銀河鉄道の朝
どこまでも続く波打ち際を、裸足で歩く。
夜の明けきらない紫と濃紺の空がどこまでも続き、変わらない潮騒だけが耳に優しく響いていた。寄せては返す、繰り返しの音律。誘うように、諫めるように。
さっきまでの向かい風はもうどこにもなく、ただ穏やかな風が私の背中を押していた。
この風景のどこにも、もう、彼がいない。
噛み締めた唇を越えて漏れる嗚咽を、目覚めたばかりの海猫の鳴き声が、消した。
溢れる何もかもを内に含んだ感情に、どうしようもなく涙が溢れる。私はそれを拭いもせずに、ただひたすら、進む。
悲しみではなく、切なさでもなく。ただ、悔しかった。
彼を呼ぶ運命に、世界に、居場所に、自分がなれなかったことだけが、悔しかった。最後に触れた指先に、頬に触れた体温に、私はなんて応えただろうか。
もうわからない。
何もかも、消えてしまったから。
彼とは生まれる前からの縁続き。
運命とか、そういう類のものではなく、単に母親同士が近所で仲良しで。妊娠した時期も、もちろん出産の時期も同じだったと、そういうわけだ。
だから両方の母親からは耳にたこができるくらいに言い聞かされた。「あなたたちは、生まれる前から会っていたのよ」と。
だからだろうか。それとも、お互いに一人っ子同士だったからだろうか。
私たちはまるで双子のように一緒に育ち、同じものを見て同じように笑う、そんな幼なじみだった。何もかもを分かち合うようにして、育ってきた。
その彼が初めて私の前から姿を消したのは、七歳の時。
それは暑い夏の日。小学校からひとりにひとつずつもらった向日葵を、ふたりして大事そうに抱えて家に帰る途中のこと。
いつものように笑いあいながら追いかけっこをしていたその足が、ふいに止まる。振り返ってついてこない彼に首を傾げる私の前で、彼の姿はすうっと逃げ水のように空気に溶けて消えてしまった。
何かに呼び止められたかのように、視線を空に合わせたまま。向日葵を、置いて。
蝉の声がただ、うるさく耳に響いていた。それだけだった。
びっくりした私は慌てて家に帰り、事の次第を母親に伝えても、母親は笑って相手にしてくれない。軽くパニックになった私のその主張が受け入れられたのは、日が落ちた夕方のこと。
いつまでも帰らない息子を心配した彼の母親が、うちに連絡を入れたことからだった。
覚えているのはパトカーの赤いランプ。人のざわめき。彼の母親の悲痛な泣き声。
私は両親とともに、何度も背広を着た男の人の質問に答えた。
学校からの帰り道一緒だったこと。何かに呼ばれるように、彼が消えてしまったこと。もう、どこにもいなかったこと。
それはあまりに非現実的すぎて、七歳の子供の言うことだとあまり真剣には受け止められなかったらしい。
そのまま一日が過ぎ、二日が過ぎ、一週間が過ぎた。日常は、まるでそんな事件はなかったかのように続いていく。
私はその間何度もあの場所に足を運んで彼を呼んだけれど、それに答えてくれる声はなかった。
彼と一緒に持ち帰った向日葵は、とうにしおれて首を垂らし、その姿に私は初めて心細さを感じていた。そして、明くる日。
彼はひょっこりと自分の家へと帰ってきた。
それはもう、上を下への大騒ぎ。彼の両親どころか、私の両親も大泣きで喜び、彼の母親はその日ずっと彼を抱き締めたまま離そうとしなかったという。
後に警察が彼に事情を訊いてはみたが、彼の返答は要領を得なかったようで、そのまま未解決となった。
それもそのはず。あの時彼は、初めて異世界へと呼ばれていたのだったのだから――。
その事実を彼が私にうち明けてくれたのは、中学二年の冬。期末テストを控えて緊張感の漂う、学校の図書室でのことだった。
栗色の柔らかそうな髪をかき上げて、同色の瞳で上目遣いに私を見て、どこか少し甘えるような口調で、彼は言った。「ねえ、信じてくれるよね」と。
私たちは相も変わらずいつも二人で、どんなことも、例えば先週目の前の彼が学校一番の美少女に告白されたことなんかも知っていて、だから今さら何を、といううろんな視線を私は彼に投げ返した。
それを受け止め、彼はなぜかひどく嬉しそうな笑みを浮かべる。ぱたり、と手にしていたシャーペンをノートの上に放って、内緒話をするかのように私の顔に口を寄せる。
「僕、異世界に呼ばれているんだ」
