことで腹を立てる。そんな現象はこの天歌という人殺しの山賊には少ないことだが、このときの少年は確かに怒りを覚えていた。あそこまでの剣士であったメノウが、こんなヤツに尽くしていたってのか?
「うぜえぜ……テメー、人を怒らせる才能にあふれてんのな」
「よく言われる。どうやら、ワシは社交的な才能がないのであろう」
「なあ、いい加減、ごちゃごちゃ言ってないで、そこから降りて来やがれよ?……分かっていると思うが、出し惜しみはナシだぜ?手ぇ抜いててオレに勝てるワケがないだろ?自分の術の『呪い返し』で死にかけているようなテメーがよ」
『呪い返し』。なるほど、そうか。蓮華姫は納得する。
「このお日様は、世を滅ぼしかねない術だという。その反動もまた術者には大きいはずだな。というか、ヒトの身ではムリなのだ。だから、龍の血を引く姉上で『シナズヒメ』を再現した。その哀れな姉上を弄び……術を使わせたのだな?そして、その余波だけで貴様は虫の息寸前にまで弱っておるのか」
「ハハハ!さすがは龍の血統……なかなかに鋭い指摘よのう。そうよ、ワシは人外の力に達しているが、あくまでもヒトなのよ……龍の血統と、怨念にまみれた死の都……それらの力が、大願達成には必要だった。だからこそ、わざわざこの地にやって来たのだ」
「『シナズヒメ』を討伐するとは、たんなる建前か。ミカドを見事に騙してみせたな」
「『あれ』は貴殿のせいで産まれたのですぞ?ラカン殿……責任をもって、あなたが斃すべきではないか?あの哀れでみじめなショーグンの姫をなあ」
「……そうだな。貴様を殺したあとで、彼女も解放してやるよ。だが、まずは貴様だ。抵抗してみせてくれ?私と天歌と龍の姫……そして、霊馬が『二頭』。弱った貴様では、全力で来ねば、一瞬で粉微塵よ。アーシヤが伝えた『不死の術』とやらも、効かぬぞ?」
「……なに?」
『―――我がいるからだよ、人間。我が名は『黒麗刃』。あらゆる『仙術』を、我が『角』は斬って捨てるのだ』
ラカンの乗っている黒馬が本性をあらわにする。言葉を話すと同時に、『彼女』の額からは、紫色にかがやく『角』が生えてきた。深谷王が、ぶふん、と鼻を鳴らした。
『……やはり、大陸の霊馬。キツネたちと共に海を越えたようですね』
『そうだよ、深谷王クン。我は、九尾と共にこの国へやって来た。今は、ラカンの馬さ。さて、シドー。君を守る仙術はすでに機能しない。君はもう不死身じゃない……といっても、『予測されるダメージを無効化できる』……ってだけの、嘘っぱちの不死身だけど』
「……抜け目のない。いや、キツネの入れ知恵か。まあ、もろもろの小細工など今さら使わぬよ。その必要もないほどに、ワシと琥珀姫は融け合っておるからのう」
シドーは不気味に笑い。その呪文を唱える。
「さあ、来い、琥珀姫よ!ワシと一つに交わろうぞ!」
その言葉が叫び終わるのと同時に、シドーの腹を巨大な骨の『尾』が貫いた。シドーが大量に血を吐く。彼はふらつくが、それでも、嬉しそうに瞳で天を見ている……『暗黒の太陽』を見上げているのだ。
「さあ、さあ、桜よ!ワシから生えよ!ワシと混じって、森となれ!フハハハハハ!」
古寺が崩壊し、地の底から桜の枝たちが恐ろしい速さで伸びていく、それらは次々とシドーの肉体を貫き、彼の肉体を千々に引き裂いていく。シドーはそれでも死なない。ただただ、高笑いをつづける……この『調和』の瞬間を、よろこんでいるのだ。
血と桜吹雪が舞う中、シドーの千切れた体を大きな口が飲み込んでいく。桜吹雪の果てから現れたのは、腐った血肉をまといし、丘のように巨大な獣……その骨と腐肉のあいだを、おびただしい数の花咲く桜の枝と、シドーと琥珀姫の血肉で補完した『古き屍龍/ドラゴン・ゾンビ』―――その邪龍が、咆吼する!
『GHAAOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHHHHHHHHHッッ!!』
まさに天を揺るがす咆吼であった。その屍龍の覚醒に立ち会った天歌とラカンは、凶悪なその敵の出現に感激し、霊馬たちはいななき、蓮華姫は涙を流すのだ。怖いからだけではない。桜吹雪を降らせ続ける、その桜の屍龍……屍龍の頭部、本来ならば『右目』があるべき場所に、彼女の姉の顔があったからだ。
「ねえさまああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
蓮華姫の叫びに姉の死体は反応しなかった。その代わり、屍龍の『左目』と化したシドーが口を開く。
『ククク!いい心地だぞ……その悲痛な叫び、歌声のようにうつくしく、心の深くにしみいってくるぞ!さあ、姫よ、ワシの耳にもっとそれを聞かせてくれ!』
「し、シドー!貴様は、龍の体を奪ったのか!」
『そうよ。そなたの姉上の血肉を用い、ワシとこの寺に祀られていた龍の屍を結んだ。これで、ワシは龍の一柱よ!この身は、あらゆる『呪い返し』にも耐えうるだろう……ワシは、今、史上最も強大な魔物の一つとな―――』
「うおらああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
天歌の叫びがシドーの声をかき消した。古寺の残骸を足蹴にして宙に舞っていた彼は、全体重を乗せた刀で屍龍の『左目』……シドーの顔……その口を刺し貫いていた。
『ぎいやああああああああああああああああああああああああああああッッ!?』
屍龍かシドーか、そのどちらでもあるのか、とにかく屍龍が大きな声で悲痛な叫びを上げる。『目玉』をくりぬかれてしまったのだ、死者とて苦しむこともあるのだろう。
屍龍は大暴れを始め、頭に取りついた天歌を叩き落とそうと前足を振るが、天歌はそれを跳躍で躱し、屍龍の体から無数に生える桜の枝の一つに取りついてみせた。
シドーの上半身が、目のふちから這いずり出でる。彼は、己を串刺しにしていた天歌の刀を引き抜いた。なんという屈辱か!高揚感に酔いしれてしまった隙を突かれ、殺されかけてしまうとは!シドーが怒る!天歌は挑発的に笑った。
「―――ぬるいぜ。ちょっと楽しみにしてたんだ、拍子抜けさせんなよ、オッサン?」
『この、山猿があああああああああ!ぶっ殺してやるぞおおおおおおおおッッ!!』
「天歌殿!」
「天歌!」
蓮華姫とラカンが叫びと共に、強烈な矢を同時に放つ。屍龍の首もとに二つの矢が深々と刺さって揺れて、腐肉を破壊する。だが、屍龍は止まらない。その尾を長いムチのようにしならせ振り回し、天歌を打撃してしまう!
