最後の晩餐
鏡が嫌いだ。
鏡の中にはそばかすの浮いた小さな子供がいるから。
不健康そうな白い顔に、てんてんと散らばるそばかすが嫌い。綺麗なブロンドが理想なのに、なんだかブロンドとはかけ離れた黒い髪だって気に入らない。
絶対にオトナになったらブロンドに染めてやる。
オトナにならなくても、まさに今すぐ染めてやりたいくらいだけれど、ロードはいつも通りの平坦な微笑で「大人になれば何をしようと自由だ」というから、なかなかそれだって難しい。
大人――そもそも、大人っていつから大人なのだろう。
鏡の中の自分ときたら……もう幾年もたいしてかわらずそこにいるのだ。
「機嫌が悪いのかね、シュリア」
「機嫌がいい日なんてないわよ、ロード」
唇を尖らせて言えば、シュリアの髪にブラシをあて、右と左に結わえていた青年はふっと鼻で抜けるような笑みを落とした。
ロード、というのは通称名。
もしくは爵位。伯爵その実長ったらしい本名があるのだというのだけれど、それを面倒だと感じているのか青年はいつだってロード、という一言ですませている。
シュリアの名前も同様で、愛称のようなものだ。
元々はややこしい名前であったものが、いつの間にかシュリアになっている。あんまり本名を呼ばないものだから、最近ではシュリアも自分の名前を忘れてしまった程だ。
「でも、そうね。ロードがおやつに美味しいボンボンをくれるなら、機嫌を良くしてあげてもいいわよ」
「では、菓子屋を探しにいかないと」
ロードは気の無い台詞をいいながら、かたんっと音をさせてブラシを鏡台に置いた。
このホテルに入ったのは昨夜の遅い時間だった。
列車の時間が遅れて、本来であれば午後のお茶の時間の頃合にはこの小さな町には入れる筈だったものが、夕餉の時間ギリギリになってしまった。
シュリアは少しだけ機嫌を良くしてとんっと勢いを付けて椅子を飛び降りた。
「お客様」
丁度部屋を出ようとしていたところで、部屋の扉がノックされる。
ロードが出るより先に、ぱたぱたとシュリアがその扉を開いた。
「なぁに?」
「――お子様がいらっしゃいましたか?」
下から顔を見上げてくる子供の姿に、ボーイは瞳を瞬かせた。
「三名様で?」
「あんた目が悪い? この部屋にはあたしとロードしかいないわよ」
生意気な口調でシュリアが言うのを、ロードは苦笑で返した。
「すまないな、まだ子供だと思って許してやっておくれ」
言いながら、ロードはクロゼットからマントとステッキとを取り出す。
「それで、何の用かね?」
「いえ、お荷物が届いておりますので」
「ああ、ありがとう。
では隣の部屋にでも放り込んでおいてくれたまえ」
トランクで三つもの荷物を運んできたボーイは内心で溜息を落とした。
「僕等は散歩にでもいってくるから、君、そっちの一番大きなトランクの洋服をハンガーに掛けておいてくれないかな?」
言いながら、ロードは少し大目のチップを弾んだ。
余計な仕事おおせつかったが、ボーイは喜んで引き受けた。
自分の仕事ではないと突っぱねるには、渡されたチップは魅力がありすぎたのだ。
小さな子供にせかされて出かけていく客を見送り、やれやれと一番大きなトランクを開く。
中から出てくるのは女性用の衣装。
だらりと長いその衣装の手触りを確かめながら、これは確かにすぐにハンガーにかけないと面倒なことになるだろうとボーイはクロゼットの中にあるハンガーを引き出した。
さらりと絹地の高価そうなドレスをハンガーに引っ掛けながら、ふとボーイは眉をしかめて首をかしげたが、何も口にすることなく次の行動に移った。
「きゃあっ」
シュリアの小さな悲鳴に、ロードは鷹揚に手を伸ばした。
ぱたぱたと急ぎ足で歩いていた少女は、注意力散漫で周りをきちんと見ていない。石畳の上を駆けながら道を曲がるところで、反対側からやってきた大柄な男にぶつかりそうになったのだ。
「シュリア、ちゃんと前を見ていないと危ない」
「あたしはちゃんと見ていたわよ。そこのでくの坊が悪いのよ」
ぶつかりそうになった男はすでに何事もなかったかのように通り過ぎようとしていたというのに、シュリアの不要な一言は簡単にトラブルを招くのだ。
男がぴたりと足をとめぴくりと身を震わせる。
「なんだとっ。この小娘っ」
威圧的な声で振り返る男に、ロードは冷ややかな溜息を落とした。
「子供の言ったことだから穏便に、という訳にはいきそうにないようだね」
「貴様がこのガキの親かっ」
ロードはちらりとシュリアを軽くにらみつけ、それでも少女を軽く押すようにして自分の背にかばった。
「親ではないが、保護者といえば保護者だな」
嘆息しつつ、自分の財布を取り出す。数枚の紙幣を取り出すロードに、男は更に顔を赤くしていきり立った。
「どういうつもりだっ」
「今回はこちらが悪いと多少は思うので、できればこれで収めて欲しいのだが?」
「ふざけんなっ。それより先に言うことがあんだろっ」
男の怒鳴り声がよりいっそう高圧的になる。
どう見ても貴族然とした態度のロードの様子は気に障るのだろうし、力では自分の方が勝ると思っているのだろう。
ロードはやれやれと肩をすくめると、慇懃に微笑んだ。
「何も言うつもりはない。
貴方のおかげでシュリアが転びそうなった。もし転んでいたら、こちらこそ貴方をただでは帰せない。
けれど貴方に対しての暴言は確かに悪いかな、と多少なりとも思うので金銭で収めようと思ったのだが?」
何か問題があるのかね?
