雨の日に始めよう(1)
── ここだけの話、俺は梅雨がそこまで嫌いではない。
確かに雨が続くと湿気もすごいし、なかなか乾かないから毎日の靴にも困る。妹なんかは髪がまとまらずに大変だと嘆いているし、毎日が薄暗くて気が滅入るというのもわかる。
けれど何故か昔から、雨音を聞くのが俺は好きだった。
激しく叩きつけるよりは、梅雨の頃のような、しとしとと静かに降る音が好きだ。薄暗い場所でその音を聞いていると何故かすごく落ち着くのだ。
もっともそれが一般的な嗜好ではないとわかっているので、誰にも言った事はないけど。
そんな訳で、雨が降っている日だけ俺は図書館の住人になる。
普段は寄り付きもしないその場所の書庫は、人がいなくて適度に静かでしかも暗い。しかも、図書室に出れば冷暖房完備。
何となく一人になりたい時に最適な場所だと気付いてから、特に用事がない限り雨の日の放課後はそこで過ごすようになっていた。
それは親しい友人も知らない、秘密の習慣だった。…のだが。
+ + +
6月の中旬、梅雨入り宣言が出てからじめじめした日が続いていた。
今日も朝から小雨模様。その日も俺は図書館に向かっていた。ただし、いつもと違って足取りは常以上に重い。というのも──。
廊下の途中で立ち止まり、ポケットから折りたたんだ小さなメモ用紙を取り出す。そこには几帳面そうな文字でこう書かれていた。
『次の雨の日の放課後、図書室の910番台の本が並んでいる場所でお待ちしています』
薄い花柄のメモ用紙といい、何処となく緊張しているような文字と言い、文体といい。
多分、女の子からのものだ── そうであって欲しいという願望が入っている事は否定できないけれども。
自慢ではないが、そんな物を個人的に貰った事なんて、十六年間生きてきて一度もない。
というか、この展開ってアレだろ? アレしかないだろ……!?
青春真っ盛りの男に、妄想するなと言う方が無理だ。必死に隠しはしたが、机の中からこれを見つけた時は相当に驚いたし、そして舞い上がった。
だが、だがしかしだ。
図書館に時折行くと言っても、雨の日のあの空間が好きであって、肝心の本には興味がない俺にとって、910番が一体どこを指すのかもさっぱりわからない。それ以前にこのメモを貰う心当たりが皆無なのが問題だ。
昼休みの俺が不在の僅かな時間に机の中に入っていたという事は、多分同じクラスの子だろう。
特に親しい子もいない上に、進級して三カ月というのにまだ女子の顔と名前が一致してない俺は、問題の場所に辿り着いたとしてその子の名前がちゃんとわかるかが怪しい。
それに。
わざわざ『雨の日』という指定があるという事が何より引っかかった。
これってきっと、俺の習慣を知ってるんだ。
雨の日だけ図書館の書庫にこもって、何をするでもなくぼんやりしてる所を見られているのだと思うと何か居たたまれないし、秘密を暴かれたような不快さもある。
── そんな訳で、本来なら浮かれていても不思議でない足取りはひたすら重くなっていた。
+ + +
今日の図書館は珍しく人影が少なかった。
いつもはもうちょっと人がいるんだけど、用件がわからない今、人目が少ないのは好都合なのかもしれない。本当に告白だったりしたら、恥ずかしくて死ねそうであまり人には聞かれたくないし。
いつもはそのまま書庫に向かう足を、今日はずらりと並ぶ本棚に向ける。
よくみたら本棚の一番上に、分類を示すらしい数字が書かれていた。良かった、これなら910番を探し回らずに済みそうだ。
高校の図書館なんて規模が知れている。すぐに俺は910番の本棚を発見した。そして、そこに立つ女の子の姿も。
顔を見て見覚えがある事に気付く。やっぱり同じクラスの子だ。
もちろん、単に本を探していてそこにいるという事も考えられるので、そのまましばらく様子を見ていると本を探すでもなく佇んでいる。
特別可愛いって訳でもなく、こういう表現は失礼かもしれないけど、何処にでもいる普通の子という印象だった。
肩の辺りで切られた髪は特に染めてる訳でもなくて、制服も変にいじっている感じもなかった。真面目そうだけど、そこまで堅苦しい感じもない── つまりは特に目につく特徴がないって事だけど。
案の定、顔はわかるけど名前が出てこなかった。えーっと、名前はなんだっけ。
そんな事を考えている間に、向こうもこちらに気付いたらしい。俺を見て、少しほっとしたような顔をした所を見ると多分この子で間違ってない。
「…あの」
「良かった、来てくれた」
どう話しかければいいのかわからないまま、取りあえず口を開くと、向こうから話しかけてくれた。
「ごめんね、急に。それにあたし、名前を書くの忘れてて……」
言われて気付く。そう言えば名前が書かれてなかった。普通、最初にそこに気付くだろ。どんだけ混乱してたんだ俺。
「それで、何?」
ぐるぐるした思考のまま、自分でも驚くくらい素っ気ない言葉が口から出た。呼び出された側とは言え、この言い方はないだろう。
内心焦ったものの、出てしまった言葉は戻らない。どう取り繕えばいいのかと思っていると、唐突に言われた。
「あたしと付き合ってくれないかなと思って」
── 告白キタコレ。
嬉しいよりもまず驚いてまじまじと顔を見つめる。言った本人は内容に反して、極普通の表情だったけど。
こういう時ってこう、恥じらったりなんかするもんじゃないのか。それともこれが普通? 俺、女の子に夢見すぎ?