天歌の体が軽々と吹き飛ばされ、古寺の残骸に叩きつけられてしまった。蓮華姫が悲鳴をあげるが、ラカンに叱責される。
「アレがあの程度で死ぬ男か!怯まず、そなたは矢を射続けるのだ!」
そして、ラカンは黒麗刃を走らせ、屍龍に近づくと、大薙刀を振り回して屍龍の脚を斬りつけていく。蓮華姫も、涙を拭きながら、必死になって矢を撃った。
あの巨体のどこを破壊すべきなのか?……よく分からない。だが、とにかく桜の木ではなく、腐肉の部分を狙った。そこならば、矢は深々と入り、肉に残存した矢は、龍が動く度にその傷を酷くさせるはずだから。
「―――狙いは外さない。水のように、心を澄ませて……深く鋭く気を込めて、撃つ!」
姉より伝えられた言葉を口にしながら、蓮華姫は冷静な狩人であろうと目指した。屍龍は桜の枝を伸ばしたり、あのやたらと長い尻尾を振り回してくる。回避は、深谷王に任せた。深谷王は華麗な動きで走り回り、ときに、尾の一撃を宙に飛ぶことで躱してみせる。
空を駆ける馬の上から、蓮華姫は矢を放つ。屍龍の太い横っ腹に、その矢は深々と突き刺さる。屍龍が、ぐげえええええええ!とわめいた。手応えを感じる。
「そこかあああああああ!」
『行くよ、ラカン!』
黒麗刃が屍龍の弱点とおぼしき横っ腹目掛けて突撃する。屍龍はそうはさせじと尾を振り回してくるが、ラカンの薙刀のフルスイングがその一撃を跳ね上げて空振りを誘った。
『さすがだね、ラカン!……もらったよ!龍!』
黒麗刃がいななき、その巨大な『角』に霊力を込めて、屍龍の横っ腹に深々と突き立てる!屍龍が悲鳴を上げる。だが、馬は首を振り、さらに胴を揺らして暴れ回り、その傷口を広げていく。屍龍がダメージに耐えかねて、死にものぐるいで後退する。
さすがに巨龍と力比べを続けるのは黒麗刃とてムチャが過ぎる。だから、彼女は後退する龍の動きを追わずに呼吸を整えて休んだ。その代わり、白い霊馬が躍動するのだ。
『―――ヤツの身を守る結界、それを切り裂いて下さいましたね』
『そういうことさ、東の国の馬王クン』
「いけえええええええええええええええええ、深谷王!」
蓮華姫の咆吼とともに、空に跳ねた深谷王の前脚の蹄が、屍龍の腹を打撃する。筋肉が切り裂かれ、傷をつけられていた屍龍のあばら骨が、ボキリボキリと音を立てて何本も粉砕骨折していく!
屍龍が苦しみの叫びをあげる。屍龍はもがきながらも馬たちから間合いを開き、その巨大な頭部を持ち上げる―――。
「ヤツめ、何をする気か?」
『……まずいよ、ラカン。炎の気を感じる!』
『ぬう!後退しましょう!龍のほむら/ドラゴン・ブレスです!』
霊馬たちが反応し、左右に分かれて走り去る。それとほとんど同時に屍龍は強烈な火炎の息を吐き出した!境内が燃えていく。宙に舞う桜花も、地に積もった桜花も、すべてが赤い火につつまれていく。
屍龍は首を振り、霊馬たちを焼き払おうと走ったが、馬たちも必死に逃げ回りつづける。
『くくく、よく跳ねる馬たちだ。だが、そう長くはもたぬであろう……屍龍の息は長い!貴様たちだけでは、到底ワシには勝てんぞ!』
「……そうじゃのう。いつまでも寝てる場合ではないぞ、私の旦那さま」
「ああ。いい加減、起きて手伝って欲しいものだ」
『……戯れ言を。天狗はもう―――』
ドガシャン。瓦礫が崩れる音を、シドーの耳がとらえる。シドーはその音に感じた不安につられ、首を回してしまう。そして、シドーは目撃するのだ。古寺の瓦礫のなかから立ち上がる、一人の山賊の姿を。血まみれではある。全身傷だらけなのだろう。だが、あれはやはり健在であった。
『バカな……なぜ立ち上がれる?龍の尾で、打たれたのだぞ……っ!?』
「―――おう。さっきは、よーくもやってくれがったなあ……ああ、ホント、自分が情けなくなって来たぜ、あんなつまんねーモン喰らっちまうとはなァ……っ」
山賊が頭を持ち上げる。彼はにらんでいる。シドーのことを、殺意に満ちた黄金色の瞳でにらみつけている。怒りが、おさまらないらしい。
「さっきのは……痛かったぞ、腐れ動物がああああああああああああああああああッ!!」
気迫。なんの力も持たぬはずのそれに、屍龍が射竦めらてしまう。黄泉から戻りし龍は、その獣に恐怖を覚えていたのだ。シドーは理解する。
―――侮ってはいけない存在であった。
もはや『暗黒の太陽』が完成するまで時を待てばよいだけの身……これも戯れの一つと思い、ラカンや天狗と闘ってやろうなどと考えた。ここに来て、敵を過小評価したのだ。
『……ワシとしたことが、こう続けざまに判断を間違うとはな。だが、決めたぞ!天狗、貴様からだ!他は後回しよ!まずは貴様を仕留めてやるぞ!』
「来やがれ、腐れ龍ぅううううッ!!」
『GHAAAAOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOHHHHHッッ!!』
屍龍が咆吼し、その巨大な口の奥底に焔を溜める!
天歌は構わず突撃する。屍龍の正面からだ!バカめ!シドーはその蛮勇さを嘲り笑う!
『ハハハ!そう来るかよ!いいだろう!焼け死ね、山猿が―――ッ』
このときシドーは忘れていたのかもしれない。『山猿』はおそろしく身軽なこと。そして、『天狗』は空を舞うということも。
屍龍のブレスが解き放たれる!世界を焼いて焦がし尽くす業火の奔流だ。だが、天歌は目の前に迫るそれを、ただ単純に跳び越えて、龍の鼻がしらに飛びついていた。龍の鼻にある角へ指をかけ、体と膝を思い切り折り曲げて、猿のようなその姿勢を保つ。
―――力を溜めている。
シドーの洞察がそう判断した。そして、それは正しい。シドーは見るのだ、笑う獣の貌を!持ち上げられた唇の下では、鋭い牙がかがやいていた。その若い四肢の筋肉は爆発しそうなぐらいにふくれあがり、殺意はどこまでも激しい。
「しどおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」
獣が咆吼し、力任せに空へと飛んだ。
空に在る獣は、拳を握りしめている。
ああ、しまった、こやつめワシを―――ッ!
