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皮製の鞭がひゅんっと音をさせて空をよぎる。
十メートルの鞭が何かの生き物のように素早くうねる様に動き、せりでた樹木の枝に巻きつきそれを軸にして地面を蹴った。
「猿技ばかり増えやがる」
リルファ・ディラス・デイラの剣術を指南してくれる筈のダグラスは、彼女の指導時間は「小猿見物」と評して彼女の様子を楽しげに見学するのみとなっていた。
官舎の壁によりかかり、腕を組んでニヤニヤと眺めるダグラスにとっては気楽な時間だ。
「ただ、長い鞭を使うと連続して使えないんですよ。
さばく時間がかかって、一旦木の上なんかに移動できてもその後の連動性が悪い」
と、鞭を振るって木の上に着地したリルファは嘆息しながら、体重さえ感じさせずに、とんっと地面に降り立った。
伸びた鞭が、まるで意思でも存在するように彼女の利き手の上、ぱたぱたと納まってゆく。ダグラス曰くの「小手先の無駄技」のひとつ。
「おまえは護衛官よりも内偵とかのが向いてそうだな。移動願いだしてみたらどうだ?」
ダグラスは言いながら自らの顎先を軽く撫で上げ、肩で押すようして身を立て直すと、リルファの手を無造作につかんだ。
女の手としては本来長くしなやかなものであったはずだが、現在の彼女の手ときたら幾度も豆をつくり、つぶしたのだろう少しばかり硬い。
「ふん――繊細さのかけらもねぇな。よく鍛錬してる。
きちんと睡眠時間はとってるのか?」
「それは、まぁある程度削るとこがないと訓練できませんからね」
と、いうのもリルファは護衛官として一人の担当を持っているからだ。基本的には昼間の間彼女が護衛対象から離れることはない。
その代わり、任務について一年――最近では、交代要員をつけてもらえているので、ほんの少しの自由もある。
その時間を利用し、食事と鍛錬とに当てている。
「まぁ、木登りもいいが季節がら枯枝なんかもあるからな。気をつけろ。
サルが木から落ちるなんてシャレにならんぞ」
「誰がサルですか。
っていうか、ダグラス隊長! 他でも私のことを小猿って呼んでいるらしいですね!」
リルファは丸く収められた鞭を鋲でとめ、自分の腰のベルトにつるすと顔をしかめた。
中央聖都に任官して一年が過ぎ、幼さの残っていたリルファの顔立ちも、今では頬がすっきりとして目元が柔らかくなり、女性らしいはんなりとした色香すらも身に帯び始め、彼女はその身を緑濃の軍服にきっちりと収め、凛々しい微笑みを浮かべ――新たにに入隊した女性隊員達の憧れを受ける軍人へと変貌していた。
周りの人間に言わせれば、当人の近くにいないから憧れなどというふざけた感情がのさばるのだということだが。
「そうだ、おまえ今夜の予定空いてるか?」
訓練の終了をつげたダグラスだったが、ふと思い立つように振り返り、面白そうな顔でリルファを見る。リルファは訓練中に落とした枝を片付けの為にひろいあげながら、
「今夜は――」
苦笑し、肩をすくめて見せた。
「夜会の出席を命じられていますから」
「なんだ。おまえ出席側か、珍しい。暇だったらこっちの警護の手伝いしてもらって、その後は飲み放題だったのに」
にやりとダグラスが笑う。
幾度か宮廷主催の夜会や舞踏会の警護の手伝いをしたことがある。そのたび、終われば打ち上げと称して会場で残った酒や食べ物が警護人達に振舞われるのだ。
余りものなどと侮ることなかれ、それでも若い兵達に好かれる仕事の一つだった。
もちろん、リルファのような一介の警護官が夜会の招待を受けることはない。彼女の警護対象が出席命令を受けているのだ。
「では向こうで会うかもしれませんね」
「ドレスか?」
ニヤリと笑うダグラスに、リルファは「軍服ですよ。まぁさすがに式典用のですが」と肩をすくめてみせる。
「つまらんやつだな」
軽口を叩き合っていると、ダグラスの直属の部下が上官を呼びに来た。
それを合図に、リルファは頭を下げてその場を辞した。
「では、ありがとうございました」
「礼なんぞいらねぇよ。オレは曲芸見物を楽しんでいただけだしな」
