琴女
千八百五年――箱根の関所を抜けた山道にある大岩に腰をおろし、旅装束の娘は白木の杖を手にあふりと欠伸を一つかみ殺した。
時節は春。娘の年はといえば十七・八か。
大きめの瞳に黒緑の髪。艶のある髪を結い上げもせずに腰までたらし、下のほうで緩く結わえた姿は愛らしいが、何故か額には紫の鉢巻という一風変わったその姿は人目を引いた。
これがもし一人旅であったならば、すぐさまどこぞに引かれ、若いその身は無残に散らされもしようが、娘には連れがある。
年の頃は彼女の父程にも離れたようにも見える男は山伏のような也をし、口元には無精髭が蓄えられ、その眼差しは厳しくあたりを睨みつけていた。
「琴、琴女――そんなに休んでばかりだと今宵は野宿になるぞ」
憮然と男が言えば、娘は唇を尖らせた。
「箱根の宿で泊まればいいじゃないの」
まだ関所は越えたばかり。ここはもとより宿場町ではないかと驚く娘に、男はもう幾日も手入れもされていない髪をかきあげたが、ずさんな髪に指が止まる。その頭は髷も結わずずぼらに伸ばして結い紐で結ばれただけだった。
「すくなくとも日暮れまで歩かなければ」
低く威嚇するような声で言えば、琴女はついっと視線をそらした。
「いーやーよ」
「琴っ」
「歩くのに疲れたわ。お風呂も使いたい。彦だって臭いし汚い。近くにいる人間の迷惑を考えなさいな」
つんっと冷たく言い切る娘を忌々しそうに睨みつけ、彦――彦江は不精に伸びた顎髭を引っ張るように撫でた。
その時にくんっと鼻を二・三度動かしたのは、さすがに琴女の言葉が気に掛かったのやもしれぬ。
「誰の為に先を急いでいると思ってる」
「誰もついて来て欲しいなんて言ってないわ」
ああ言えばこう言うの見本のように突き返される言葉に、彦江はぎりりと奥歯を鳴らし、持っていた錫杖をがしゃりと鳴らした。
――俺がいなくば何もできないだろうに!
そう怒鳴ってしまいそうなのを必死に堪えた。確かに琴女の言う通りで、彼女の道行きに半ば無理やりついてきたのは彦江のほうだった。だがそれは七割がた彼女の為であり、二割がしがらみであり、自分の意思は残りの一割に満たない。
時折山道に放り出してやりたい気持ちになるが、それでも彦江はいつだって耐えてきた。
「それにしても、江戸ってどんなかしらねぇ」
産まれてはじめて江戸に入る娘は夢想でもしているのかにんまりと口元を緩めている。江戸の噂など数多耳に入っているだろうといえば、琴女は小首をかしげた。
「田舎者とか? 東者? 悪口なら山と知れてるけれど、それはどこも一緒よ。あたしは京ばかりが良いとは思わないわ」
そう言う琴女は都言葉を使おうとはしない。「お里が知れる」と笑うが、それは決して悪い意味では無かった。
大岩に腰を落として歩こうとしない娘にげんなりとしていると、ふいに空々しい程に明るい声が入り込んだ。
「足でも痛めなさったかい?」
穏やかな若者の言葉に琴女がぴくりと反応し、相手の姿が年若く楚々とした――いわゆる好青年であることに微笑んだ。
「ええ! 長い旅に足を痛めてしまいました。難儀しておりますの。どこぞかに良いお宿をしりませんか?」
声音まで変えて媚びを見せる琴女の豹変に彦江は苛立ちを覚えて琴女の頭をにらみつけたが、琴女はすでに藍色の着物の――旅装束ではない着物の男に夢中といわんばかりの様子だ。
箱根に居を構えていると思しき男は、少しばかり淡く微笑み、ちらりと彦江を見たがすぐに琴女に視線を戻した。
一瞥で女の連れがただの用心棒風情と見たのだろう。
「私の知り合いの宿にお連れしましょうか。私の頼みなら宿賃も少しは融通してくれるだろうしね。立てますか?」
「よければ手を貸して下さる?」
琴女は口唇をゆがめて笑い、すがるように男に手を差出した。