シドーは慌てて両腕でガードを固めようとしたが、天歌の力強い動きに魅了されていた彼は遅れてしまった。いや、完全なガードを固めようとも、怒りに燃える天歌の拳を止められたかどうか……とにかく、天歌の拳はシドーの両腕のあいだをすり抜け、おそろしい速度のまま、シドーの顔面を強打していたのだ。
『が、は……ッ!!』
シドーの耳は顔の骨が砕かれる音を聞く。脳が揺さぶられ、彼と連動している屍龍もまた揺れた。屍龍の炎が止まる。そして、揺れる視界のなかで、シドーは己を見下ろす黄金色の瞳を見つけるのだ。
『貴様ぁ……まさしく、猿よの……あの体勢で、どこにしがみついた』
「……あんな勢い任せの特攻だ。さすがに、着地まで考えてるわきゃねえだろ?……テメー、やっぱり嫌われてんのさ。琥珀姫さんの死体の腕がよ、ここから落ちかけたオレさまのことを支えてくれたんだよね」
『まさか……ッ』
「―――アンタ、いろいろやらかしてくれたけど、その罪を償うときが来たらしいぜ」
少年は笑っていなかった。
ただただ冷たく、そして激しく、拳でシドーの顔面を打撃した。屍龍が首を振り、天歌を落とそうと暴れるが、天歌の左手がシドーの髪をつかんでいたし、足の指先を屍龍の目のふちに引っかけることでバランスを保ち、そのまま何度もシドーを殴りつけていく。
シドーとて体術を極めてもいる。殴られっぱなしではなく、腕を絡め取り、関節をくじいてやろうとも試みた。
だが、左腕を取られた天歌は右腕の肘を曲げ、強烈な肘鉄でシドーの側頭部を打ち込み、威力に怯んだシドーの腕がらみから左腕を外した。さらにはシドーの後頭部を両手で押さえ込むと、そのアゴ先と首に膝の強打を続けざまに叩き込む!
『た、大陸の、体術……っ?』
「ああ、よく知ってるな。うちの住職は、大陸帰りでね……肘や膝の使い方も、くわしく教えてくれるいい暴力坊主だったのよ。おかげで、オレさま、素手でも超ツエー!」
『……ハハ。調子に乗るなよ、若造が』
油断していたわけではない。天歌は攻撃しながらもバランスを取ることには常に心を配っていた。だが、やはり、このシドーも飛び抜けたレベルに至った達人なのである。
下半身が屍龍と接合し、足さばきも体さばき封じられた身であろうとも、柔術の技は健在。天歌の打撃を首を回して空振りさせると、天歌の右膝を手のひらで打って重心を操り、その体を宙にと放り投げていた。
「く、そ……ッ?」
『……ふむ。膝を折られる寸前、わずかに跳んで逃げおったか。見事よ、天狗』
宙に浮かされてしまった天歌は、そのまま真っ逆さまになって地上に落ちていく。
『どうせ、それぐらいの高さでは無傷であろうがのう……』
シドーは冷静さを取り戻そうとしていた。撲殺される寸前だったのだ、相応のダメージはある。みじめなことに鼻血は垂れているし、破裂した鼓膜からは血が流れ出してもいる。全身あちこちの骨を砕かれて、口のなかも血まみれだ。龍と同化していなければ、とてもここまで動けなかっただろう。
『完全に、殺されかけてしまったな』
今の彼は、かなり普段の精神状態に近づいている。ゆえに、見切ることが可能だった。己を目掛けて、左右からほとんど同時に放たれた二本の矢……それらを気を込めた左右の手で打ち壊すことも。
「また、矢を防がれた!」
「……見事な武。邪悪でなければ、部下に欲しいレベルだな」
馬上の蓮華姫とラカンはいそぎ弓に矢をかけ直すが、霊馬たちは彼らを目掛けて振り回されてくる尾から逃れるために、間合いを取り直さなければならなくなった。
さらに先ほどまでの豪快さは無いものの、屍龍は小規模なブレスを何度も吹くことで、馬たちを追い払おうとする。
『……あの龍、霊威はずいぶんと下がりましたが』
『冷静さを取り戻したよ。こちらの方が、ずっと厄介だね。あの尻尾……ホント邪魔だ』
「―――ならば、斬ってしまおう。断つべき筋、もう見切った。行くぞ、黒麗刃!」
『……ラカンも戦いが好きだよね。あの子の活躍に、嫉妬してら』
黒の霊馬が首を振り、体を横に傾けて勢いを生み出すと、尾を追いかけて疾走する。ラカンは馬上で大薙刀を構える。屍龍は霊馬に気づき、炎の息を吹きかけてくるが、ラカンも黒麗刃もまったく怯むことなく炎の壁を突っ切る。
『ほら、やっぱり霊威が落ちてるよ。一瞬なら、心地よい熱さだね』
「そう。一瞬ならば、炎の滝もくぐれるものだ。この一撃、喰らうがいい、シドーよ!」
馬上からの大薙刀のフルスイングを用いて、ラカンは屍龍の尾を一撃のもとに断ち切ってしまう。尾を切断された屍龍はバランスを崩して、その場に膝を突いてしまった。だが、シドーはもう冷静さを失わない。
『なるほど。尾の動きを読み、骨の継ぎ目を切り裂くか……さすがは猛将ラカンよ』
「余裕ぶっている場合か?あちらの新婚夫婦も健在だぞ」
蓮華姫は馬上から天歌に予備の太刀を投げ渡していた。天歌はそれを抜き、ビュンビュン振って具合を確かめている。シドーはその光景を見ていなかったわけではない。
「この状況で、私たちに勝てると思っているのか?」
『―――いいや。そうではない。たんに負けを認めただけよ』
「……なに?」
ふふふ、と陰陽師は自嘲気味に苦笑した。右手で血だらけにされた顔をぬぐい、赤く染まった手のひらを、どこか遠い目で見た。彼は思い出していた。自分はかつてほどではない。ずっとずっと、弱くなっているのだ。
『若き英傑たちとの力比べ?……いささか度の過ぎた遊びであったよ。ああ、己の過ちを認めよう。ラカン、天狗、龍の姫……そして霊馬どもよ。老いたワシでは、貴様らにはとても勝てぬ。ワシの負けよ、負け。だが、のう……ここでは、終われぬわな』
シドーはゆっくりと右手を天に向けた。天歌たちは何の術を使う気かと警戒する。シドーは呪文をつぶやき、彼にとっての『最終兵器』を呼ぶのであった―――。
『―――来るがいい。『サカキ』よ!』
その言葉にサカキは猟犬のように素早く反応していた。
古寺の奥にある大桜のもとで煙草をふかしていた彼は、風のようなスピードで走り、この戦場へと乗り込んできた。そして、サカキはそのまま抜刀し、天歌に襲いかかる。
天歌はその攻撃に反応し、サカキの重たい斬撃を受け止める。なんだ、こいつ?……えらく鋭い太刀筋じゃねえかよ!
