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専任護衛官として外される。
ちらりちらりとそれが脳裏を掠める。
掠めたところで何が変わるわけでは実際ないのだが。リルファは軍人で、ラドック・ベイリルの護衛任務を外れたとしても他の誰かの護衛官として任命を受けるだろうし、またまったく違う軍務につくことだとて考えられる。
それは人事の領域で、一般兵にどうとできるものではない。
「何を余計なことを考えている! やる気があるのかっ」
激しい一喝に、リルファはびくりと身をすくませた。
面前に刀剣が振り下ろされる、慌てて地面を蹴ってそれを避けた。
「ったく、ちょろちょろとっ」
剣戟の講師として紹介された騎兵隊体長の一撃は重い。リルファにしてみればそれを受け流すのも苦労だった。だから自然と足を使い、体を動かす。
胴を凪ぐように剣が動く、それを身を沈めてかわして地面に手をついたところでそれを軸にして足を回す。咄嗟にやってしまったことだったが、剣戟にこれはもちろんタブーとしかいいようがない。隊長であるダグラスは持っていた刀を地面に突き刺し「この小娘っ」と怒りをあらわにした。
「剣戟の訓練に来ているのか、曲芸をしにきているのかどっちだ!」
「すみませんっ。
ですが、ダグラス隊長の剣を素直に受けては私の体が持ちません」
すでに体力も磨り減ってしまった。
腰に細剣を戻し、リルファは汗に濡れた前髪をかきあげた。
「おまえは剣が向かないな。ナイフやムチを師事したらどうだ?
体は軽いしよく動くから組み手もいいかもしれないが、あがいても女の腕だからな」
リルファはそっと細剣の柄を撫で嘆息した。
確かに、剣は自分にはあまり向かない。
「鞭……ですか」
「武具庫に行けば幾つかあるだろう。
そうだな、離れた場所に的をおいて試しに打ち付けてみたらどうだ?」
どうやらダグラスはすでにリルファに教える気が無いらしい。せっかく上官であるマディルにわざわざ書類を作ってもらったというのに申し訳ない。
それでもそのまま放置するような真似はせず、ダグラスはリルファを連れて武具庫へと赴くと、壁に飾られている鞭を幾つか引き出し、その長さを確認した。
「意外に重いですね」
「重心がしっかりとしているからな。だが鞭部分は皮製だ。軽いぞ。先端に重石が付いている。
たとえば――」
ダグラスはふいに鞭を振るうと、部屋の入り口付近にある無造作に立てかけられている棍棒へと鞭をうった。
鋭い音をさせて鞭はしなやかに伸び、鞭の先端から数十センチ離れたところで棍棒に触れるとそこが軸となり重石部分を有する先端がくるくると巻きついた。最後までそれを見定めず、くいっとダグラスが腕を引く。
立てかけられていたそれは、その勢いでもって空を飛び、たちまちのうちにダグラスの元へとそれを運んだ。
パシンと音をさせて棍棒を受け取るダグラスはニヤリと笑った。
「面白いだろう?」
「……面白い、というか、すごい」
「相手の武器を奪うこともできるし、相手を傷つけることもできる。
ただ、これはコントロールが難しい。やってみるか?」
ずいっと手渡されたのは、ダグラスが使ったのとは違うものだった。重さと長さが違うようだ。
リルファはためしに同じようにふりあげてみようとおもったものの、ダグラスに慌てて止められてしまった。
「とりあえずは外でやれ。
室内でやるには十分にコントロールできるようになってからだ。それに、これはそもそも室内でやるには無茶な武器だぞ?」
「では覚えてもあまり……」
難色を示すと、ダグラスは笑った。
「これでコントロール能力がつくと、ナイフを投げるのも巧くなる。
もちろんナイフは投げるものじゃないが、そういう使い方もできるようになる。いろいろ覚えるのは悪いことじゃない。そうだろう?」
その言葉にリルファはうなずいた。
――自らに最適な武器を見つける。
それは軍人であるリルファにとって急務だ。
十四の年齢から軍人になる為の訓練を受けてきた。それなりに腕には自信があるものの他の者より卓越しているとはどうしても言いがたい。
ラドック・ベイリルの護衛官でなくなったとしても、必要なものであるのに変わりはない。
リルファは中庭に出ると、言われたように的を用意して離れた場所に足を固定した。
「その鞭は8メートルだ。
つまり、的との距離を把握しなければいけない。相手が人間であったとしてもそれは代わらない。体にしっかりとその距離を覚えこませろ。そして大事なことは、相手は動くということだ。相手の動きを見極めろ。先を読み、超えろ」
少し離れた場所でダグラスは腕を組んで楽しそうに眺めてくる。
リルファは多少息を整え、手にした鞭をぱらりと垂らし――振り上げた。
「あれ?」
パシンっと地面の土と雑草とを削り取り鞭の先端が落ちた。
思いのほか離れた場所を鞭は打ちつけ、置かれた的――グラス――はものともしなかった。
「肩に力が入りすぎだ。もっとやわらかくていい」
「そういいますけど、先端の動きが把握しきれない。意外に重い」
「重かろうがもっとゆったりと打ちつけろ」
がははっと笑いながらダグラスは言う。どうやら楽しんでいるらしい。
リルファは内心で溜息をつき、ちらりと鞭の握りの部分を見た。
――先日のロープの豆もどきから未だ四日。
「こりゃ完全に豆になるな。つぶれたら痛いだろうなぁ」
思わずぼやいたが、ダグラスに「なんだ?」と問われて慌てて首を振った。
「いいえ、いきます!」
大きく息を吸い込んだ。
***
新しく与えられた鞭を護衛官室の自分の机――未だ誰のか判らない荷物が載っているが――で手入れをしていると、室内に上官のマディルが舞い戻った。
大きく息をついて肩を上下させる様子は「疲れてます」と書かれているようで、リルファは鞭をベルトで纏め上げ、
「お疲れ様です。お茶でもいれましょうか?」
本来護衛官としては必要ではないスキルが磨かれているリルファだった。ラドックの元にいると、まるきり自分がただの茶組みにでもなった気持ちになれる。
「……ああ、デイラ護衛官」
乾いた微笑みを浮かべたマディルの背後、続いて現れたのは更に顔色の悪いクラウスだった。
「あれ――?」
クラウスはリルファがいることに気づくと、まるで長年の親友にでもそうするように、突然駆け寄りリルファを抱きしめたのだ。
「もう勘弁しろっ」
――はい?
