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ラドック・ベイリルの仕事部屋へとひきずられるように到着すると、部屋の前でマディルの部下であるクラウス・ヒューがほっとしたような表情を浮かべて敬礼した。
「お疲れ様。一週間がんばれそうかな」
マディルはよいしょっとリルファを抱えなおし、その衝撃にリルファは喉の奥で呻いた。
上官からの言葉に、クラウスは苦渋の混じるような奇妙な表情で「――善処、いたします」と短く応え、リルファは打撲の痛みに顔をしかめながらクラウスを盗み見た。
何度か挨拶を交わしてはいるが、元々部署でやる仕事ではない為に付き合いは無い。
つんつんと少し癖のあるブラウンの髪を無理矢理撫で付けているが、髪質が固いのか寝癖のようにはねている。少し垂れ目な為にリルファより幼くさえ見えるが、確か年齢で言えば四つ近くは上に当たる。
善処、いたします――とは、また微妙な返事だ。
リルファなどはそう思ったが、マディルはそれを良いほうへととったのだろう。
「薬師殿はおいでだね。この怪我人の治療を頼みたいんだが、とりついでおくれ」
「はい、少々お待ちください」
護衛官は門番でも部屋番でもないのだが、ここではそういう扱いになってしまうのだ。リルファは見慣れぬ自分の同僚に深く同情し、また――普段の自分の任務がそれだと思うとえらくへこんだ。
中の応えに、リルファは上官の手を断りそろそろと見慣れた室内に入りこんだ。
薬を調剤する為の部屋であり、また問診などをするその部屋で黒い薬師はそのうっとうしそうな前髪の奥にある黒緑の瞳を細めた。
「なんだ、おまえか」
「はぁ、失礼します」
どう口にすれば良いだろう、と思案する矢先、マディルは丁寧に胸元に手を当てて頭を下げた。
「薬師殿、お忙しいところを申し訳ありません。
私の部下のかすり傷の治療と――本日より任務につきました護衛官の様子をお聞かせ願いまして構いませんでしょうか?」
「護衛官など誰でも同じだ」
あんまりさらりと言われたため、リルファは一瞬息をつまらせた。
そりゃ、確かにそうだろうが――自分の専任護衛官を前に言う台詞ではないだろう――思い切りへこむ。
「まぁ、そうかもしれませんが」
マディルは苦笑した。
その瞳がちらりとリルファを見たのは、少しだけ哀れんだのかもしれない。
ラドックはつまらなそうに顎をしゃくり、リルファに座るようにと命じた。リルファはおかれている椅子に座り、ロープですれた白手を引き抜いた。
幾度もロープをつかみ、滑ったりもしていた為に本来白いはずの手袋は土で汚れ、すれて穴が開いている。穴があいている場所には、見事に擦過傷がのぞき、指の付け根下は固くなっていた。
繰り返せばそれはそれは見事なタコになりそうだ。
手首をつかみ、その傷を検分していたラドックはおもむろに手近にある消毒薬をつかみ、何の躊躇もなくどばりと傷の酷い手に掛ける。
「うぐっひゃぁぅぅっっ」
予想だにしない痛みに思いのほか高い悲鳴が上がる。途中で耐えようとした為にその声は奇妙に裏返った音になった。
思わず体が拒絶するように逃げようと跳ねたが、ラドックの手はしっかりと手首を押さえ込んでいてそれが適わない。
マディルは医療とみるには容赦のない攻撃に視線をそらした。
ひくひくと引きつるリルファに、ラドックは冷たい眼差しを向け、
「しばらくそのまま放置しとけ。消毒薬が乾いたら薬を塗ってやる」
「って、このままですか?」
まるで手首に輪をはめられた罪人のような格好で座っているリルファは情けない声を上げた。
手は消毒液でぐっしょりと濡れているし、それがひりひりと痛む。
「ああ、打身もあるんですが」
と、思い出すようにマディルが言うが、むしろそれは余計な世話だった。リルファは泣きそうな顔を自分の上官に向けたが、それは取り合ってもらえない。
「どこだ?」
「腕や臀部――訓練の過程で何度も転がっていたので、間接部には多く。筋肉痛も厳しくなりそうですので、それに合う薬があったら出していただけると……」
まて、今、臀部とかいった?
リルファは心底、この優しげな口調だけの上官をにらみつけたくなった。
「わかった」
ラドックはいいながら、いつもと変わらぬ無感動な視線をひたりとリルファに向けた。
「自分で脱ぐか、はがされるか選べ」
「――いや、あの。
軟膏だけいただければ、自室でハウスメイドに塗ってもらいますから」
及び腰になって、まるで言い訳のように訴えてみたのだがラドックは感知すらしない。威圧だけで脱ぐように命令する男に、さすがにマディルは間に手を差し入れるようにしてさえぎった。
「えっと、当人もそういっていますから薬だけいただければ」
「患部を見ずに薬が出せると思うのか?」
――軟膏くらいおとなしく出してくれ。頼むから。
嘆息交じりに肩を上下させ、リルファはふと手が乾いていることに気づいた。ひらひらと手を動かし、
「では、薬は結構です。お忙しい薬師様のお時間を無駄にいたしまして申し訳――」
逃げよう。
そう思った矢先、ラドックはおもむろにリルファの腹部をぐっと押した。
「いぃぃぃっ」
「これは擦過傷かな、それとも打撲か?