『……奇襲して、そのまま斬り捨てるのも良しと考えていたが。拙者の剣をあっさりと防いでくれるとはな。東の天狗。相手にとって不足はないわ』
「―――その太刀筋。斑尾流……もしや、お前はサカキか?あの剣聖なのか?」
ラカンが顔をしかめてしまう。その現実はあまりにも酷たらしい。ラカンからすれば、これは認めたくないほどの悲劇であった。あの偉大な剣聖の精悍な顔は、醜い有り様へと成り果ててしまっていた。『骸骨武者』はラカンへその醜い顔を向けると、白骨化したあごをわずかに揺らして声を出す。
『……猛将ラカン。久しぶりだ。壮健そうで何より……』
「どうしたというのだ、サカキよ!……貴様に、何が起きた?」
サカキがそこにいる。紫色の武者甲冑を身にまとい、剛剣を携えた巨躯はかつて見た光景と一致するが、顔の皮を剥がれたせいで、その顔には骨が露出していた。目のくぼみにおさまるのは、黄金色に輝きゆれる霊力の炎だ。これが、生者のはずがない。
『ワシが変えてやったのよう。そのサカキ、ワシを裏切ろうとしていたのでな』
邪悪な陰陽師はそう語る。サカキは『自分を殺した男』をにらみながら、嫌悪に満ちた言葉を吐き捨てた。
『外道め……そもそも、拙者たちを裏切ったのはお前が先ではないか』
忠義に生きたサムライだ。『裏切り』、という言葉を己に使われることは、サカキにとってたまらない屈辱であった。
そして、それを知っているからこそ、シドーという男はあえてそれを口にする。『恨み』を強めることで、怨霊などというものはより呪いに囚われて、扱いやすくなるからだ。
シドーは己の手の上で躍らされるサカキの単純さを気に入り、このとっておきの『道具』を自慢するために、怒りにわなわなと肩を揺らしているラカンを見つめた。
『くくく。見ての通り、ワシはその男の心までは縛っておらんのだよ、ラカン。呪いで縛っておるのは、あくまで動きのみ。『剣聖サカキ』は、大嫌いなワシの命令のために、イヤでも動かねばならんという、哀れな傀儡と化したのよ』
「なん、だと……ッ」
ラカンは怒りで気が狂いそうになる。ラカンにとってサカキは、かつての部下でもある。一年前、ミカドの命に従い、ショーグンを討つためにこの地へと赴いた。そのとき、ラカンを支えた西の英雄の一人……それが、このサカキである。
『……今となっては敵と味方。ラカン。拙者の末路など、気にとめる必要はない』
「サカキよ……私は、サムライたちのために立ち上がった。お前も含め、すべてのサムライは今でも私の仲間だ!」
『……フフ。多くのサムライが、あなたについた理由が分からなくもない。だが、今となっては全てが無意味。拙者のことは気にせず、あなたはシドーを討つがいい』
「……おい、ガイコツ野郎!テメー、シドーの敵なら、オレの邪魔してんじゃねえよ!」
強烈なつばぜり合いに持ち込まれている天歌は、サカキにそう文句をつける。
『すまんな、小童。拙者とて、あの外道などの言いなりにはなりたくもないのだが……体が術で縛られておってな。どうにも逆らえぬのだよ』
「その割には、どっか嬉しそうじゃねえか、よ!」
天歌は素早く身をひねり、サカキの剣を受け流すと、横なぎ払いでサカキへ斬りかかった。だが、サカキはその攻撃を縦にした刀で見事に防いでみせるのだ。
『嬉しい……か。そうだのう。死霊と成り果てた今、もはや興味は、強い剣客との勝負ぐらい……斑尾流の剣士として、天狗を名乗る者を斬り捨てるのは、運命のようなものよ』
「ワケわかんねーが、アンタがオレと戦いてえのは理解できたぜ!」
『わかってくれるか、この哀れなサムライの心をよ!』
剣士たちは刃の競り合いを外すと、ただちに壮絶な剣の打ち合いを展開していく。技量は、ほぼ互角のように見える。
『ハハハ!なんとも壮絶な剣戟の音色よ!すばらしい戦いだ!剣聖と天狗!そのどちらが『上』か見物しておきたいところだが、ワシはここらで逃げさせてもらうとしよう』
「逃げるだと?」
『そうだよ、ラカン。ワシにとっては、もはや、お前たちとの戦いなど、どうでもよきこと。『暗黒の太陽』成熟のときまで、時間を稼げればそれでよいのだ。ワシは、これより千獄の呪詛の根幹へと赴くぞ!』
「呪詛の根幹?……『シナズヒメ』の根城か!」
『そうとも!琥珀姫と屍龍の力にあてられ、『シナズヒメ』は眠りこけておる……今このとき、ヤツの竜宮をワシが奪うのだ!あそこでなら、ここより早く化けられる!闇の気をたらふく喰らい、『暗黒の太陽』そのものへと融け合ってみせよう!』
「太陽と融け合う?……願いが叶う術ではないのか?……いや、太陽になる。もしや、それが貴様の願いだというのか?」
『ハハハ!そうとも!ワシは、暗黒そのものと成りたいのよ!』
そういうと、屍龍はこの場から逃亡を始めてしまう。かなりの速度だ。並みの馬では追いつくこともままならないだろう。天歌は舌打ちする。
「クソが!おい、蓮華!咲夜!このオッサンはオレが仕留める!お前らは、シドーを追いかけて、ぶっ殺せ!……太陽が、ずいぶん昏くなってきていやがる!」
「天歌殿。うむ、分かった!後で追いついてこい!行くぞ、深谷王!」
『ええ。天歌殿、ご武運を!』
深谷王と蓮華が走り去る屍龍を追いかけて古寺をあとにする。ラカンは、変わり果てたサカキにふたたび一瞥をくれ、そのあとで、遠ざかっていく屍龍の背を睨みつけた。
「……サカキは強いぞ。私の剣の師でもある。私に代わり、成仏させてやれ。頼んだ」
『……その代わり、あの外道は我とラカンで八つ裂きにするよ。行こう、ラカン』
黒き霊馬が地を蹴る音を響かせて、勢いよく走り去っていく。
あとに残されたのは、剣客二人。
西の剣聖と、東の天狗―――。
『魔道の支配する死の都に、桜の花びらが舞い散るこの狂気の場所……サシで切り結ぶには、悪くはない景色だ。ここで死ねれば、絵になろう』
「……アンタとやり合うのは楽しみじゃあるんだが……一つ気に入らんことがあるぞ」
『なにがだ?』
「アンタが、煙草ふかしてるところがだ。舐めてんのか、オレさまを」
ガイコツ武者の剥き出しの歯たちは、たしかにキセルを噛みしめていた。そのキセルのなかでは煙草が燃えて、もくもくと煙が出ている。ときおり、その煙は頭蓋骨のすきまからも漏れているので、なんとも不気味であった。
『おお。うむ、これか……すまぬな。いかにも無礼なこととは承知しておるのだが。この特製煙草の煙を吸い続けなければ、死霊である拙者はロクに体が動かんのよ!』
「……そうかよ。なら、別にいいさ」
『誤解しないでくれ。拙者はお主をあなどってはおらん。むしろ、認めている。お主は、咲夜姫さまに並び……恐るべき剣才を持った男だ。まさに、天狗そのもの』
「……咲夜姫ね」
『……本来ならば、西のサムライの長となるべき人であった。ミカドに反乱さえ起こさねば、拙者たちは姫の下で一つの軍であったろう。だが、時代とは複雑なものだ。そして、人の世の縁もまた複雑怪奇……死してなお、最強の剣士と切り結べるとはのう!』
「……ふん。オレとしても死んだ剣豪サマとやり合えるってのは、なかなか貴重な経験だぜ。楽しませてくれよ、サカキ!」
『おうよ!参られい、天狗!斑尾の真髄、見せてやろうッ!!』
「ああ、こっちも全力でテメーをぶっ潰してやるよッ!!」
天歌は正面から攻め込んだ。小細工など通用しないレベルの武人であるし、そんなことを考えているのは『勿体ない』。最強クラスのサムライだ!正々堂々、正面から倒してこそ価値があるってもんだぜ!
