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5

「お待たせしました」

器用にプレートを支えて扉を開き、ソファの前のテーブルにプレートを並べる。湯が煮えていたので棚から茶葉を出して紅茶を準備する。一瞬ホットチョコをいれようかと思ったが、朝食には向かないだろうと結論づけた。

 ラドックはぱたりと書類を閉ざし、朝食を取るためにソファに座る。

 静かな朝食だった。

わずかな食器の音が静寂の室内に響くだけの、味気なさばかりの。

その静寂を破ったのは食後の紅茶をゆっくりと喉の奥に流し込んだ男だった。


「おまえ、郷里に帰れ」

「――は?」

 リルファは真剣に驚いた。

先ほど軍人として果てる決意を新たにしたところでそう言われてしまうとは思わなかった。

「試薬実験をするたびに身を差し出すのか?

到底おまえのような脆弱な精神ではこの仕事は耐えられない。そうなる前に郷里に帰って叔父上の膝で身を丸めていろ」

「お断りします」

 リルファは身を整え、意思の強い翡翠の眼差しで相手をねめつけた。

「私は軍人として生きる決意を固めたところです。

貴方の指図は受けません」

「まったく結構な決意だな。

そうやって囚人が哀れだと泣いては薬の投与を受けていくつもりか?」

「――それが軍人としての仕事であれば。

もとより私の身は陛下のものです。陛下のご命令、陛下の御為とあれば私が受けるのも辞さぬ考えです」

 こんな風にいえるのは、きっと昨夜の出来事を記憶していないからだ。

どんなに吐き気がしても、どんなに恐怖に身を震わせても、記憶がないからこそこうしていられる。

 だれとも知らぬ男に犯された記憶を持って、果たして毅然とした態度でいられるかどうかは正直判らない。

 だからこれは、ラドックに言わせればただの上っ面だけの言葉なのかもしれないけれど。


「本当に下らない。

貴様など軍人以下だ」

 ぐっと唇を噛む。

 ラドックは憎しみに満ちた眼差しでリルファを射抜いたまま、乱暴に立ち上がると、薬棚に足をむけ、そのまま彼女の面前に薬瓶を置いた。

「飲め」

「――ご命令ですか?」

「命令だ」

 その薬が何か、問うことはしなかった。

心は凍っていた。ラドックへの感情が、憎しみなのか恐怖なのかも判らない。ただ、命令だというのであれば、もう従うしかない。


――小瓶を手に、ためらい一つ見せずにひといきにリルファは煽った。


 苦い味が口一杯に広がり、喉の奥が拒絶するように吐き気がこみ上げた。それを押さえるように慌てて冷めてしまった紅茶で飲み込んだ。

 厳しいラドックの瞳。

 それを睨み返していくうちに、ゆっくりと体が変化していくことにリルファは息を詰めた。

まるで熱病のように、体に熱が生まれて、時折ふっとその熱が冷める。

その奇妙な変化は、何故か身を震わせる。つっと汗が流れて、心音が耳元で響くようになる頃には、我慢できずに自分で自分の体を抱いていた。

 

