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憮然としたラドックを追い立てるようにして、脱衣所へと放り込む。
脱衣所にクラウスとラドックを残し、リルファ自身は上着を壁にかけ、中のシャツの袖を折り曲げた。
猫足のバスタブにはたっぷりと湯が張られ、汲み置き用の湯も幾つも置かれている。頼んでおいた石鹸もサボンも置かれているが、笑うのは淑女が入浴する時に使うと言われている香油や花のエキスまで置かれているのにはさすがに何かの冗談かと突っ込みをいれたくなった。
――さすが上級官吏用だ。
呆れながらリルファは肩をすくめた。
と、脱衣所の扉が開き「ラドック様っ」と、クラウスが慌てたような声をあげてしまったのは、ラドック・ベイリルが全裸でさも不愉快そうに浴室に入ってきた為だろう。
さすがのリルファもぎょっとした。
ラドックという人物は、眠る時には上半身裸なのでその上半身を見るのはすでに慣れきっているつもりだったが、まさか全裸で来るとは思わなかった。
――判りやすい嫌がらせだ。
言われずともすぐに理解する。
ラドックは口角をあげるようにして「なんだ?」文句あるのか? というように低い声で瞳を眇めて見せる。だからリルファはこんなことは何でもないことだと、精一杯の微笑みを浮かべた。
たとえ自分の父親の全裸すら見た事がなかったとしても、少しもおくびにすら出さずに。
そう、なんということは無い。嫌な顔を見せればそれこそ嬉々として更に嫌がらせに出ることなどもう熟知している。
子供なのだ、この男は。
捻くれて横柄で腹立たしいクソガキ。
「まずは汗を流しましょう。
いらしてください」
悲鳴などあげたら相手の思う壺である。
あえて下半身は見ぬようにリルファはつとめ、汲み置きされた湯でもってラドックの体を一旦流し、バスタブに促した。
バスタブに入れてしまえばこちらのものだ。
だばだばと液体石鹸を放り込み、泡立たせる。
クラウスに空いた湯桶に新しい湯を頼み、リルファはまずは顔から洗うことにした。
不愉快を描いたラドックだったが、なんだかニヤニヤしているのがまた癪に障る。リルファは微笑み、硬く絞ったタオルで、その憎たらしい顔をぬぐった。
途端、タオルはたちまちにうっすらと汚れた。
――こぉの汚れ大王め。
それで薬師などと片腹痛し!
顔なので強くはふけず、丁寧に何度も濡れたタオルで拭い、耳の裏をふきあげる。やっとひと段落させると、うっすらとある髭に泡を乗せ、戻ってきたクラウスに髭を当てさせた。
――俺はただの護衛官なのに。
恨めしい眼差しだけでクラウスが訴えているが、リルファはそれすら無視して自分はラドックの腕を洗い、爪の間に挟まった土や草の汚れを一本一本丁寧にブラシをかけ、磨き上げた。
――こいつ、私よりも細くて柔らかい指だし。
リルファは内心で引きつった。リルファの手は剣や鞭で鍛錬されているため、今では立派なものである。
たとえ相手が薬草の世話をしているといっても、リルファの鍛錬された指には敵わない。
洗われている当人は、まさに勝手にしろというように自ら指の一本も動かす気がないらしい。
バスタブに浸かったままの上半身、足をサボンで磨き上げ――ラドックは不遜に「下腰の辺りはまだみたいだぞ」と鼻を鳴らしたが、リルファは微笑んで「クラウスがあとでやりますから」と返した。
クラウスが憎しみすらこもった目を向けてきたが、これも当然無視。
そうして最後に髪を洗い、その場で散髪用のナイフとハサミでもってだらりと伸びた前髪を綺麗にくしけずり、ついでに後ろの髪も無駄だと思っていた部分を切り落とした。
「はい、これで終了です」
一番脱力していたのはクラウスで、彼はもう文句を言う気力も失ったようだった。
リルファはタオルで両手を拭いながら言い頭をさげ、クラウスにラドックを着替えさせて私室まで連れて行き、しばらくそのまま警護に当たってくれるように頼んだ。
――最近のラドックはリルファが口喧しく言う為にそれでも二日に一度、もしくは三日に一度は汗を流してくれるようになったが、それもカラスの行水なのであまり役に立っていない。
リルファは軽い疲れにやれやれと肩を撫であげ、浴室の片付けを始めた。
というか、もう。
自分は護衛官であって下働きでは決して無い。
リルファはガコンっと音をさせて洗い桶を床の隅に叩きつけてしまった。
「まったく何様だ!」
ぼやいた言葉は、反響して消えた。
***
リルファがラドックの私室を訪れたのは、自らも湯を使い式典用のオフホワイトの軍服を身にまとったあとのことだった。
しゃらりと金の飾り房のついた軍服はなんだかくすぐったい。鏡の中の自分をしげしげと見つめ、リルファはハウスメイドのサーラが施してくれたうっすらとした化粧に照れくささを覚えた。
腰には最近使わなくなった細剣――その刀身を包み込んでいる鞘も、制服に合わせた色彩と飾りとが付けられている。
本来宮廷内部の夜会などでは剣帯は許されていない。
だが、ラドック・ベイリルはそれを許されている数少ない人物の一人なのだ。
つまるところ、リルファ自身が彼の剣という立場にある。いや、もしかしたら剣では無く剣立てのようなものだろうか。
