眠り姫
眠る。
という行為は不思議なものだ。
ロードは長い足を組み、ゆったりとした寝椅子に腰を預けたままの格好で考える。
窓からのぞく月がそうさせるのかもしれない。
今日の月は青白く、綺麗な円形をもって大地にしらじらとした輝きを見せつけているから。そんな夜はなんとなく心が落ち着かないような気がする。
タダビトノヨウニ。
それとも、タダビトデハナイから?
薄い唇を更に口角をあげるようにして引き上げ、薄くする。眠らなくても体に支障が訪れることはない。眠ったからといって何かが変わるわけではない。
自分はいつでも万全で、マイナスにもプラスにもなりはしない。
ロードは漫然としない思考回路の渦の中、そっと自分の唇を指先でなぞった。
――渇きがある。
水を飲めばこの渇きが安らぐだろうか?
では、人々が言うように生き血をすすれば安らぐだろうか?
そうではない。自分は人だから人と同じものを嗜好する。
自分は人ではないから、人であることを求める。
「ロード」
もそりと寝台の上の体が動く。
小さな子供だ。いつもは頭の上で二つに結わえてある黒髪も、今は彼女のうすい肩口で揺れている。もぞもぞと寝台から這い出して、
「おしっこ」
と羞恥も何も気に掛けずに宣言してくる。
ロードは苦笑して小さな子供のもとへと行くと少女を腕に抱き上げた。
まだ半分眠っているような娘を洗面所に連れて行く。夜は怖いからといってトイレ一つ一人でいけない被保護者。
――いっそ、殺してしまえばよい。
それは誘惑だ。
甘い、まさに甘美な誘惑。
はじまりはゲームだった。ゲームを終わりまで導かなくても、ロードには途中で投げ出すことができる。
そのゲームの審判は自分だし、駒を操るのも自分だ。
辞めた。そう宣言することもなく、ただ瞬間――盤面も駒もその全てを放棄したその瞬間でゲームは終わる。
――投げ出したいのに投げ出さない自分。
という役割に楽しさを見出したのは、ゲームをはじめて十年もたたない頃だ。今はすでにそのときから幾年も経過した。
そろそろ――投げ出したいのに投げ出さない自分。という役割も飽いていた。
もたもたと所用をすませて、手も洗わずにロードの足に張り付こうとする娘の頭をひょいっと押さえ込み、
「手を洗いたまえ」
と基本的なことを命じる。
手を洗うことで目がさえてしまうのが嫌な娘は、一瞬顔をしかめたけれど言われたとおりに洗面台で手を洗う。
「ちゃんと石鹸で」
「――」
小うるさい家庭教師のように厳格にいいながら、ロードはじっと監視する。シュリアは不満そうな顔を隠そうともせずに手を荒い、吸収のよいパイル地のタオルで濡れた手をもそもそとぬぐった。
もう一度ひょいと子供を抱えあげた。
手を洗いはしたものの、眠気は去ることもなく子供の体はぬくぬくと温かい。
極度の睡魔のほうが勝るのだろう。
抱き上げて移動する間に、小さな子供はくぅっと眠りに落ちた。
「――シュリア………
ウェイハート」
口付ける。
自分の腕の中で少女が変化する。ふぁさりと長い髪がロードに触れたが、大きくなったシュリアはくてりと眠ったままだった。
「ディティニア?」
呼びかける。
腕の中の女性は身じろぎして、
「――あなた?」
幸せそうに、そっと呟いた。
そのときの衝撃は、ロードを凍りつかせるには十分だった。
――あなた。
その単語がどのような時に使われるのかは知っている。
自分の伴侶へと向けられる言葉。自分のパートナーを示す単語。唯一無二の。
そして、それは決してロードを示すものではないということも知っている。
愚かな娼婦。
その唇が求めるのは、未だに自分を殺した夫なのだろう。
「ディティニア、起きるといい」
大きく一度息をつき、一瞬頭の中身を真っ白にしたロードは優しく微笑んだ。
「君の呪いを解く方法はまだ判らないけれど、小さなシュリアを成長させる方法が――呪いの効力を薄める方法が、わかったよ」
ロードは知りたいのだ。
愛とは何?
憎しみとは何?
この旅の果てに、その答えを見つけるための――それは退屈しのぎのゲームだ。
ロードの甘い囁きに、その瞳が見開かれる。
「本当?」
意味が判っているのかいないのか、ディティニアはがばりと身を起こしてロードの首をしめてしまわんばかりに詰め寄った。
「――本当だ」
憎しみが、生まれる。
これが憎しみ?
ただ、純粋に傷つけてやりたいこの衝動――
――助けて。
あの子を……誰でもいい。神でも、悪魔でも、誰でもいいから。
私のあの子を助けてっ。
血にまみれたディティニアの事切れる寸前のか細い願い。
その全て――まったく意味の無い、戯言。