サカキは二度、三度と天歌の猛烈な剣を受け止めていたが、四度目は逆に天歌の剣を弾き、押し返した。バランスを崩しかけた天歌目掛けて、骸骨武者の斬撃の嵐が降り注ぐ。天歌はその太刀筋の鋭さと速さ、そして込められた威力に驚嘆する。どうにか躱せる、ギリギリ刀で防げる……だが、反撃に持ち込むための隙がゼンゼン回ってこねえ!
―――たしかに、剣聖ってカンジだぜ。
―――正面から行ったら、ほんと隙がねえわ……ッ!
『その程度か、小童ァあッ!』
サカキの体が躍動する。刀を後ろに引き、腰を沈める―――突きか!天歌はその直感を信じ、全力で横に跳ぶ。その刹那、一瞬前まで天歌の心臓があった場所を剛剣が通過していた。天歌は目を見開き、冷や汗が体中から噴き出す。とんでもねーぞ、ほんの少しでも躊躇してたら、即死してるところじゃねーかよッ!
そして、サカキもまた天歌が見せたその俊敏さに驚かざるをえなかった。
……拙者の動きを熟知しているはずの、同じ道場の者たちを相手にしたとして、こうもあっさりとこの突きを避けられたことは一度たりともない……。
……さらに、そんな横っ跳びをしておいてなお、即座に身を翻し斬りかかってくるのか!
天歌はオオカミのような低い姿勢になりながら、地を走り、横なぎ払いでサカキの足を狙って斬りつけてくる。サカキは、後ろに跳び退くしか出来ない。天歌の一撃が空を切る。だが、あわてて跳ねたサカキの重心も揺れている。いかんのう、今、打ち込まれれば、崩されかねんぞ!
「もらったあああああ!」
地を走るオオカミが鳥に化ける。天歌は宙に跳ぶことで、慣性と大地の理から逸脱する。空は自由だ。あらゆる動きを妨げるものがない。天歌の体は空のなかで遊ぶのだ。なるほど天衣無縫……動きが、読めなんだわ!
ゆえに。守るしかなかった。
サカキは刀で、天歌の野生じみた大振りの打ち下ろしを受け止める。とてつもない速度と、それとは似つかわしくない、おそるべき重さだ!背筋……ッ!背中の筋力で、全身を岩のように固めておるのか?それゆえに、重い!刀で受けても、どんどん重くなる!!
天歌の一撃の重さに耐えかねて、ついに剣聖サカキの片膝が地に着かされる。
体格で勝るサカキが、力負けしてしまったのだ。そして、天狗はさらに暴れた。片膝屈したサカキの首に前蹴りを叩き込み、サカキを仰向けに蹴り倒してしまう。
『ごふうッ!?』
―――いかん!上から串刺しにされるぞ!サカキは地を必死に転がりながら、太刀を横に振る。当てずっぽうだ。だが、天歌はそのせいで追撃を止めざるをえない。無為に近づいてしまえば己の脚を斬られる可能性があるからだ。こうして作った間を活かし、サカキはどうにか立ち上がっていた。
必殺の機会をしのがれた天歌は、いくらばかりか感傷的になる。この天才、失敗することに慣れていないのだ。だから、彼はどこか拗ねたような顔で剣聖にこう言った。
「……死んでて良かったな。生きてるヤツは、さっきの蹴りで首が折れてただろ」
『拙者の首は、それほどヤワではないぞ。むろん、重傷必至だったろうがな』
「ああ。そんなところかもしれねえわな。アンタも実際、大したモンだ。ぶっちゃけ、さっきのシドーよりは何倍も強い」
『……情けないことに、あれの術の前に破れ、このようなみじめな有り様だがな。あの龍の血肉……琥珀姫だけが使われたのではない。拙者の部下たちも使われていた。シドーの下僕と化した拙者が斬り捨ててしまった……その血肉を、あの屍龍の部品としたのだ』
「……そうか。仲間を斬るのわ、辛えよな」
『うむ。そうであったよ……何のために戦ってきたのか、よく分からなくなった。少なくとも、拙者が目指した道からは、あまりにも逸脱した行為だった。この世は……地獄、いや、それ以下の千獄よ……天狗。貴殿ならば、拙者の悪夢を終わらせてくれそうだ』
「ああ。悪い夢はいつまでも見てるモンじゃねえわな……そろそろ終わらせてやんよ」
そうつぶやいた天歌は、再び正面から剣聖サカキに襲いかかる。
おそらく、先ほどと同じ動きのはず―――だが、サカキはついさっきやれた防ぎ方を選べない。なぜならば、地を這うオオカミの剣を、空に遊ぶ鳥の剣を識ってしまったからだ。
認識がぶれてしまう。この受け方で、本当に良いのか?そんな疑心暗鬼に取りつかれるのだ。天狗の放つ剣が宿した『想定外の動き』に、正攻法では追いつかない。
一歩間違えれば、即座に切り刻まれてしまうだろう。細心の注意がいるのだ……。
シドーの『道具』と化したこの仮初めの生にすがりたいわけではない。だが、それでも剣士としての本能が、最高を尽くさずしての敗北を許せない。ゆえに、サカキは天歌に対応すべく、必死に頭を働かせ、体を動かし続けるのであった。
だが、それでもサカキは『幻影』を見てしまう。
『天狗の動き』を予測しようとすればするほど、その可能性は次々に広がっていき、やがて想像が及ばなくなるのだ。
オオカミの動き、鳥の動き。
そして、体術の技巧の数々。まったくもって何をしてくるか、予測不可能なのがこの天狗であった。武術の達人であるがゆえに、サカキは相手の動きを先読みすることが常となっている。この想像力を放棄することは今さら出来ず、その膨らんでしまった想像力に振り回されてしまい、どうしても後手に回り始めていった。
刀と刀がぶつかり合い、火花が散る。サカキは己が押されているのが分かる。確かに、ときおりこちらも反撃めいたものを繰り出した。天狗のほほや、手足にわずかながら斬撃の傷を入れることにも成功している。
だが。
だが、それだけだ。この天狗は、さきほどよりもますます強く、速くなってきている!