「あの人酷い。酷すぎる!」
「まぁ、あんまり人としてどうかとは思いますけれど――」
これは何事?
リルファが救いを求めるように上官へと視線を送ると、上官も参ったというように額に手を当て、
「デイラ護衛官は、あの人の……まぁ、刑務所内での仕事を知っていますね?」
鎮痛な面持ちでそう口を開いた。
ああ、あれか。
リルファはうなずいた。
――いわば人体実験だ。確かにあれは趣味が悪すぎる。
ラドックは死刑囚を使って薬の試薬実験をしているのだ。それを護衛官として身近に見続けるのは確かにつらい仕事の一つだ。
ラドックに言わせると「どうせ死ぬなら役に立て」ということらしいのだが……
「俺だって仕方ないと思うさ。これが仕事だ。
だからただ見ているだけならここまで嫌がったりしない!」
と、リルファに抱きついたまま半泣きのクラウスは叫んだ。
「あの人、俺に毒を飲ませやがった!」
「あ、あああ……?」
なんだ?
と疑問を抱くリルファに、マディルは嘆息交じりに説明してくれた。
おそらく、本来であれば説明してはいけないようなことだったが。
「つまり――実験、というか今日は確実に死刑執行だったらしいのです。
相手は8人の子供を犯して殺した残虐非道な輩だったわけですが、それを相手に新しい丸薬の実験をすることになっていたようです」
だが、男は口を開こうとしなかった。
毒を飲まされると感じていたのだろう。ただの薬だと言ってもがんとして口を開けない。
「そこで、薬師殿はクラウスを呼び、口の中を診察して丸薬状態になっていた薬を放り込んだそうです」
「……」
ぶるぶるとクラウスが震えだす。
「意地でも飲まなかったけどなっ」
それでもラドックの目は「飲め」と威圧していたが、クラウスは飲むフリだけで通した。
「相手の男はそれに安堵したのか、やっと薬を飲んだ」
「そうしたら! 突然目がむき出しになって首をかきむしって、血や泡を吐き出してっっ」
お願いですから力説しないで下さい。
「俺がどれだけ恐ろしい思いをしたかっ!」
「まぁ、口の中に傷や口内炎がなければ害が無いということらしいんですが」
「そんなこと説明されなければ判らない! それより飲ませる気満々だったっ。俺飲んでたらあぶねぇじゃんっ」
あんまりにもクラウスが哀れで、リルファはぽんぽんとその背中を撫でながら、おそらく自分がその場にいたら自分も同じことをされていただろうことを想像し、更にクラウスに同情を寄せてみた。
うっかりしっかり薬を嚥下したところで、実験体が一人増えただけのこととして処理されるだろう。
「もう駄目です。もう耐えられませんっ。俺はあの人を守るなんて金輪際イヤですからっ」
ううう、不憫な。
自分が口に含んだものと同じ薬で目の前で悶死されたら、それはさぞ恐ろしいことだろう。
クラウスは慌ててそれを吐き出したが、口の中が痺れるな気持ちにぞっとしたという。
「それ以前の問題ですよ、クラウス」
ひんやりとしたマディルの言葉に、クラウスの振るえる体が一瞬こわばった。
「あれ、では今は誰が?」
「一応今はグレンドルに任せてありますが――グレンは元々他に仕事もありますし」
大きく嘆息し、
「リルファ・ディラス・デイラ護衛官」
「はい」
「通常任務に戻っていただいてかまいませんか? もちろん、私としては貴方の護衛対象への無礼を思えば個人護衛はまだ早いのかもと思いますが……少なくとも、代わりに用意する者が現れるまでの間は、貴女に頼るよりないようだ」
マディルは更に深く息をつき、
「まぁ、ラドック・ベイリル様から苦情はきていませんから……ああ、胃が痛い」
「あのぉ」
「なんです?」
ただの興味で聞いてみた。
「私がもう絶対にいやだーっという状態になった場合は、考慮してもらえるのでしょうか?」
「――三ヶ月あの人とやっていける豪胆さは素晴らしいですよ。デイラ護衛官」
引きつったような微笑をマディルは向け、リルファに張り付いたままのクラウスを引き剥がし、外へと引き立てていってしまった。
豪胆さなど褒められたところで嬉しい訳はない。
リルファはせっかくの訓練期間が終わりを告げたことにがくりと肩を落とし、嘆息した。