何を馬鹿なことを、といつもの冗談として処理しようとした私は、唇が触れてしまいそうなほど近くにある彼の瞳を見て、黙り込む。
それは淡く、深い、彼独特の色。世界の何もかもを飲み込んでしまったような、そんな瞳。
ただ彼を見返す私に、彼はふっと笑んで身を離した。急激に、胸が、鳴る。
それを誤魔化すように深くため息をついた私は、面白そうにこちらを見つめる彼を睨み付けた。
「異世界って、なに」
その言葉に、彼はますます嬉しそうに笑う。
どんなに背が伸びて私を追い越そうとも、喉仏や肩幅が、あきらかに女の私と違っていこうとも、それだけは変わらない。どこか切ない優しい笑顔に、胸が詰まる。
「朝来は信じてくれるんだ。僕の話」
「だから、異世界ってなに」
ほうっと息を吐いた彼に、私はなぜか苛立って言葉を重ねた。彼にだけは、そんな風に試されたくなかった。
彼の言葉は、私の言葉だったから。きっとそれは、生まれる前からの約束だったから。
顔をしかめる私に、彼はちょっと困ったような笑みで「ごめん」と頭を下げる。
「だって、突拍子もないだろう?」
「それでも、三千立の事なら信じるよ。私には絶対、嘘をつかないじゃない」
真剣な顔をして私が言い募れば、彼はどこかくすぐったそうな顔をして手で口元を覆い、頷く。そんなこと知っているのに、確認して、嬉しがって。
おかしな彼に私が首を傾げていると、ふいに彼の手が机の上に投げ出されていた私の手を握った。
いつの間にかずいぶんと大きくなった手のひらが、私のを包み込む。温かい、体温。長い指は繊細な美しさを持ち、けれど決して女の持ち得ない無骨さも兼ね備えていた。その親指が、私の手の甲をゆっくりとなぞる。
ぞくりと背を駆け抜ける感覚に、私はぎゅっと身を固くした。
「僕は時々消えるんだ。違う世界に、呼ばれているから」
どこか悲しそうに、彼は言う。
それは彼の中ではすでに決定した事柄で、それを否定することに疲れたかのような響きを持って私に届く。
私にはそれがなぜだかとても腹立たしく、触れていた彼の手を強く握りしめ言った。
「どうして三千立なの。三千立じゃなきゃならないの」
言葉にしてから、その必死さに顔を赤くする。子供の駄々のようなそれに、彼は再び嬉しそう目を細めた。
いつの間にか、私たち以外に人のいなくなった図書館の片隅で、世界は彼を選択する。
ふわり、と風もないのに彼の前髪がそよぐ。それから、蛍のようにその身体が明滅して。
やっぱり悲しそうに、彼は薄い唇を開いて、閉じた。
そうして彼は図書室から、私の前から再び姿を消したのだった。
それは私にとっては二度目の、彼の両親にとっては数度目かの行方不明だった。
七歳のときのように動揺して駆け込んだ私を迎えた彼の母親は、仕方がないとでもいうように眉を下げて微笑んだ。「またなのね」と。
久しぶりに紅茶でもどう?と招かれた彼の家で、私と彼の母親は黙って向かい合う。
先に口を開いたのは彼の母親だった。
「あの七歳の時の失そうからなの。あの子ね、『呼ばれてるんだ』って言って、時々姿を消してしまうのよ」
初めて聞くことだった。こんなことがあの時以来、何度も繰り返されていたなんて、知らなかった。
そういえば彼は時々、具合が悪いとかそんな理由で学校を休むことがあったけれど。
目を見開いて固まる私を見て、彼の母親は申し訳なさそうに言う。
「最初は信じられなかったけど、本当らしいの。だから、私たちはただ待つことにしたのよ。必ず帰ってくるって、信じて……」
言葉の終わりに揺れた声に気付かないふりをして、私は頷いて席を立った。それならば私も、信じて待つしかないのだから。
彼の家を辞して、暗くなった帰り道をゆく。空にはもう、星が出ていた。
手にした鞄をぶらぶらと振り回しながら、私は唇に星巡りの歌をのせる。それは彼と私が、小さい頃から歌って帰った曲。どこか物悲しい、旋律。
私は彼が、恋しかった。
高校生になると、彼は私と一緒の学校に進学したにもかかわらず、登校してくることはなかった。
周囲には病弱だから、という理由で通していたけれど、私は彼がごく健康であることを知っていた。だから毎日放課後、彼の新しい隠れ家に顔を出す。
彼と私の家の間にある喫茶店、『天気輪』。いつ来ても彼以外の客の姿があったことはなく、最近では店主すら姿を見せないこともある。