 ラドックはゆったりと反対側のソファにすわり、ただ傍観者の瞳をしてこちらを見ている。その視線が怖くて、リルファの瞳は伏せられた。

 歯が振るえてかちかちと小さな音をたてる。

口の中に溜まった唾液に、慌ててそれを喉の奥へと流し込んだ。

「どうした」

「いえ……」

 声が震える。

 両腕で自分の体を抱きしめ、ぎこちなく視線が泳ぐ。熱いのか寒いのか判然としない。上半身は熱いのに、下半身が冷たいような気がする。

――血の気が漣のように引くような頼りなさ。

 下げていた視線が、不安に揺れてつっと上がる。

 戸惑うその瞳を、ラドックの冴え冴えとした黒緑の瞳が貫いた。


「あ……」


 心の中を無理やり踏みにじるような瞳に、リルファの眦から何故かつっと涙がこぼれた。

 その手にしがみついてしまいたい衝動に愕然として、身を叱咤する。すがりついて泣いてしまいそうな自分を――叩きのめす。

 必死に自分を抱いているリルファに、ふとラドックは溜息をついた。

 乱暴に席を立ち、リルファの面前のテーブルにどさりと勢いをつけて座るから、リルファは体を震わせて背中を向けた。

 触れてほしいという思いと、触れられる恐怖。

ラドックは苛立つように手を伸ばし、リルファの顎を無理やり上向かせた。

 小刻みに震え、赤く潤む瞳から涙がこぼれる。


「つらいか?」

「――いえ」

 強がるように小さく応えた。

 ぞくぞくと身が震えて何かにすがってしまいそうなのを必死にこらえているのに、それを出すのは彼女の矜持が許さない。

 ラドックに負けたくない。

 ただそれだけで睨み返した。


――たとえ、リルファが必死に毅然とした態度をとっているつもりだとしても、ラドックには到底そうは見えなかった。

「誘うな」

 だからにやりと口元をゆがめて意地悪く男の口は言葉を囁いた。


 潤む瞳も、小刻みに揺れる唇も。男の心をぞくぞくとなで上げるには十分な所作だろう。だが、ラドックは余裕のある態度でリルファを眺め、口角を引き上げる。

「莫迦なことを、いわないで下さい」

「そうか? 誘っているようにしか見えないがな」

「侮辱するつもりですか」

「どこまでそうしていられるのか、実に見ものだな」

 ラドックは顎にかけていた手を乱暴に離し、観察というよりも楽しむかのようにゆったりと椅子に腰を下ろした。

「これ……昨日の、薬と……おなじ?」

 あえぐように言葉にすれば、ラドックはクツクツと笑う。

 昨夜の薬はすぐに意識を失ってしまった気がする。それとも、この奇妙な感じをただ忘れているだけだろうか?

 その疑問に、ラドックは耐え難いとでもいうように口角をゆがめた。

「莫迦か? 昨日飲ませたのはただの睡眠薬。

今おまえが飲んだのが正真正銘の催淫剤――実験の様子では、男を知っている女程おぼれるのは早いぞ?」

 とどめとばかりに告げられた言葉に、気力が萎えたかのように、体を支える力が奪われ、がくりと身が沈む。かろうじて寝椅子の背もたれにもたれるようにして状態を建て直し、必死にラドックの黒緑の瞳を睨み返した。


――この変態下劣男!


 内心でののしっても、すでにその言葉が口からこぼれない。

 息の荒くなった唇は、気を緩ませると涎を落としてしまいそうで、リルファは必死だった。

 体が熱い。

――体に触れている軍服が、自分が動くたびに皮膚を刺激して小さな悲鳴をあげそうになる。

 大きく体を動かせば、ふいにテーブルや寝椅子の縁に体が触れて身が縮む。

 全身の神経がむき出しにされたように冴え渡り、まるで蛇ににらまれているかのように身動き一つできない。

 ラドックは実に悠然とそんなリルファを見下ろし続ける。

「……ら、る」

 耐え難い苦痛だった。

救いを求めるように、声が漏れる。絶対に屈服しないと心は強固に訴えているというのに、頭が霞がかるように何かすがれるものを求めていた。


「良く耐えているが、もう駄目か?」

 楽しそうに言われ、意識がふっと浮上する。

悔しかった。

 いったん堰を切ったように声をあげれば、きっともうそれはとどめなく嬌声となってあたりを満たしてしまいそうだ。

――殺してやりたい。

 腹のそこからそう思った。

 この面前の男が憎くて、憎くて仕方が無い。なぜこんな苦痛を強いられなければならないのか判らなくて、なぜこんなに非道なことができるのか判らなくて、ただ純粋な殺意がリルファの腹部に溜まっていく。

「どうした?

楽になりたいならそう言え。俺も悪魔じゃないからな」

 くすりと笑う男を睨み付ける。

「だが、その時はとっとと郷里に戻るんだな。

まったく田舎の小娘がいるような場所じゃない」

 肩をすくめて言われる言葉が、果てしない侮蔑や侮辱に聞こえる。確かに自分は田舎の小娘かもしれないが、そこまで言われる必要があるのか?