「ご親切な方、特別に教えて差し上げますが内密に願います」
琴女はもったいぶった口調で相手の瞳を覗き込み、囁いた。
「私は公家の日野の娘――内侍の局と呼ばれておりました。どうぞ琴女とお呼び下さいな」
***
「何故あんなことをっ」
宿の部屋につくなり彦江が声を潜めつつも我慢ならぬというように言葉に力を込めた。
「ばれたらただでは済まんぞっ」
低く唸る言葉は自然と振るえを含ませる。
眼光は射殺す程の強さでもって琴女を見ていたが、当の琴女はものともしない。
「あーら、ばれたりしないわよ」
くすくすと琴女は笑い、長い髪を払った。
「内侍の局がどんな娘かだなんて、誰も知らぬのですもの」
微笑を湛える琴女は、それよりもと部屋の中を見回した。
用意された部屋は十二畳程の部屋と隣には布団がしかれた二つ間になっており、しかも宿の離れという贅沢なものだ。わざわざ温泉までも別に引かれたそこは、偉い方を迎えるのに使われるのだと宿屋の主人は汗をふきふき言っていた。
「内密だと言ったのに、口の軽い男」
意地の悪い言いように、彦江はぶるりと身を震わせた。
宿屋の主人の下にも置かぬ扱いに、まるで不本意というように琴女は寂しげに眉を潜めて囁いてみせるが、そんなものは演技に過ぎぬと長い付き合いのうちでよく知っている。
琴女は他人をそうやってからかうのを楽しんでいるのだ。
「人に知られぬ旅にございます。どうぞ他言無用に願います」
公家に連なる日野の娘といえば、今上様の妹背とも謳われたこともある尊き姫君だ。よくよく考えればそんな姫君がこんな場に修験者のような也をした男と二人で旅をするなどあろう筈が無い。だが、高貴の娘といわれれば確かに琴女は神々しき娘に見えるし、そこはかとなく漂う妖しさがへんに説得力すらもたらす。いかめしい彦江はといえば、世を忍ぶ屈強な護衛にも見て取れる。
「それより、お風呂! 温泉っ」
琴女は言いながらしゅるりと額に巻いた紫色の鉢巻を引き抜き、そのまま手から離した。途端、慌てたように彦江がそれを掴んで綺麗に畳む。
琴女は我かんせずで着物の帯紐に手をかけてぱたぱたと隣室に作られている浴室へと足を向けた。
「琴女っ」
ぽいぽいと着物を脱いでいく女を呆れつつも彦江は追いかけ、落とされる着物の帯、腰紐と拾い上げては丁寧に処理していく。最後に汚れた足袋を拾い上げたところで、ぴしゃりと浴室の木戸が閉ざされ、大きく息をついた。
「一人で平気か?」
呆れが滲む声を木戸へとむければ、盛大な湯の落ちる音と共に陽気な声が響く。
「髪を洗って」
当然のように命じられ、更に深く息をつく。
まったく手のかかる女だった。着物にしても自ら脱ぐことはできるが、それを着るとなれば彦江の手伝いがなければできず、着せ方が悪いと難癖までつける。不器用で口は悪く到底一人で生きていくには無理がある。
その琴女が「京を下る」と言った折りに彦江は覚悟を決めた。
自らも行かねばならぬのだということを。そうでなければこの女は途中の山で野垂れていたに違いない。
脱ぎ散らかされた衣類をきちんと纏め上げ、当然のように着替えを用意していない琴女の為に自らが背負ってあるいている行李から洗ってある着物を一揃え引き出し、あとで自らの風呂の時にでも琴女の汚れた着物を洗ってやらねばなるまいとやれやれと呟いた。
「ひーこー」
「うるさい」
なんだか腹立たしさを覚えてだかだかと足音をさせて木戸を開くと、室内風呂の桶縁に頭を預けた琴女があふりと欠伸をこぼした。
「……」
湯には柚子がぷかぷかと幾つか浮かび、その一つを手の中で弄ぶようにしながら琴女は唇を尖らせる。
柚子と同様にまろく形の良い白きふくらみがぷかりと覗くのを慌てて視線をそらすことで誤魔化した。
「足が痛むわ。眠る前に足をもんで」