「この野郎っ」
とんっと、ロードは杖の先で男の厚い胸板を突いた。
軽いその所作だというのに、男は一瞬よろめき、たたらを踏むように一歩退く。
「この件はこれでしまいです。そうだろう?」
ゆっくりと突きつけられる言葉に、男はこくりとうなずいた。それを合図にロードは柔らかな微笑みを浮かべて、頭にのせてある帽子をとって優雅に一礼した。
「では、ごきげんよう」
くるりと身を翻し、小さな少女をその腕に抱き上げた。
小さな少女はまるで重みなど感じさせないかのようにふわりとその腕の中に納まってしまう。
「シュリア、あまり揉め事を起こすものではない」
「好きで揉めたつもりはないわよ」
ぷんっと子供は横を向く。
「ほら、ごらん。あそこに菓子屋がある。
機嫌をなおすといい」
「――もうっ、ボンボン程度じゃ機嫌なおんないわよっ」
「我儘ばかりだな。じゃあ、ビロードのリボンがいいか、それともレースのハンカチなら機嫌がなおるのではないかな」
「ロードってすぐそうやってもので収めようとするっ!」
シュリアは頬を膨らませ、自分のすぐ近くにある丹精な顔をにらみつけた。
「あたしが欲しいものは唯一よ!
あたしの呪いを解いて頂戴っ」
クっとロードは肩を揺らした。
「また、その話かね?」
「ええっ。あたしはきっと呪われているの。
あたしは本当は絶対に綺麗なレディなの」
こんなそばかすばかりで黒髪のちっぽけな小娘なんかじゃない筈だもの。そう力説する少女の頭を撫でて、ロードは肩を震わせて笑う。
「そう、やがてそのようになるだろう」
見てきたかのようにさらりといい、
「その時は数多の男達がお前の足元に平伏すだろう。この私さえも」
少しも心の篭らぬ声で「お前を妻にと望むかもしれないな」と続けた。
しかしシュリアはあっさりとそれを拒絶した。
「駄目!