そんな店の窓際で本を片手に、長居なのか店番なのか、わらないことをしているのが今の彼の毎日だった。
だから私は今日も、学校の帰り道にその店へと立ち寄る。きっと、彼が柔らかい声で「いらっしゃい」と言ってくれると信じて。
「あ、朝来。いらっしゃい」
夕方のオレンジの光を背にして、白いシャツを無造作に着た彼が笑う。それは、なぜだかどこか嘘くさくて、私はじっと本当だとわかるまで彼を見つめる。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、彼はにこにこと笑って私の頭を撫でると、そっと背中に手を置いて中へと誘う。
いつの間にか、彼は私の背丈をずっと追い越し、背に触れるその手のひらも大きくなってしまっていた。それが何だか、悲しい。
「コーヒー、飲むでしょう?」
「うん」
勝手知ったるとでもいうように、カウンターの中に入った彼がお気に入りのカップを取りだし、温かいコーヒーを注ぐ。深い藍色の、星空を思わせる模様のコーヒーカップは儚い湯気をゆらゆらと立てて、私の前に置かれた。
新しい環境に少しばかり追い立てられるように過ごすうちに、季節はもう冬だった。
私は香ばしい香りを放つカップを両手に包んで、ひとくち飲み込む。その熱さに、両目をしばたたかせた。
「大丈夫?」
何とも言えない顔をした私を見て、彼はひっそりとした笑い声を零した。むっとして、私は彼を睨む。
「ごめん」と口にした彼は、そっと壊れ物にでも触れるかのような仕草で、私の頭に触れる。ゆっくりと、撫でて。肩口までの私の真っ直ぐな髪を梳く。時折耳に触れる指がくすぐったくて、私は肩をすくめた。
すると次の瞬間、ふと差し込んだ影に見上げた私の唇に彼が、触れた。
かさついて、だけどひどく柔らかい。
薄い唇が、離れて、触れる。冷たそうに見えたそれは、外から来たばかりの私よりずっと、温かかった。
キスを、されている。
行為より一瞬遅れてきたその認識に、私は拳で彼の肩を強く小突く。その感触は強く、まるでびくともしない身体に少しの恐怖を覚える。彼と私は、違う。違う生き物。
そんな私の震えを感じ取ったかのように、ゆっくりと彼が身を引いた。
俯いて、両腕で真っ赤になった顔を隠す私に触れる。
愛おしむように、確かめるように肩をなぞったその両手は私の腕を押しのけ、両頬を包んで顔を上げさせる。
辛うじて泣いてはいなかったけれど、きっとひどい顔をしていた。
猿のように真っ赤で、怒っていいのか泣いたらいいのかわからなくて、恥ずかしくて、嬉しくて、本当はもう一度してほしかった。
彼は私をその色素の薄い瞳でじっと見つめ、それからふわっと心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
真白い頬に、赤みが差す。
「好きだよ、朝来。すごく、すごく」
カウンター越しに引き寄せられて、強く抱き締められる。男の身体は女よりも体温が高いと、そう聞いたことがあるけれど、それは本当みたいだった。
激しく響く鼓動は、私のもののようでもあり、彼のもののようでもある。静かな店の中に、近くの海から聞こえる潮騒と、私たちの吐息だけが聞こえていた。
それでもどこか、カウンター越しの距離が寂しかった。それが私と彼の距離だったから。
二人で過ごしたその冬を、私はきっと忘れない。
あれから私は今まで以上に彼と時間を共有するようになった。学校が終わり次第、走って店に行き、くっついて本を読む。
時々、彼に読み聞かせてもらいながら、眠る。それは小鳥が母鳥の胸に包まれているかのように、ひどく安心できる空間だった。
そこにいる時だけは私には彼しかおらず、彼には私しかいない。世界は静かで、波の音だけがいつも耳に残った。
冬休みに入ってもそれは続き、私たちは眠る時以外ずっとふたりだった。
「朝来と一生分過ごすために、僕の時間はどのくらい必要なのかな」
ぽつりと、窓の外を眺めていた彼が呟く。私はそれを彼の肩にもたれたまま、黙って聞いた。答えはどこにも、なかったから。
こうして体温を共有していたとしても、手を固く握り合っていても、私が全力で追いかけても、きっと間に合わない。
彼の遠い瞳は、私の届かない世界を選択していた。ずっと、昔から。きっと、決まっていたこと。
もうすぐ、彼は帰ってこられなくなる。