「よけいな一言が多いのは年齢によるものですか。オジサンは口が軽くなりますからね」
「おまえはどんどん可愛気がなくなるな」
ダグラスを見送り、その足が中庭から外庭へと回り薬草を数多作り続けている薬草園へと向かう。園の入り口は一つ。その入り口には薬草の世話や管理を任されている従卒の青年が一礼して扉を開けてくれる。
温室には湯殿から管が通され、そこから放出される、むありとした湿気が体にふれた。
「デイラ警護官戻りました」
敬礼を一つ、それに慌てて中にいた警護官――クラウス・ヒューは敬礼を返す。その顔は思い切り不機嫌に顰められていた。
「リルファ、おまえ遅い」
こそりと文句が出るが、リルファはにっこりとそれを受け流した。
「もとはと言えば、クラウスが来るのが遅かった」
「――五分だろ」
「罰としてプラス五分。問題はないでしょう」
リルファはけろりと言いながらクラウスの横をすりぬけ、自分の警護相手であるラドック・ベイリルの前に立った。
あいかわらずの黒いローブ姿にぼさりとした風体。
道端にいたらまず避けるタイプの生き物だ。
ラドックは花壇前でしゃがみこみ、薬草を引き抜きためすすがめつしながら眺めていたが、そのすだれ髪の奥の視線がちらりとリルファへと向けられた。
「遅いぞ」
「警護に支障はでていないはずです。問題はありません。
それよりもラドック様。そろそろ夜会の為の準備もありますので御移動を願います。むしろ、この時間にはすでに浴場へと行かれていると期待していたのですが」
リルファは自分でも理解できる程の極上の微笑を返してみせた。
腹部から湧き上がるような感情。
どうしても緩んでしまいそうな口元。
――楽しいのだ。
この面前の薬師が、今夜の夜会を心から忌々しいと感じていることを知っているため、その嫌がる様子を眺めているだけでリルファは楽しくて仕方がない。
内心を吐露するのであれば、まさにざまぁみろ、だ。
「何の準備が必要だ」
ラドックは低くうなるように言葉を口にし、リルファをにらみつけてくる。
――山猫が威嚇してくるようだが、いかんせんリルファにしてみれば無抵抗な山猫など怖くも何ともない。
そう、こと今回のことに限って言えば、この面前の不精男でさえどうにもできない事実がリルファの心を躍らせる。
「今夜は妃殿下じきじきのご招待です。まさかいつものその黒いむさくるしいだらだらとしたローブをひきかぶっている訳にはいきませんからね。
ああ、そのすだれのような髪! それも切りましょう。つめの手入れも怠れませんからね」
泥が入り込んでますよ。
楽しそうな声が癪に障るのだろう、ラドックの不機嫌は目に見えそうなほどに放出されている。
「――必要ない」
更に低くなる声を、リルファは無視した。
「必要ないわけないでしょう。妃殿下直々に御衣裳まで用意してくださったんですからね。
昼休み後にラドック様の為に浴場の用意を頼んでありますから。
早く行かないと湯が水になりますよ。風呂が嫌いというのは承知しておりますが、水風呂が好きという訳でもありませんよね」
強気なリルファの発言に、彼女の背後に控えているクラウスはそっと自分の胃を撫でた。
――この女、こえぇ。
黒い悪魔、黒の死神と呼ばれるラドック・ベイリル相手に一歩も引かないどころか強気すぎる。
するとリルファを射殺しそうな勢いで睨んでいた護衛対象は、ふいにニヤリと口元をゆがめた。
「そうか、そんなに俺の体を洗いたいのか。おまえ自ら洗うというなら、好きにしろ」
横柄にいう男を前に、だがリルファは欠片程の動揺を浮かべはしなかった。
「了承いたしました。髪も爪の手入れもすべて私がやらせていただきますので」
逃げないで下さいね!
――リルファは天使もかくやの微笑みを浮かべて威圧すると、背後に立つクラウスを振り返った。
この程度の嫌がらせにひるんでいては、この男の護衛官など一年もの間やっていられない。
「クラウスも手伝ってね」
「……」
クラウスは自分の首をそっと撫でた。
そこに見えない輪がはめられているような、そんな気がしてならなかったためだ。