「俺はおまえの下男か!」
怒鳴ってはみたものの、彦江は手馴れた様子で琴女の長い黒髪を手桶で流し、持参している石鹸を泡立てた。
湯殿に用意されているのは洗い品ときたら案の定『ぬか』で、こんなもので髪を洗おうものなら琴女は数日の間むっつりと口をつぐんで不機嫌を示す。この石鹸一つで長屋暮らしの親子四人が半年は暮らせるとこの女は本当に理解しているのだろうか。
髪を洗っている間、琴女はふんふんと鼻を鳴らして気持ちよさげに唄を謳っていたが、やがて仕上げに湯を打ちかければ用は済んだとばかりに彦江を追い立てた。
――彦、彦江、夜は怖い……
泣きながら彦江の手をぎゅっと握り締めていた幼い娘は――記憶の改ざんではあるまいか。
「ほら、あんたもお風呂入りなさいよ。その無精髭もきっちり剃るのよ。あたしの共をするならもう少し身奇麗にしないと崖から蹴落とすわよ」
俺が落としてやりたい。
彦江はふるふると身を震わせていたが、身奇麗になった琴女が着崩れた浴衣姿であらわれれば苦言も言う気が失せた。
自然と手を伸ばしてきちんと整えてやのながら、眉を潜めて濡れた襟に苦言を落とす。
「髪の水気をちゃんととらんと」
「それくらいできるわよ。あんた臭いって言ってるでしょ」
まるで野良犬でも追うように手を振られ、彦江は自らの着替えの準備を済ませて琴女の汚れ物と自らの汚れ物を手に風呂場へと入った。
――白い足袋に浅黒くついた汚れは血だろう。
長く歩き、肉刺ができて潰れてはまた新たな肉刺を作る。
彦江は琴女の足袋を丁寧に洗いながら嘆息した。
今日の琴女は岩を見つけるたびに足をとめてその重い尻をどしりと落としていた。本当に足が痛んだのだろう。無理をさせていたつもりは無いが、まだ年若い琴女には長旅は厳しいものがあるのだろう。だが、だからといって駕籠ばかりを使ってなどいられない。
懐に余裕のある旅でなし、最後の手段としてある銭刀の中身などできれば当てになどしたくはない。この宿屋だとて、こんな良い部屋を当てられてもその代価を要求されれば払うことすらできない。
琴女が困惑気味に「こんな高い部屋はお払いできませぬ」と言えば店主が慌てて「めっそうもございません。尊き姫君から御代を頂くなどっ」と言っていたが――事態がいつかわるかもしれない。
彦江は暗澹たる気持ちで首を振った。
最悪逃げる為の算段をしなければならないだろう。
まったくいつだって問題を起こさずには居られないのだ琴女という女は。
内心で琴女への悪態を羅列しながら洗濯に励んでいた彦江は、足袋を洗い終わりついで無造作に手にしたものが琴女の襦袢であることに気付いて小さく呻いた。
何故男に襦袢を洗わせて平気なのか、琴女。
ならば自分の褌を洗え――洗ってみせろ。ののしりつつそれを想像した彦江は無言となり、ただもくもくと襦袢を洗いあげた。
――京にいる家人には決して見せられない有様だ。大の男が女の襦袢を洗っているなどと嘆かわしい。だが、琴女にやらせたら最後着る服がなくなるおそれがある。
ぎゅっと洗濯物を絞り水分を切ると、空桶の中に放り込んでがらりと木戸を開け放った。
「琴――」
声をかけたその場に、琴女の姿は無く、彦江は抱えていた桶をどさりと落とした。
***
「内侍の局」
「どうぞ琴女と。そもそも内密にとお願いしましたのに」
困惑を込めた口調に、藍色の着物の若者は慌てたように謝罪した。
「すみません。ですが、ああでも言わなければ部屋に空きがなく、大部屋などそれこそどんなやからがいるか判らぬ状態ですから」
「私には屈強な護衛がおりますもの。ああ見えて彦江は忍びの流れのもの――どんな場でも私を守ってくださるのよ」
ふふって唇をすぼめて微笑を落とした琴女は、まだ足が痛むようで座る場を求め、仕方なく柳の木の幹に背を預けた。