剣聖は悟るのだ。
『剣だけ』では、到底勝てぬ―――ならば、武人サカキの取る道は、一つであった。
「―――がッ!?」
サカキは左の拳を放っていた。刀から手を離し、深く考えることもなく、ただ天歌の鼻っ柱を素早く打撃していたのだ。天歌の動きが止まる。サカキはその好機に反応して刀を乱雑に振ってみたが、天歌は俊敏に後ろへと跳ねて、その斬撃の射程から脱出する。
打たれた鼻を拳でこすりながら、天歌は苦笑した。これは予想にない反撃だった。
「……ハハ。まさか、アンタが防御おろそかにして、殴ってくるとはな。まるで―――」
『―――まるで、お前のようだろう?拙者も、マネてみたのよ。そうでなければ、あのままムダな時を過ごした。まったくの見せ場一つをつくることもなく、ただただ無様に追い詰められて敗北したはずよ……それは、お互いつまらんだろう?』
「まあ、そりゃそうだ」
『やはり、命とは、最期まであがくべきもの。そして、戦士とは、死してなお闘志あふれていてもよい!』
「へへ。そうさ。オレやアンタみてえな人間は、たぶん、死んでも悪党なんだよ。戦いに取りつかれていて、誰かを殺すのがホント好き。でも、テメーが死ぬのは嫌い。そういう、わがままな獣なのさ」
そうだ。戦いなんてものは獣じみてて当然なんだよ。天歌は心のなかでそうつぶやき、牙を剥く。獣を真似るのさ!オオカミのように、鳥のように、猿のように、そして、人を殺して喜ぶサムライのように!
天歌が吼えた。そのとき、天歌は完全に『型』を捨てる。ただ、走り込み、斬りかかる!その純粋無垢な攻撃を選んだ。サカキもまた獣を目指す。ただ、本能のままに防ぎ、切り返す!理性など捨て、野生を選ぶ!
そして、今この瞬間は、そちらの方が速くて強いという真実があった。
刀と刀がぶつかり合い、次の瞬間には刀持たぬ拳がお互いのほほを殴り、次の瞬間にはサカキの刀が天歌の脚を狙い、それを跳び越えながら振り下ろされた天歌の刀に向かい、サカキは鎧に覆われた肩でわざとぶつかりに行くことで攻撃の勢いを消す。
「大胆なことしやがんな!」
『獣じみなければ、貴様は仕留められんからなあッ!!』
サカキは刀をにぎったままの右の拳で天歌の脇腹を殴った。
あばらが軋み、胃袋が揺さぶられる!だが、止まるわけにはいかねえ!
「うおらああああああああああッ!」
天歌は左手でサカキの後頭部をつかみ、力任せに引きよせながら、骸骨武者の額にズガリと頭突きを叩き込む。サカキのキセルが地面に落ちる。お互いの呼吸が崩れ、意識が揺らぐ。だが、それでいてなお獣たちは攻撃を選ぶのみだ。
ふらつきながらも獣たちは刀をぶん回し、何度か刀たちが衝突しながら、お互いの身に傷をいれる。肌に走る痛みと死への嫌悪が、意識を覚醒へと導く。底意地を見せたのは、古強者、東の剣聖か。
『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!』
サカキは刀を両手で握りなおして、フルスイングしてきた。その一撃を刀で受け止めようとした天歌であったが、サカキの型を捨てた豪快な一撃の前に、天歌の刀は真ん中でへし折られてしまう。
『はは!どうだァ、小童!』
「あきらめねえよ!みじめにおっ死ぬまではなあああッ!!」
天歌が折れた刀をサカキに投げつける。サカキはそれを反射的に刀でたたき落とした。天歌の指は『新たな獲物』を目掛けて伸びる―――。
彼の指が握りしめたのは、サカキの手首と首根っこ。天歌は、そのまま腕力まかせに鎧武者を引きつけながら、背負って投げた。
天地が逆転していく。重装な鎧を身につけたサカキには、華麗な体さばきで受け身をとることなど出来ない。サカキの体が背中から地面に叩きつけられる!呼吸が、崩れる!横隔膜が痙攣するのが分かった。痛みが強く、体が強ばり、動きを取れなくする。
天歌はそのままサカキに馬乗りになって、右の拳で何度も何度もサカキの骸骨頭を殴りつけた!サカキの歯が折れ、頬骨が割られる。
サカキはたまらず刀を振り回すが、天歌はその腕を捕らえると、脚をかけて腕の関節を破壊しにかかる。柔術の技であった。天歌は技に入ったその勢いのままに背中を反らすと、一瞬のうちに、サカキの右肘を真逆の方へとボキリとへし折ってみせた。
『があああああああああああっっ!?』
「折ったぜ、確実に―――」
しかし。だからといって、今のサカキがあきらめるわけが無い。
サカキは折れた腕から発せられる激痛などはまったく無視して、無理矢理に上体を起こした。そして、左腕で脇差しを抜き、天歌の頭目掛けて振り下ろしてくる!だが、さいわいにも慣れた動きではないため、一度目はわずかに外れて耳をかすめた。その隙につけこみ、天歌はサカキからどうにか離れることに成功していた。
サカキは天を仰ぐ。そして、戦場の空に向かって魂の底から咆吼するのだ!
『ああ!楽しいぞお!楽しいなあ、天狗よおおおッ!!戦いとは、こうでなくてはな!殺伐を極め、それでも勝利と生存を望む!それゆえに、我らはかがやき燃えるのだ!!』
「……まったくだが。そろそろ決着つけるとしよう。オレの体力も限界。んで、あんたはあの煙草を落としちまったんだ」
『……ふむ。残念だが、時間切れが近いな。ほれ、小童!拙者の脇差しを貸してやろう』
サカキは左手に握っていた脇差しを天歌に投げて寄越した。天歌は視線をサカキに向けて警戒を崩さないまま、足下に転がったそれを拾う。
「罠……じゃねえのな。まあ、アンタはそういうの嫌いか」
『うむ。小細工など不要。勘のいいお前には効かぬだろうしな。だいたい、利き腕一本折られてはいるが、拙者に丸腰で挑んで敵う者など、この世におらんのだ』
「スゲー自信だな。まあ、たしかにその通りだろうけどよ」
『脇差しを貸さねば、そなたは間合いを保つしかない。それでは、お互い時間を損する』
サカキは右手にあった刀を左手へと持ち替え、何度か素振りしてその調子を確かめる。
『―――右には少し劣るが、準備は万端。さあて、最後の勝負といこうではないかッ!!』
骸骨武者が太刀を振り上げ、天狗目駆けて襲いかかる!天歌もまた決着をつけるためにサカキへと走った!刃と刃がぶつかり合い、鋼の音色が甲高く戦場に響く!
「アンタ、左でも鍛錬してやがったのか!」
『むろんのこと!たとえ拙者の片腕もがれたとして、戦は終わってくれぬだろう?』
「まあな!」
つばぜり合いの膠着はながくつづかない。両者ともにそれを維持できるほどの体力が残っていないのだ。刃たちは離され、だが、またすぐにぶつかり合う!何度も、何度も。それは繰り返されていく。ここに来て、まったくの互角なのである。
サカキもまた天才。天歌の動きの癖を学び始めていたゆえの現象であった。今のサカキには、わずかながら天狗の奔放さが理解できてしまえる。だからこそ、不利な左腕でもそこそこ戦えたのだ―――。
この展開に焦りを覚えたのは天歌だった。
……オッサン、煙草が切れたせいで動きがどんどん悪くなってきてやがる……ッ!つまらんぞ、このまま弱ったアンタを斬ったんじゃ、何の意味もねえだろうがッ!!
