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Raining

・友人のサイト管理人さんが作ってくれた「自然に綴る28のお題」の「1.雨の温もり」をもとに作成されています。お題は現在公開停止中です。


「好きだったわよね、桔梗の花」

 平たい墓石の前に、私は花束をそっと置いた。緑色の芝生に鮮やかな青色が美しい。

 空に垂れこめた雲は薄墨色に染まり、吹く風もやや湿り気を帯びて肌にまといつくようだった。カーディガンの前をかき合わせながら、傘を携帯してこなかったことを小さく後悔する。

 私はその場に膝をつくと、墓碑の表面に刻まれた銘を指先でなぞった。

 ――良き息子、良き兄、良き恋人――

 良き、だなんて聞いて呆れるわ。あんなに優しいご両親や、可愛い妹さんや……

「私を残して、先に逝っておきながら」

 磨きこまれた御影石の、ひんやりとした滑らかさが手に心地良かった。微笑が漏れる。彼が死んで以来もう笑うことなどできないと思っていたのに、人間とは案外頑丈にできているものだ。

 湿った風が少し強くなって、髪がさらさらと乱れた。

 私の銀色の髪が好きだと言った彼のために、背中に届くほど伸ばしていた髪が。



 あの日からそろそろ一年になる。

 空気に光が満ちているかのように爽やかな初夏の日だった。彼は信号無視で交差点に突っ込んできたスポーツカーに撥ねられ、病院に搬送された。打ち所が悪かったらしく、私が病院に駆けつけたときには、彼はすでに息をしていなかった。

 婚約者だった。彼が生きていれば、秋には式を挙げているはずだった。

 彼の身体に取りすがって泣いている彼の母親や妹、歯を食いしばって立ち尽くしている彼の父親の姿を見ながら、私の心は虚ろだった。どうしてか涙も出ない。あんなに愛した人がこの世からいなくなったというのに、なにも考えられなかった。

 墓地に足を運んだ人々の心情をまるっきり無視して、彼の葬儀の日は雲ひとつない快晴だった。強い日差しに目を細めつつ、彼を納めた棺が地中深く埋まっていくのを見送ったときでさえ、私の胸中にあったのはたのはまったくの虚無でしかなかった。――嗚咽ひとつ漏らさない故人の婚約者を、参列者はいったいどう思ったことだろう。

 抜けるように青い空。墓石の上に踊る木漏れ日。掘り返した土の匂いが濃く滲んだ大気。その中へとゆっくり溶けていく葬送歌。その日の情景は私の空っぽの心に奇妙にくっきりと焼き付いて、今なお、苦しくなるほど色鮮やかなままだ。



 それでも、私はここにいるんだわ。

 風が髪をなぶるに任せながら、私はぼんやりと考えた。狭い棺の中でも冷たい土の下でもなく、私は今、ここに生きている。二人で借りた部屋を広すぎると感じることも、主を失ったマグカップを処分できないことも、彼が好きだったパンをいまだに切らさないようにしていることも関係なく、それはひとつの、揺るがない事実だった。

「今、ね」

 ぺたぺたと墓石に触れながら、私は小さく呟く。この真下で永遠の安息にまどろむ彼に向けて。

「お付き合いを申し込んでくれているひとがいるの。いいひとよ、とっても。髪は赤で、緑色の目がすごく優しくって……ああでも、背はあなたのほうが少し高いかしら」

 こうして語りかければ語りかけただけ、彼を愛した自分の姿が浮き彫りになるようだった。私はゆるく目を閉じ、自分の中に彼が占めていた重さを再確認する。芝の匂いと、墓前に供えた桔梗の香りが微かに鼻腔に届いた。

 生きているものは、生きていかねばならないのだ。やがて天に召されるそのときまでは、私はここにいなければならない。二度と帰らぬ人の思い出が、抱えて歩くには重過ぎるとしても。



 私は持ってきたハンドバッグを開けると、その中に硬い金属の感触を探した。今まで触れていた御影石の墓碑とはまた違った冷たさをまとったそれは、まだ新しい銀色の鋏だった。オフィスワーク用のすらりとしたデザインで、私の手に良く馴染む。

 右手にそれを握って、二枚の刃を何度か動かしてみる。しゃきしゃきという小さな音が、いかにもよく切れそうで気持ち良い。

 ひとしきりその動作を楽しんだあと、私は顔に流れかかる銀髪を空いた左手でまとめて掴み、肩の少し上あたりに見当をつけて後ろ手に鋏を入れた。じょき、とも、じょり、ともつかない音が耳のすぐそばで響く。左手からこぼれた幾筋かの銀色が、ぱらぱらと芝生に落ちた。

 じょり、じょき、り。さらに数回鋏を動かして、私は髪を完全に切り落とした。軽くなった頭を振って「出来具合」を確かめる。切り口が不揃いになってしまったようだが、まあ良い。――だいぶ、すっきりした。

 ポケットから出したハンカチに、切った髪を包む。長く伸ばしていた髪の量は多く、大判のハンカチに包んでもなお、端から銀の色を覗かせるほどだった。その包みを花束の隣に置いて、散らばらないように鋏で重石をする。

「またね」

 そう言って立ち上がった私の顔に、ぽつりと雨滴が触れた。どうやら降り出してしまったらしい。本降りになる前に、家に帰りつければ良いけれど。

 この時期の雨は温かい。その快い温度が呼び水にでもなったかのように、私の両目から涙が溢れた。彼を失ってから初めての――やっと流れた、涙だった。

 雨と涙とで頬を濡らしながら、私は小さく笑った。

 温かな雨に打たれながら、髪を撫でる彼の手の感触を、その中に確かに感じた気がした。


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