「一生じゃなくていいから、ここにいて」
目を閉じたままでそう言った私の頬に、彼の睫毛が軽く触れた。冷たい、感触。
誓わせるだけの強さも根拠も、私の中に見つけられなかったから。ただ、瞼に降ってくる彼の唇を感じることだけに集中する。
涙を閉じこめるように、彼は柔らかくそこにキスをする。悲しみに、蓋をして、ふたり。
彼は許しを請うように、「大好き」とひっそり呟く。
私は目を開けて、彼の唇に自分のそれを合わせ、その言葉を必死に飲み込む。
結局、私は一度もその言葉に答えることはなかった。
二度と告げることができなくなった、今でも。
それはまだ寒さの残る、春の海だった。
いつものように『天気輪』へと急ぐ私の前に、ひとつの影が目に入った。頼りない長身の、白いシャツを羽織った影。
海に反射する夕光に、そのうす茶色の髪が金に光った。
「三千立」
短く呼んで、私は堤防を乗り越えると波打ち際に走った。とても怖かった。本能が感じていた。彼がそのまま、引き波にさらわれてしまうような、そんな気がしていた。
私が近寄ると、彼はにっこりといつもの笑顔を向けた。
まだ寒いのに、裸足の足が海の中にある。白くて、筋張った彼の足。
なんだかとても不安定で、儚くて、すぐにでも冷えて血の気のないその足を温めてあげたくて、私は彼の腕を強く引いた。
特に逆らうでもなく、私に従って彼は乾いた砂浜へと上がってくる。急いで鞄からタオルを取りだし、しゃがみ込んで彼の足を包んだ。頭上から、困ったような笑い声。
気にせず私は、水分をふき取った足を、今度は自分の両手でさすってみる。体温を、わけなくちゃ。ただ、それだけ。
擦って、擦って、白い足の甲が赤くなるくらい、擦って。だけど、彼の足はちっとも温もりを取り戻そうとしない。ひどく悲しくなる。
むきになってさらに擦ろうとした私の手を、いつの間にかしゃがんだ彼の手が、止めた。
視線を合わせれば、幸せそうな彼の顔。
その握った手を今度は彼が引っ張って、ふたりして砂浜に腰を下ろす。夕方の潮風が、少しだけ肌寒い。
「朝来、見て」
彼の手が、暗くなりかけた紫と濃紺の空を指さす。私はその指先を追うように、夜空にはまだ明るい空を見上げた。
うっすらと、瞬く白の光たち。五億鈴の星。こんなにあやふやなのに、その光はずっと昔から今ここに届いているという。
「僕は、あそこに旅立っていくんだ」
静かな言葉が降りてきた。それは疑問でも確認でもなく、ただの事実だった。彼がいなくなるという、ただそれだけのことだった。
彼が見ているものが、私には見えない。誰にも見えない。だけどきっと、彼の指さすあの空に、彼を呼ぶ世界があるのだろう。一緒に行けない、彼の世界が。
次の瞬間、私は強い力で抱き締められる。
耳にいつかの冷たい睫毛。頬に意外としっかりした首筋の感触。抱き締める両腕のわきから触れた、私の体の造りとは全然違う、固い肩胛骨。
寸分の隙もなく、まるで元々ひとつの生き物だったみたいに、私たちは重なり合った。
きっとこれが最後なんだって、わかっていた。耳元でかすかに呼ばれる自分の名前に、私も繰り返し彼の名を呼んだ。
そうして。
彼の身体は大気に溶け出すようにして、消えた。それだけだった。
ひとりきりで夜を過ごして、潮風にぱさつく髪も気にせず、私はただ歩く。
彼と過ごした最後の夕方と、同じ色をした空の下を泣きながら。
だって、もう彼がいない。泣かないようにと瞼にくれた口付けは、もうどこにもない。二度ともらえない。だから涙が流れるんだ。
私はそれを拭いもしないで、どこへ向かっているのかわからないまま、砂浜をひたすらに歩いてゆく。
もっと、キスをすればよかった。もっと、もっと抱き締めればよかった。彼をこの身体に、刻めばよかった。
何もかも、もう遅い。
彼は私に記憶以外の何も残してはくれなかった。最後に残った体温でさえ、穏やかな海の風にさらわれて消えた。
存在の消失に耐えきれなくて、私は砂地にしゃがみこむ。人気のない、冷たい朝の空気に、私の嗚咽だけが静かに響いた。
『ねえ、三千立。なんで銀河鉄道は夜なんだろうね』
『……星が、綺麗だからかな』
『だけど、朝のほうが楽しいと思わない?』
『うん、そうだね。朝来と一緒なら、どこに行っても楽しい。きっと、素敵な旅になる』
あの銀河の果てへでも――