天歌は力任せに脇差しを振り回して、サカキを押し込んだ。弱ってきているサカキは、その押し込みに耐えきれず、数歩、後退してしまう。天歌の顔が歪む。サカキは呼吸を整えながら、少年に問いかけた。
『……心配をかけさせておるのか、拙者は?』
「そうじゃねえよ。オレ自身が不甲斐なくて、腹立ってるんだ……時間かけすぎてる。そのせいで、弱っていくアンタをそのうち仕留めるだって?……下らねえよ」
『わがままな男だ。『確実な勝利』が手に入るのだぞ?戦士ならば、喜ぶべきだ』
「つまらねえんだよ、そんなもの!」
拗ねるような顔でそう言い切った若い剣士を見ていると、サカキはなんとも嬉しくなって大笑いする。サカキはその少年の態度のなかに、自分の歩んできた道と同質の哲学を感じ取れたからだ。
強い者とこそ戦い、それに勝利して己の力を証明したい。サムライとは、剣士とは、武人とは……戦いに狂っているのが正しい。
『ハハハハハハッ!たしかに!たしかに、お前の言う通り、そんなものはまったくもってつまらんのう!……いやいや、よくぞ、そう言ってくれたものだ。うむ。気に入ったぞ、天狗殿。時と場合が上手く運べば、拙者の娘をくれてやってもいいほどだ』
「悪いな。オレ、三日前から既婚者なんだよ」
『なんと、新婚か!ははは!拙者はいつも、少しだけ遅いのう……』
「……いや。アンタはまだやれるさ」
『ふむ?』
「あれだ。あの『突き』だ」
『ほう。斑尾の突きを拙者に撃てというのか?』
「できるだろ?アンタの技の中で、一番だ。つまり、一番、あれを練習してきた。アンタなら、左でも問題なく撃てるはずだ」
『もちろんだ。だが、このみじめに弱った体では、拙者が満足できるアレを繰り出せるのも、ただの一度のみ……それ以降は、反動でロクに体が動かぬだろうよ』
「一度でいい。それで、オレを狙ってこい。逃げねえ、正面からアンタを超えてやる」
『ほう!斑尾の奥義を超えるというのか?』
「ちがう!流派なんてどうでもいい!オレは、アンタを超えるんだよ!」
『ハハハハハハッ!いい答えだ。拙者を感動させてくれる……いいだろう。黄泉路への土産、これほどのモノはそうない。拙者の技が天狗を超えるか、それとも、天狗が拙者の鍛錬を超えるのか……どちらにせよ、あの世で仲間たちに自慢できるのう』
サカキがゆっくりと腰を屈め、腕を引き……突きの構えを取る。ただし、肘がさっきのときよりも高い位置にあり、刃が横倒しになっていた。
「構えが違うぞ」
『こちらが正式よ。本来の『火臓刺し』とはこう仕込む』
「なるほど、心臓は木火土金水の五行で言えば、火の臓……だったな。心臓狙いの『火臓刺し』か。刃は横倒し、横に躱されたらひねって追いかける仕組みってわけだ」
『そういうこと。極めて単純。しかし、それだからこそ、混じりけなく純粋でいられる』
「……そうか。んじゃあ、後はもう決めるだけだな。どっちが強いか、これで決めるぜ」
『……うむ。では、参るぞ―――』
にらみあう両者の呼吸が重なっていく。火臓突きの構えに対して、天歌が選んだのは腕をだらりと脱力して、左脚を前に出す崩れた自然体。そして、脇差しは逆手に持ち替える。理論よりも、本能がそれを選ばせていた。
サカキは笑う。なるほど、この者らしい姿勢だ。そもそも天狗に構えなどいらぬ。天衣無縫の動きは、型に縛られていてはつまらぬものよ!……本来ならば、逆手の握りは守りの型。だが、どうにもこやつの場合は、獣の『牙』のように見えて底が知れぬのう。
―――ああ。
―――戦うことの、斬り結ぶことのなんと楽しいことか。
―――だが。これで、終わりだ。
『正面から、破る』。天歌はその言葉を守るつもりでいた。今度の火臓刺しは横に避けても躱せない。当然、縦に跳んで避けられぬよう構えた刀を斜めに下げて突進するだろう。
上にも横にも攻略の道などありはしないのだ。あるとすれば、『後ろにさがる』。だが、それでは負けたことになると天歌は信じていた。この修羅場にて、山賊が選んだのは純粋な勝負なのである。それは、ただどちらが速いかだけの勝負―――。
ことは単純。
剣の戦いを決めることがらは、ただの一つ。
どちらが先に当ててしまうか。
それだけのこと。
それなら。心臓が貫かれる前に、こっちがぶった切ればいいだけじゃねえかよ!
獣どもは無言のままにらみ合う。精神を極限まで研ぎ澄ませ、姿勢を微調整していき、重心をコントロールする。静かに呼吸を止めて、体から揺れを少なくした。膝を曲げ、足の指に地を噛ませるように力を込めて……動き出す。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」
『はあああああああああああああああああああああああああああああッ!!』
獣どもが腹の底から咆吼しながら、お互いを目掛けて突撃していた。
足の裏で激しく地面を蹴り込み、身を屈め、加速に全身をささげる。牙を剥くその様はオオカミのようであり、前傾から急加速する二足歩行は、まるで空へと向かい水面さえも走り抜く水鳥にも似ていた。あらゆる獣が混じったようなそれらの攻撃が交差する。
足の速さは天歌が勝つ。
ゆえに、懐に入られる寸前、サカキは火臓刺しを解放した。曲げに曲げていた腕を急速に伸ばし、神がかったあの突きが天歌の心臓目掛けて一直線に飛ぶ。その加速は、天歌でさえ出せない。技の速さではサカキが勝ったのだ。
―――サカキは確信する。
何十人も、こうやって殺してきた。
これに至り殺人を完遂できなかったことはない。
まさに、必殺の感覚。
それがサカキの心にあふれていた。そう。速さでは勝った……速さでは。天歌の胸を覆う山賊鎧にサカキの刀の切っ先が当たる。その刹那、まったくの同時に限りなく近く、極めてわずかな時間の差であったが、遅れて、サカキの篭手に天歌の脇差しの刃が触れた。
―――かつても『こうしたこと』が幾度かはあった。『ほとんど同時』にお互いの攻撃が当たる……しかし、それがどうしたという?
火臓刺しの威力に、時は止まるのだ。
先制攻撃は相手を制する。それがどれほど微量な時間的優位であろうとも、絶対だ。圧倒的な破壊力を身にもらえば?その瞬間から、誰しも身動き一つ取れなくなるものだ……重い重い威力は、時を止める。
そして、拙者の突きは、槍のそれよりもはるかに重く―――。
―――『重い』?