面白いくらい怪我人だな――訓練場のことでよかったな」
言いながらそのまま肩を押され引き倒される。筋肉痛と打撲によってリルファの体が悲鳴をあげる。
「ちょっ」
抗議の声をあげるより先に、軍服の胸の脇――隠しナイフがすらりと抜かれ、そのまま首筋、軍服の襟口に引き入れられた。
リルファも彼女の上司もあまりの速さとその行動のとっぴさに息を飲み込み、判断がおくれてしまった。
「このまま引き裂かれるか、自分で脱ぐか選べと言っている」
ホックにナイフの刃が引っかかり、上着の生地がぴんっと張るのを感じて、リルファは目を閉ざして観念した。
「自分で脱ぎます」
「まったく手を焼かせるな」
つまらなそうに鼻を鳴らし、ラドックは手にしていたナイフを手首のスナップだけで壁に突き刺した。
――タンッと小気味良い音をさせたナイフの響きの中、リルファは情けない思いを覚えながら自ら襟口に手をまわし、カチリと音をさせて第一ホックをはずし、ゆるゆると上着を脱いだ。
上着、シャツ――さすがに薄い下着は大丈夫だろうと二枚の上着を椅子の上に放った。
外気に触れてはじめて、左の腕の擦過傷がひりひりと痛むのに気づいた。はじめのうち、きちんと着地できずに幾度か転がった時のものだろう。右側をかばった為に左側に負担がかかっている。
「利き腕は良くかばってますね」
おそらくそれは上官のほめ言葉なのだろう。
リルファはふぃっと右手にいる上官をみあげ、乾いた微笑みを返した。
「まぁ、今日のような阿呆な訓練は一日続けるものではありませんけれど」
としっかりと釘もさされる。
リルファの腕を掲げもち、その怪我の具合を見ていたラドックはふんっと鼻を鳴らし、先ほどと同じように無造作に消毒液をその腕にかけた。
「くひぁぁぁぁっ」
予想できたはずだが、上官との会話に気を取られていたリルファは何の心構えもなく消毒液の洗礼を受け、跳ね上がった。
「おまえは本当に拷問には向かないな」
冷ややかなラドックの言葉に、思わず上官がいるというのも忘れてリルファは声を張り上げた。
「貴方は本当に拷問官に最適ですね!
人を痛めつけて楽しいですかっ」
「俺の適正などどうでもいい。おまえ、骨は大丈夫なんだろうな?」
言うや、触診しようと手を伸ばされる。リルファは避けた。
「大丈夫です!
骨は無事です」
だから触らないで。骨の異常は無いと断言はできるが、何より触れられるのが痛い。
リルファは自分の隣に無造作に置かれている軍服を掴み、痛む足をすばやく動かしマディルの腕をつかんだ。
「大佐! 帰りましょうっ」
「え、ああ――はい」
「失礼しました。さようならっ」
半ば逃げるように部屋を出たリルファを見た代替護衛官クラウスはぎょっとした。
それも当然で、上半身だけとはいえ下着姿の若い女性が慌てた様子で出てきたのだから、誰だとて同じ反応を示すに違いない。
「デイラ護衛官、上着、上着」
「はいっ」
リルファは慌ててシャツと上着とを着るが、どうにもぴしりといかない。
マディルは大きく息をついた。
「確かに、薬師殿のやりようは誉められたものではありませんが、デイラ護衛官――貴女の態度も少し問題ですよ?」
「は、はぁ……」
「あの方はあれで陛下の覚えもめでたい方です。
薬師としての腕も研究者としての腕もわが国で並びなき方なんです。
その方に対して怒鳴りつけたり、よりにもよって拷問官に最適だなどと……」
マディルは額に手を当て、大きく息をつくとひたりとリルファを見下ろした。
「場合によっては、貴女の任務を考えなければなりませんね」
ぴくんっと背筋が伸びた。
「ちょっ、と待ってください?
そうすると僕は、まさか……」
その場で警護任務についているクラウスは驚愕に瞳を見開いた。
「まあ、その場合は君にそのまま任務についてもらうのが一番妥当だとは思いますが。
なんです? 何か問題が?」
問題があるのは十分に理解しているだろうに、マディルは相手に口を挟ませない威圧を向けてくる。
クラウスは一瞬悲壮な顔を浮かべはしたものの、がくりと肩を落としつつも「いえ、問題ありません」と小さく応えた。
――ラドック・ベイリルの護衛から外れる。
それはなんと甘美な誘惑だろうか。
だが、ふとリルファは顔を曇らせた。
それは、許されるのだろうか?
ラドックは以前リルファに言ったことがある。
――自分の為に死ね、と。
もちろん任務なのだから。軍人なのだから、勤務からはずされればそれは仕方のないことなのではないか?
「デイラ護衛官?」
マディルの問いかけに、リルファは口を閉ざした。
任務だから仕方ない。
それが通じる男であれば問題は無いのだが。