全力のごめんなさいを込めて
万一のことを考えて朝早くに来たことが幸いしたのか、教室までは誰ともすれ違うことなく辿りつくことができた。物音ひとつ無い教室の扉の前に立ち、誰かに会わないかという緊張ではちきれんばかりに鳴り響いている心臓を落ち着かせる。
席についてしまえばズボンの状態は限りなく目立たなくなる。トイレに立ちさえしなければ放課後まで安全にすごすことができるだろう。
とはいえ、安心するのはまだ早い、廊下にはいなくても教室内に意識の高い生徒や先生がいる可能性は十分にあるのだ。
最後の最後で失敗することの無いよう、ズボンの状態を隅々まで確かめると、極めて自然に教室内に入った。
瞬間、ナイフよりも鋭い視線の群れが俺に突き刺さった。
教室内のあちこちから放たれる、驚き、敵意、警戒、その他諸々の負の感情を寄せ集めたような視線の圧力に口の中が乾き、動悸が早まる。それでも、なんとかして状況を把握しようと必死で目を動かすと、まばらに机に座った明らかにクラスメイトではない人たちに交じって、見知った人物が教卓に立っているのが目に入った。
「酒井……さん……?」
酒井美由紀、クラスの学級委員であり、明るくわけ隔てのない性格の彼女は異性の中では比較的よく話す相手の一人だ。
しかし、今教卓から値踏みするようにこちらを眺める彼女の表情は見たことも無いような冷たさを孕んでおり、普段の彼女のソレとはまるで似ても似つかないものだった。一瞬、よく似た別人ではないか、という疑念が脳裏をよぎる。
「あれ、谷戸君。今日は早いのね。なにかあったの?」
俺の知る限り、この人はこんな冷たい声を出す人ではなかったが、その声質は酒井さんのものと全く同じように思える。だとすれば、普段は猫を被っていたのだろうか。そもそも、この怪しい集会は何の集まりなんだ?
様々な疑問が湧いて出てくるが、それすらも気にならなくなるほど。本能がこの集まりにたいして危機感を訴えていた。
「偶々早く起きちゃったんだ。それにしてもこの教室使ってたんだな。邪魔しちゃ悪いから外で時間潰してるわ」
そこまで一息に言って即座に教室を出ようとすると、振り返った目の前で扉が閉まった。
明らかな異常事態に脳が全力で警鐘を鳴らす。
いつの間にか、酒井さんが近くに立っていた。
「一つ聞きたいことがあるわ」
「な、なんだ?」
「あなた、今下着は穿いているかしら?」
「なっ!?何言って……!穿いてるに決まってるだろ!!」
予想もしていなかった急所への突然の追及に思わず声が上ずる、その反応に彼女の目が鋭く細められた。
「本当に?」
「あ、あぁ」
「なら確かめさせてもらうわ。マイケル」
彼女の言葉に応えて椅子に座っていた身長二メートルほどの黒人の男が立ち上がると、
その見た目に似合わない俊敏さで一気に間合いを詰め、俺の胸ぐらをつかみ上げた。
「がっ……」
衝撃に息が詰まる。必死に抵抗してみるものの、その丸太のような腕に込められた力は相応に強く、びくともしない。そのままマイケルと呼ばれた男は何事も無かったかのように俺を持ち上げると、ズボンを引っ張り、中を覗き込んだ。
てっきりズボンを下ろされるものだと思っていただけに、微妙に紳士的と言えなくもない行動に微妙に安心を覚えるが、良く考えればガタイの良い黒人にズボンの中を覗かれるというのは欠片も安心できる状況ではなかった。
俺が一体何をしたというんだ。
マイケルは俺がパンツをはいていないことを確認すると、俺を地面に下し、酒井さんに向けて手でバツ印を作った。
周囲から安堵の溜息やわずかなざわめきが聞こえ出す。
心なしか、先程と比べて空気もやわらかくなったようだ。
いつからパンツを穿くのはそんな恐るべき行為になったんだろうか。
答えを求めるように酒井さんの方を見ると、彼女もまた鋭かった目つきをわずかに和らげてこちらを見ていた。
「よかった、結界が破られていた訳ではないみたいね。それで、なぜあなたは下着をつけていないの?」
どうやら、ノーパンが常識になったというわけでもないらしい。しかし、ノーパンでいる言い訳などとっさに思い浮かぶはずもない、どう答えていいものか分からず言葉に詰まっていると、酒井さんは何かに気づいたように軽く手をたたいた。
「ああそっか、趣味とかだったりしたら言いづらいわよね。大丈夫、たとえ趣味でもここにいる人は全く気にしないから。ただスパイかそうでないかを知りたいだけよ。嘘をつかずに話してちょうだい」
パンツを穿かないこととスパイに何の関係があるのかは一切わからないが、妙に厄介ごとの予感がする。
さっきの話も、嘘をつかずに、の所に妙に力がこもっていて仮に嘘を吐いたら即座に殺されてしまいそうな気迫を放っているし、下手な事は言えそうに無い。
もうこうなればヤケだ、笑われても構うものかという覚悟で、俺は事実を口にすることにした。
「穿けなくなったんだ。正確には、穿くと破れるようになった」
ざわめきが、ピタリと止んだ。
全く音の無くなった教室に誰かが取り落としたペンがからんと乾いた音を響かせる。
誰も彼もが満月のように目を見開き、今起こっていることが信じられないかのような顔をしている。
突如訪れた静寂の中で、酒井さんがポツリとつぶやいた。
「まさか貴方がアダムだというの……?」
直後、轟音と共に強烈な振動が地面を走り、俺は空中に弾き飛ばされた。
本当に、本当に申し訳ありませんでした。
お詫びのしようもありません。
二年 らびっしゅ