「…付き合うって、その、俺達、今まで話した事もないよな?」
「うん、話すのは今日初めてだね」
あっさり頷く。
何だろう、この甘さ皆無の会話は。
「やっぱり嫌かな。当然だよね、今までまともに話した事もないんだし」
そう言って苦笑する。笑顔と表現するのは微妙だけど、何処か淡々とした表情が崩れたせいか笑うと可愛いかも、なんて思う。
「嫌とか、そういうんじゃ、ないけど……」
俺だって男女交際には人並みに興味ある。ただ、いきなり過ぎるし、頷くには相手の事を知らなすぎるってだけで。
「ほんと?」
あ、ちょっと嬉しそう。
何も知らない相手といきなり付き合う事を了承出来るほど俺は軽くはないけど、友達からならいいかも、なんてこっそり思う。
…その時点でほとんど了承しかけてるようなものだという事は自覚してる。だから思い切って聞く事にした。
「でも、なんで俺?」
「え?」
そんな事を聞かれるとは思わなかったというような顔をされた。
ふと、好きになるのに理由なんてない、なんて何処かの漫画で読んだような表現が頭を掠めたけど、流石にそれはないよな。今まで接点という接点がなかったんだから、何か切っ掛けはあるはず。
そんな思いが顔にでも出ていたのか、彼女はああ、というように頷いた。
「雨の日、好きでしょ?」
ぎょっとした。そんな事一度も公言した事もないのに。
「雨というか、雨の日にぼんやりするのが好きなのかな。いつも雨の日に書庫にいるでしょ」
知ってるのよ、と何処となく楽しげな目が語る。メモを貰った時点でその可能性は気付いていたけど、本人に肯定されると何と言うか破壊力が違う。
誰も知らないと思っていたのに、こんな所に見ている人がいたとは。しかも雨の日限定しか来ないのに知ってるという事は、彼女もよく図書館に来るんだろう。
でも、それでよく雨の日が好きだなんてわかるもんだ。
「別に本が好きって感じでもないのに、いつも書庫なんかに入るから気になって。こっそり覗きに行ったら、なんかすごく居心地良さそうにしてた」
くすくすとその時の事を思い出すように笑う。観察された側としては非常に居心地悪いんですが。
「あたしも、雨の日好きなの。だから気が合うんじゃないかなって」
やはり至極あっさりと言ってくれる。
ひょっとしてそんな事が理由で『付き合って欲しい』なんて言ってきたんだろうか。
それって、こう、恋愛うんぬんというよりは同志って感じがするんだけど。何と言うか、見た目は普通だけど中身は随分変わり者のような。
「── そんな理由じゃ、足りない?」
伺うような上目目線。子供っぽい仕草に思わずこちらも苦笑する。
「…うん、足りない」
言うとがっかりしたように眉が下がる。なんかこちらの言葉で一喜一憂してるみたいで面白いなあ。── なんて思ったら、つい口が滑った。
「足りないから、いいよ」
「へ?」
我ながら訳がわからない。
違うんだ、そういう意味じゃなくて!
「だ、だからその、足りない分、これから増えたらいいかな、とか」
彼女の顔が『何が』と言っている。
くそう、告白されたのはこっちのはずなのに……!
「だから。…理由は、後付けでもいいって事」
多分、俺の方が赤面している。耳が熱いから絶対にそうだ。ああああ、どっちが乙女だ。恥ずかしい。死にたい。
けれど彼女はそれを茶化すでもなく、目をぱちくりとさせ。
「よくわからないけど、付き合ってくれるってこと?」
「えっ、う、うん……」
うあー、この場面で頷くしか出来ないって、俺すっげかっこ悪い。でも彼女は嬉しそうに笑ってくれた。
恥ずかしいばかりでドキドキもしないし、これは多分まだ『恋』なんかじゃない。というか、そもそもこれが恋愛なのかすら怪しいんだけど。
外はしとしと雨模様。絶好の雨音日和。
いつも一人で堪能する時間が、二人になってもいいかなと思う。だからまずは。
これからもっと知り合う為に。
…彼女の名前を知る所から始めよう。
作品自体はこれ単品でも完結しておりますが、宗像は天の邪鬼なので蛇足的なオチがございます。こちらの初々しっとり感(謎)を台無しにする内容ですので、興味のある方だけ次頁をご覧下さいませ。