「ご苦労さまでした」
半日以上をラドックの護衛についやしたクラウスにねぎらいの言葉を掛けると、クラウスはぎりっと歯軋りし、恨めしげにリルファを睨みつけた。
「覚えてろよぉ。これは貸しだからな」
「借りと貸しではまだ借りのほうがおおそうだけれどね、まぁ、今度食事でもおごるよ」
リルファは微笑みぽんっとその肩を叩き、クラウスの任務を終了させるとラドックの前で胸に手を当て、
「ラドック様、お待たせ致しました。
妃殿下から下賜されましたら御衣裳にお着替えになり、馬車にご搭乗願います」
「髪――」
憮然とした声がいう。
その言葉に、リルファは苦笑してクロゼットからタオルを引き出してラドックの濡れた髪を拭った。
まさか未だに濡れ髪とは思ってはいなかった。
更に言えば、着替えも済んでいないとは計算外。
クラウス、役立たず。
「……おまえ、何がそんなに楽しい?」
「そう見えますか?」
「見えるから言っている」
ラドックは珍しく溜息を落とす。どうやらこの時点でだいぶ疲れている様子だ。
――ざまぁみろ。
リルファは自然と緩みそうになる頬を引き締めて、ことさら丁寧に髪の水気を拭い、ブタ毛のブラシでその髪を整えた。
「ほら、こうすればいつものずぼらな様子など微塵もありません。
きっと麗しい女性達からもさぞ熱い視線視線を集め、ダンスを求められるでしょう」
からかうように褒めたのだが、更にきつくにらまれた。
普段は髪にかくれてあまり出てこない黒緑の瞳が忌々しそうにリルファを見ている。
慣れた視線ではあったが、いつもの邪魔な髪がすっきりとしているからか、それとも顔の輪郭がはっきりとしている為か、リルファはどきりと心臓がはねるのを感じた。
――むかつく。無駄に顔だけはいいんだ。
子供のころ、リルファはこの顔を良く身近で眺めては「綺麗だな」と思っていた。昔はもう少し身奇麗にしていたのも原因だろう。
最近は多少マシな気がするが、それでも仕事に没頭すると髭も放置するし、体を清めるということも脳裏から引き離す。
今となっては「どこが綺麗なんだ?」と激しく突っ込みたいところだが。
「なんだ?」
ふいに、すっとラドックは瞳をすがめ、やたらゆっくりとした動作で口の端を引き上げた。
まずい、とリルファが思うより先に、すっと手が伸びて顎に手をかけられていた。
「見惚れてるのか?」
口角を引き上げ、瞳を細めて言う男は――実にいやらしい物言いをする。
「――すでにその顔は見飽きましたよ」
ぱしりとその手を払いのけ、そそくさとその近くを離れた。
クロゼットを開いて中から新しい夜会用のガウンを引き出した。
ラドックの趣味を心得たように黒を基本としたものだが、襟元や袖口などにつけられている飾りは本物のダイヤだろうし、金や銀でところどころに施された刺繍は細かく丁寧な仕上がりだ。
おそらく、一度しか着ないであろう衣装だがその代価は莫大だろう。妃殿下はいったい何を考えてこれを下賜したものか。ぶたに真珠ねこに小判――つまり、そんなものなのに。
――それとも、あの噂は本当なのだろうか……
ふと脳裏に掠めたものを軽く振り払い、リルファは顔をしかめた。
振り返れば、着替えるのだと説明しているのにぼさっと立っているだけのラドックに嘆息する。
「ガウンを脱いで、着替えてください」
「脱がせて着替えさせればいいだろう?」
「――あのですね、ラドック・ベイリル様。
夜会の出席を望んでいるのは私ではなく、妃殿下です。貴方様の不愉快の原因は私ではなく、あの方です。
八つ当たりはご遠慮ください」
リルファは正論を言ったつもりだ。
間違っているつもりは微塵もない。
だが、言われたラドック・ベイリルはくるりと身を翻し、不機嫌まるだしで寝椅子にどさりと身を預けた。
まるきりヘソを曲げた糞ガキのように。
――勘弁してほしい。
リルファも強い態度で相手を見下ろしていたが、それが五分近くも続けば、やがて大きく息をついて首を振った。
「ラドック様、着替えてください。
時間がありません」
「知らん」
「判りました。私が悪かったですから」
絶対に、ちっとも、悪くないが。
リルファの訴えに、ふんっと鼻を鳴らしてラドックは立ち上がるとガウンを脱いだ。
白い体が外気に触れる。生っ白いのになにゆえだらしなくないのだこの体は。
謎の理不尽にさいなまされながら、リルファはラドックのガウンを受け取り、白いシャツ、ベスト、サッシュと着替えを手伝った。
思い返せば自分は地方領主の姪として生まれ、そこそこ「お嬢様」としてかしづかれていたというのに、何がどうなってこうなったのか。
最後にローブを掛け、丸いタッセルでとめる。
細かい細工は横顔の黒い狼――ラドック・ベイリルが薬師として許された刻印だ。
最後にばさりとローブの裾を払い、リルファはほぅっと溜息をついてしまいそうになった。
だが慌ててそれを押さえ込んだ。そういう行動のひとつひとつがこの面前の男に付け入るすきを与えるのだ。
危ない――
リルファは胸元に手を当て頭を垂れ、
「準備が整いました。
参りましょう――」
なんとなく、その背に付き従いながら――なんとなく、誇らしい気がしてしまい、リルファはそんな自分がイヤで、こそりと顔をしかめた。