 リルファは脂汗を流しながら、唇を噛んだ。

 

 意識が奇妙な薬ごときに支配されそうになる。それを許せず、リルファは咄嗟に胸の脇に仕込まれている小さなナイフを引き抜き、そのまま自分の足に突き刺そうとした。

 とたん、だんっとナイフだけが弾かれる。

 恐ろしい程の正確さで、ナイフの切っ先をよけて小さなグリップを蹴られたのだと気づくのは随分と後になってからのこと。


 呆然と手元を見つめた。

ナイフを跳ね上げたのは、ラドックの足で――弾いたナイフは少し斜めにあがったものの、くるくると回ってラドックの手の中に納まった。

 ナイフを持たない手が、物凄い勢いでリルファの胸倉を摑みげ、ナイフを受けた手は力任せにソレを壁へと投げつけ、その勢いのままにリルファの頬を容赦なく、打った。


「ったく――予想外の動きばかりするお嬢さんだ」

 激高した声が憎々しげに吐き出され、頬を強く打った手はもう一度――今度は逆の頬を打った。

 痛みに気が遠のく。

 ついで腹部に容赦の無い一発をいれられ、目元が霞むままに力を抜いた体を、ラドックはもののようにどさりとソファに投げつけた。


***


 ひんやりとした手が頬に触れる。

熱を持ったそこに、冷たい手が――ひたりと触れる。

もう何度もそうされたから、リルファはなんだかうれしくてすりっと頬を摺り寄せた。

「リルファさま?」

 優しい声に名を呼ばれた。

瞳を開くと、手と思った冷たいものは絞られたタオルだった。タオルをそっとリルファの頬に寄せてくれていたのは、ハウス・メイドのサーラで、リルファは自分が自室にいるものと一瞬勘違いした。

質のよい寝台はラドックの私室のものだ。


――また、ここに泊まってしまった。

 溜息が落ちた。

「熱をおだしになってお倒れになりましたのよ。病人を移動させるのはおかわいそうだとおっしゃって、ベイリル様がこちらのお部屋を使わせてくださったんですよ。

 お優しい方でいらっしゃいますね」

にっこりと微笑むサーラを、思わず人外生物を見るような眼差しで見てしまった。

――ラドックが優しい?

それはどんな勘違いだ。


「ラドック……様は?」

 乾いた喉で告げると、サーラは微笑みながら水の入ったグラスを差し出し「薬草園に行かれました」と告げた。

「今日はいつ?」 

乾いた舌をゆっくりと動かして問いかけると、自分の記憶の中の数字から一日変化していた。

「そう、一日眠っていただけなのね」

まったく護衛官として情けないにもほどがある。

「リルファ様、まだお休みになっていらしたほうが……」

「サーラ、私は大丈夫」

 きつく言い、寝台に押し留めようとする手を払い、壁に引っ掛けられている自分の軍服に袖を通していた。

「お前は部屋に戻っていていいから」

「――はい」

 鏡を見てそっと頬に触れてみる。ほんの少しだけ頬が赤くなっているが、さほど見苦しいこともないだろう。慌しく寝室の扉を開くのと、廊下の扉が開くのはほぼ同時だった。


「仕事が溜まっている。来い」

「はい――」

 一瞬立ちくらみを覚えつつも、ラドックの命令に体は素直に従った。室内の椅子に立てかけられていた細剣を腰に吊るし、足速にそのあとに続く。

 ラドックは室内の薬瓶を幾つかトレーに載せて歩き出したが、部屋を出る数歩手前で足を止めてすっと壁に向けて手を伸ばした。

 何だ?

 と首を傾げるより先に、ラドックの手が突き刺さったナイフを引き抜いてこちらへと示した。

「リルファ・ディラス・デイラ――」

「はい」

「命令だ。おまえは俺の為に怪我を負い、俺の為に死ね。

 馬鹿の一つ覚えのようにその身は陛下のものだと言っていたが、間違えるな。おまえはおまえの身をそれ以前に俺に差し出している。おまえは俺のものだ。俺以外の理由で傷を負うつもりなら、俺がおまえを殺す」

 手渡されたナイフを胸の横の小さな隠しに滑り込ませながら、リルファは顔をしかめた。

 意味は判りかねるが、どうやらどちらにしろ死ぬのが前提らしい。


「……ラドック様」

「なんだ」

 苛立つような視線が振り仰ぐ。

不満そうな音。

「私は、貴方の護衛官として任官することが許された、ととってよろしいのでしょうか」

ラドックは背を向けた。

「勝手にしろ」

――その背に静かに従いながら、リルファはどこか静かな心に触れていた。


 いつか、自分はラドックを殺すかもしれない。

いつか、自分はラドックに殺されるかもしれない。

それはきっと、ありえない話ではないはずだ。



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