駄目よ。ロードの奥さんにはならないの。だって、実は結構ロードってば性格が悪いんだもの。横柄だし、ナマケモノだし。
あたしの旦那様には不合格だわ」
ぷんっと顔を背ける少女の言葉に、ロードは眉を潜めて、
「シュリア、君の語彙はいったいどこで増えているのだろうか」
菓子屋の扉に手をかけながら、ロードは欠片程も心の篭らぬ声で呟いた。
***
小さな町の中、ゆっくりと散歩して教会を覗き込み、おやつのボンボンを食べて――シュリアはすっかりと疲れ果ててロードの腕の中で眠りこけた。
小さな唇にはチョコレートのあと。
寝台に少女を横たえて、ロードはトップハットとステッキとを寝台の横に引っ掛けると大きく息をついて寝台の上の少女の襟元に触れた。
丁寧にスナップを外し、衣類を剥ぎ取る。
下着だけの姿にすると、まだチョコレートを付けたままの唇にそっと口付けた。
「目覚めるといい、ディー、ディティニア」
それを合図にしたように、ゆっくりとシュリアの姿が変化する。
不自然に視界がぶれるかのように、ゆるゆるとけれどはっきりと。寝台の上の小さな体は、蝶が蛹からはいでるようにその姿を大きく変化させた。
「――まだ、昼間じゃないの」
むくりと身を起こしたのは、先ほどまでの小さな少女ではなかった。しなやかな体躯も膨らんだ胸も、子供のものでは決してない。
豊かな黒髪を跳ね上げて、髪同様の黒緑の視線を寝台に腰をあずけて身をひねるようにしてこちらを見ているロードへと向ける。
「小さなシュリアが酷いことを言うものだから、繊細な私の心が傷ついた」
ロードは口元をゆるく引き伸ばすように微笑みながら、ついっと手を女性のあごへとかけた。それをぱしんっと跳ね上げられる。
「何か着替え、ちょうだい」
「おまえの機嫌も悪そうだな、ディティニア」
「あんたの遊びに付き合うつもりはないの」
冷たく言い切ると、ディティニアと呼ばれた女はさっさと寝台を抜け出し、クロゼットの中から自分に似合いそうなワンピースを一枚抜き取る。
男の視線などものともせずに、窮屈で多少裂けてしまっている衣装を脱ぎ捨てると、手早く袖を通した。
「小さなシュリアも大きなディティニアも、どちらも機嫌も悪いようだな」
「もぅっ、あの子ってばまたチョコレート食べてたでしょう? 口の中があまったるいっ」
唇の表面をちろりと舌先でなぞりあげ、アーモンドの形の瞳を跳ね上げる。
「シュリアはチョコレートが大好きだから。
チョコさえあげておけば機嫌がいいのだが、今日はボンボン程度では気が晴れぬようだ」
「――虫歯になったら確実に貴方のせいね」
「そんなことより、あの子が私の妻にはなりたくないというのだが」
「私も同意見だわ」
鏡の中にはもうそばかすの小さな娘はいない。
いるのは少しばかりつり目の黒緑の瞳と、艶やかで豊かな黒髪の美しい女性だ。姿見で自分の様子を確認する女性の背後、ロードはそっと身を寄せてその背後から細い腰に手を回した。
「いつになったら私の愛を真摯に受け止めてくれる?」
「そんな嘘はたくさんよ。
それに、そんなことがあるとすれば――あたしの呪いを解いてくれたらね」
――小さなシュリアも大きなディティニアも同じことを言う。
ロードは苦笑した。
「君達に対して私は随分と寛大で寛容、献身的でさえあるというのに。
まあいい。先ほど教会の場所の目星はつけておいた。行くかね?」
「勿論よ」
ディティニアはは口角をあげるようして微笑んだ。
ディティニアとシュリアは呪われている。
それを呪いというべきなのかは判らないが――呪いという言葉で判りやすく示している。
それは血の混じる口付けで発動する呪い。小さなシュリアがディティニアに変わる――だがそれは呪いであるのか何であるのか、その正体を知るのは……ロードのみ。
「きゃあっ」
ディティニアは短い悲鳴をあげた。
教会までの道のりにある緩い坂道。ディティニアの体はとさりと尻餅をついた。その前、男が唖然として立っている。
「なんでぃっ」
男の憤慨した声、ロードは額にそっと手を当てながらシュリアの腕を引くようにして立たせた。
「貴方、本当に前方不注意ですね」
「お前っ、昼間のっ」
男が一瞬ひるんだ声をあげる。そう、昼間は町の中で小さなシュリアと諍いをおこしていたその男だ。
緩い丘を慌てていたようにおりてきた男は、スピードがありすぎたし、シュリアは気づくのが遅すぎた。
ロードは冷ややかな笑みを浮かべ、男の顔を覗き込んだ。
「教会に行かれていたのですか?」
「――悪かったよっ、今回は本当に俺が……」
男がうろたえた声をあげる。
ずいっとロードは身を進めた。
「では、もう神様にお祈りはすまされたのですね」
「ロードっ、辞めなさいっ」
お尻に手をあてながら、シュリアが声をあげたがロードは聞きもしなかった。
ただ静かに微笑み、
「貴方は今夜酒場で酒を浴びるように飲むといい、その後は港で海に入る。
判りましたか?」
「あ、ああ」
「では、最後の晩餐を楽しみなさい」
優しい声音で囁き、たんっと石畳をステッキで突く。男はそれを合図にしたようにふらふらと町の中に戻っていった。
「ロード……」
「一度なら許そう。
けれど二度は許すつもりはない」
「小さなシュリアなら何と言うかしらね」
ディティニアは顔をしかめてはき捨てた。
「シュリアは何も言わないだろう。私はあの子の前ではただの伯爵でしかないのだから」
「あたしに嫌われるぶんにはかまわない訳ね」
「――おまえに好かれようと嫌われようと何か意味があるのか?