思考をはるかに超えた直感で、サカキは己の結末を嗅ぎつけていた。
―――なるほど。ゆえに、拙者の時が止まるのか。
鬼のような腕力であった。猿のように跳び、オオカミのように俊敏で、どのサムライよりも器用。鳥のようにもよく舞うが、この天狗、真の脅威は、『ありえぬほどの馬鹿力』。篭手に触れた脇差しの刃から、天狗の力が伝わってくる。
前傾、全速力、全体重。それらのを全て込めることで、火臓刺しは何者も阻むことのない突進力を生み出していた。だが、それはあくまでも力が互角であったときの話。ありえぬほどの馬鹿力は、まるで鉄の壁のようであった。
岩でも突いたかのようだな。拙者の体重と力を込めた、この一撃……その重みを、こやつは腕力一つで止めおった。サカキは右足の底がすべるのを感じる。地に突き立てるように踏み込んでおかなければならないそれが、わずかに浮かされているのだ。
サカキは左の篭手から感じる、圧がどんどん強くなっていることに気がつく。この下からかち上げてくるような圧力が、火臓刺しを止めてしまっていた。
……片腕ひとつか。しかも、逆手の握りで、そんな構えから打ち込んでいるというのに、お前の『力』は拙者の全てに打ち勝てるのか―――。
サカキの突きが止まっていた。いや、力ずくで止められていたのだ。
篭手から伝わる絶対的な圧力によって、突撃のための力の全てが狂わされている。たとえるならば、大岩に槍で突撃したからといって、大岩が揺らぐことはなく、その反動を受けた使い手のほうが、ただその場に止まってしまうようなもの。
絶対的な力は、速さを無意味にしてしまうこともあった。
『―――なるほど。さすがだ』
ザシュウウウウウウウウウウッ!!
鎧武者の篭手が切り裂かれ、刀を握りしめたサカキの前腕部もまた刃によって断ち切られていた。刹那の交差を力ずくで勝利に持ち込んだ天狗は、この必殺の機会を逃さない。すぐさまサカキに飛びついて、左手を鎧の襟元に引っかけると、逆手に握った脇差しを鎧武者の首もとに叩き込んだ!
まるで、獣に噛みつかれ、その『牙』に貫かれるかのうようだのう……。
鎖骨と肋骨を貫き、肺を破り、かつては動いていた心臓に天歌の『牙』は到達した。サカキを縛る呪術が解き放たれ、彼は再び死体へと戻っていく。サカキにはもはや自分と天歌の体重を支えきる力もなく、バタリと音を立てながら仰向けに倒れてしまった。
それでも、黄金色の瞳が、サカキをギロリとにらんでいる。天歌は必殺の気配を保っているのだ。サカキが滅びるまで、その警戒は決して解けないだろう。
『……良い心がけだ。バケモノとやるときは……そう、すべきだ……』
「……気なんて抜けるか。確実に、殺されかけたのは、オレの方だからな」
天歌の額に脂汗が浮かぶ。死、それに限りなく近づいていたことを彼は理解している。刃と刃が交差した瞬間、彼は早打ちの勝負で負けていたのだ。危うく、死ぬところだった。
「潜り込んで斬り捨てるつもりだったのに……アンタのが、速かった」
『……うむ。技でも速さでも、拙者は勝っていた。それでも、おぬしの『力』にねじ伏せられて負けたのよ……せめて利き腕ならば……いや……同じことか。突いた腕の勢いを止められ、わずかに胸の骨を穿ち、その直後……叩き切られる…………見事よ』
―――満足していた。サカキはこの戦いで逝けることに、歓びさえ感じている。シドーへの恨み、そして、西の都に残した娘たちのこと……清算しきれぬ思いは少なくないが、それでも、この終わりは武人として誇らしくてたまらなかった。
『……天狗よ。その脇差しで、拙者の首を取れ……そうすれば、拙者は終われるだろう』
「……いいのか?多分、成仏しちまうぞ?……言い残すことはねえのかよ。アンタには娘とかがいるんだろ?……よく分からんが、『家族』ってのは、大事なものなんだろ?」
天歌としては珍しい感情であった。他人を心配してやることなど、彼には滅多とないことだが……本日はメノウにつづいて二度目かもしれない。おそらくそれは、天歌がサカキという亡霊に対して、少なからずの共感を覚えていることが原因だろう。
サカキが天歌を気に入ったのと同じように、天歌もまた、このまっすぐなサムライを評価しているのだ。死にゆく者へのリスペクト。そんなものをこの少年が抱いたことを赤い髪の親友が知ったりすれば、さぞ驚いたはずだ。そして、おそらくは蓮華姫の影響なのだと大牙がこの場にいれば分析したかもしれない……。
サカキは天歌の言葉に、しばらく沈黙していたが、やがて静かに苦笑した。
『いや、言葉は遺さなくてもよい。あやつもサムライの娘よ、言わずとしても心は伝わるだろう……拙者は、よく戦ってきた。語るべきことは、すでに刀で語り終えておるわ……』
「そうか。『剣聖』だもんな」
『……心残りは、一つだけか。一つだけ……聞かねばならん。おぬしの名前は?』
「……天歌だ」
『天狗の名……うむ。あの世に持っていく土産としては……上々だ……―――』
骸骨武者の眼のくぼみで燃えていた霊力の炎が消えていた。再びサカキは死んだのだろう。だが、それをより明白にすべきため、天歌は脇差しをつかってサカキの首を切り取った。その首を、彼は古寺の崩れた本堂近くに持っていく。屍龍が吐いた炎が、そこにはまだくすぶっていた。
「埋めるのは手間だ。火葬にしてやるよ。じゃあな、サカキ」
天歌はサカキの首をその炎のなかへと投げ込んでいた。炎はやがて大きくなり、あの骸骨をすっかりと焼き尽くしてしまうだろう。それを確信した天歌はサカキの胴体のところへ戻り、近くに転がっていた彼の左手から刀を奪い取った。
「……シドーを追いかけるんだ。脇差し一本じゃ心もとねえからよ。もらっとくぜ」
そう。天歌の戦いはまだ終わってはいない。シドーを討つ。それが、今度の旅の目的なのだから。若くたくましい首が空を仰ぐ……太陽はさらに昏くなり、その表面に刻まれている呪印の文字は増えていた。
呪術については知識が少ないが、どうせあんなものは悪い徴候だろう、状況は進んでいるのだ、ロクでもない方向に……天歌はそう判断する。時間は残されてはいないようだ。それに、シドーにもまだ策があるかもしれねえしな。
天歌の脳裏に、ふとあの黒髪の少女が浮かんだ。メノウ……あいつと同じぐらいの術者がシドーのそばにはまだ何人もいるってのか?
「……そうだとすると、蓮華。あいつの心配もしてやらねーとな。一応、オレの嫁だし」
家族愛?を知りつつある山賊は、古寺を飛び出して、死都の通りへと躍り出た。あの屍龍が遠くへ行ってしまったせいだろうか?……静まりかえっていたはずの亡者どもが、廃墟の中からぞろぞろとあふれ出てきている。
「―――へへ。けっきょく、強行突破かよ。まあ、いつものことだな」