「しかし、京の都の姫君がこんな場にいるなど」
「あら、私が誰かはあなたは判っているのではなくて?」
唇をにんまりと歪めて琴女が微笑み、その指先を相手の胸元に添わせた。
「琴女様?」
「私は占女ですの。巫女として神域に住まうもの――お優しい方。あなたの望みを、かなえてさしあげる」
妖艶な笑みを浮かべ、琴女は唇を引き結ぶようにして甘い吐息を落とした。
「ひと時の夢を与えてあげるわ」
***
琴女が上機嫌で部屋へと戻ると、彦江は部屋の中央で胡坐をかいて胡乱な眼差しで琴女を睨みつけた。
その顔に無精髭はなく、元々親子程の年齢差を思わせていたというのに、今は兄のように泰然とそこにいる。
「何をしていた」
「やぁね、怒りっぽいのは嫌われるわよ」
琴女は言いながら袂から巾着袋を一つ取り出し、ぽんっと無造作に放り投げた。
がしゃりと音をさせて彦江の手に落ちたそれに、彦江は苦いものを噛むような表情を浮かべてその中身を確認した。
黄金色に輝く小判が五枚……くらりと気が飛びそうな金額だ。
「売ったのか?」
「勿論。タダでなんてあたしは安くないわよ」
「――幾つ?」
「五枚。あんまりねだるのだもの。それ以上は駄目って言ったのに……どうしても欲しいって値までつりあげて。いけない人」
くっと喉の奥を鳴らして言う女を更に睨み、彦江は乱暴に立ち上がった。
「出るぞ」
「えーっ。今日はここに泊まりましょうよっ」
「この愚か者っ。おまえの『符』が評判になればなるだけ危うくなるんだぞっ。五枚だと?
一枚きりだと幾度も念を押しているというのに、何故聞き分けぬっ」
彦江は言葉を吐き出しながら、どうしてこの女から目を離したかと自らを叱責した。
占いだけであれば問題は無い。琴女の占いに害は無い。失せモノを探し当てるくらいが関の山、未来は見通すことなどできぬのだから。だが、『符』は駄目だ。
琴女の扱う寿ぎの『符』は一枚だけ使うのであれば「幸せな夢」を与えるだけですむものだ。家族を失ったものがその家族の夢を見る――恋するものをその腕に抱く夢を見るものもいる。たった一度の幸福感に酔いしれるのであれば害はない。
たった一度の夢は生きる希望となるものだ。
だが、人はただひとたびの幸せが幾度も続けばそれ無しで生きることがかなわなくなるのだ。
琴女はまごうことなき神域に住まうもの。
だがその扱いを違えればそれは神の寿ぎから地の呪いへと変貌する。
夢に浸りすぎるものはやがて身を破滅させるのだ。
その能力が災いし、京を出たのではないか。引きとめようとするもの達が無理やりに閉じ込めようとするからこそ、そこから逃れたのではないか。
彦江は絶望の呻きを漏らした。
「きちんと約したわよ。年に一度だけ、その日だけと定めて使うようにと。決して他言は無用と」
ふんっと機嫌を損ねた琴女だが、ことはそう簡単に終わることは無かった。
「局様っ。琴女様っ」
今にも逃げ出そうと彦江が荷を揃えている頃合に、離れのその客室にあわただしく足音が迫っていた。
「なんてことっ! あの男ときたらちっとも秘密を守れないのだわっ」
憤慨する琴女だが、彦江はその両肩に手を置いて激しく揺さぶり「おまえは馬鹿かーっ」とどやしつけてやりたい気持ちを抑え、黙々と荷を詰めた。
琴女の共の名乗りをあげたこと――
それはこういうことであるのだ。と。
琴女の符はその後二年の間江戸の町で名をはせる。
だがその騒乱と公家の姫君の名を語る不届き者を江戸幕府は許さず、とうとう琴女は牢獄へと落とされるが、その罰は江戸ところ払い――
故に江戸の民はまことしなやかに噂したという。
琴女は正しく公家の姫であり、幕府はそれを保護、京へと送還したのだと。
したがそれは二年の後のこと。
琴女はこれより江戸へと下る。