おまえはディティニア。死んだ娼婦だ」
ロードは淡々と言葉にする。
そこに何かしらの感情は読み取れず、ディティニアは屈辱のようなものに唇を咬むことしかできなかった。
――むしょうに相手を傷つけたいような衝動が湧き上がるが、所詮これも意味の無いことなのだろうか。死んだ娼婦……もう幽霊のような存在の自分など、所詮無意味でしかないのか。
相手はもう何事も無かったかのように歩き出し、ディティニアは屈辱を抑えてつかつかとその横を歩く。目的の教会はすでに間近。視界に入り込んだ小塔を見上げて、ディティニアは小さく息をついた。
心臓がとくとくと早鐘をうつ。
幻の心臓が。
ゆっくりとした足取りで教会の面前に立ち、大きく息を吸い込む。ぴりぴりとした痛みが全身を嘗め回す感覚は、不快であり、そしてどこか心地よい。
「――」
拒絶される感覚。
呪われた身が、痛みに悲鳴をあげる。
「どうだ?」
「信仰の厚い場所ね。ええ、十分よ」
ためらいがちに木製の扉に指を触れて、あとは勢いを付けてなかに入る。
静寂に包まれたその空気が体を引き裂くような痛みを与えてくる。
――ディティニアは苦痛の中で微笑んだ。
呪われた身が、神の加護に恐れおののき悲鳴をあげる。
「随分と薄汚い教会だから、ディティニアの役にはたたないのではないかと思ったが」
「古いけれど立派な教会よ。司祭様はいらっしゃらないのかしら?」
ゆっくりと教会を見回しても人の気配はない。ほんの少しがっかりとしながら、ディティニアは祭壇の前でひざまづいた。
持ち歩いている小さな小瓶を自分の前におき、心を静めるようにして瞳を伏せる。
静かに祈りをささげるディティニアを、少し離れた場所で見つめながらロードは冷ややかな視線を向けていた。
祈れば祈る程に、ディティニアの、シュリアの内の呪いが彼女自身を傷つける。
そうして祈って、ディティニアは痛みを全身に受けながら、更に神の祝福となる小瓶の水を一息に飲み込んだ。
そのあとはいつも通り――
まるで毒を飲んだかのように、苦しみにのたうちその場で崩れ落ちるだけ。
呪いを受けた身に、その行為すべてが毒だ。
自ら毒を受けるディティニアを見続けるロードは、時折本当に何もかもがいやになる。
ロードはやれやれとつぶやくと、ゆっくりとディティニアの元まで歩んだ。
「どうかなさいましたか?」
倒れる時の物音でも聞きつけたのか、教会に司祭が顔を出す。倒れているディティニアに驚愕の視線を向けた司祭に、ロードは淡い微笑を浮かべてみせた。
「何でもありませんよ」
「しかし――お連れの方は具合の悪いのでは?」
「私にも判らないのですよ。こうして何度も毒をあおり、そうまでして自分の呪いを退けたいなんて。本当にわからない」
「は?」
ロードは大きく溜息を落とした。
「呪われている間は命が費えることもないのに。
この子は困った子ですよね」
意味不明なことを口にするロードに、司祭は眉を潜めた。
「やつあたりなのだが、あなたこの教会と一緒に燃えてみるかね?」
鏡が嫌いだ。
鏡の中にはそばかすの浮いた子供がいるから。
けれど、丁寧にブラシをかけてもらいながら、シュリアはいつもとちょっと違う自分に気づいた。
「今日は機嫌がいいのではないか?」
いつもと同じようにシュリアの黒髪を右と左に結わえているロードは淡々と口にした。
鏡の中のシュリアが、何故かいつものぶすっとした顔ではないから。
「ちょっとそばかすが減った、かもしれない」
「そうかね?」
「うん、それに、ほら!」
とんっと勢いをつけて椅子をおりて、シュリアはロードを見上げた。
「少し身長が高くなった気がするわっ」
「そんな一日でどうにかなるものではないだろうに」
ロードはさして面白くも無いというように言うが、シュリアはくるくると回りながら「絶対にそうなの!」と声をあげた。
「では、シュリアが私の嫁になる日が近づいたということか」
ロードがブラシをおいて言えば、それまで機嫌よく鼻歌まで歌っていたシュリアが途端に唇を突き出すようにしてロードをにらみつけた。
「絶対にありえないから!」
――砂時計がさらさらさらさらと音をさせ、砂が落ちきったその時にシュリアはディティニアと同じものになるのか。
彼女の世界は闇に閉ざされるのか。
今のところ……ロードですら知らない。