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「何をしてるの?」

「――」

ぼんやりと視線を上げると、同じように軍服に身を包んだ青年がいぶかしむように自分を見下ろしていた。

本来であれば人懐こいと思わせる茶色の瞳を細め、不快そうに顔をしかめてみせる。護衛官であるリルファとは違う、一般兵卒の制服はどこにでもあるものだ。

 穏やかそうな顔立ちとは違い、その手は固く強い力でリルファの手首を掴んでいる。

 掴み上げた腕をみずからに引き寄せ、血に濡れたそれを眇めて更に眉を顰めてみせた。


「これは……相当痛いだろうに。

おいで、傷の手当てくらいはしてあげるから」

「――」

 リルファは唇を噛んだままふるりと首を振った。

 こんな痛み、あの娘に比べればどうということはない。

――殺してくれとまで言っていたあの子は、きっと今日一度だけあの薬を使われた訳ではないだろう。経験があるからこそ、あれほど恐怖して拒絶したのだ。

 リルファの腕をつかんだままの青年は困ったような微笑を浮かべた。

「何があったのか判らないけれど……早く手当てしたほうがいい。

 大丈夫、言いたくないことなら無理に聞いたりしないよ。ただ、この怪我や泣いてるのを放置していける程、人間終わってないつもりだから」

 まぁ、ぼくの自己満足に付き合って。

軽い口調で言いながら、ひょいっ引き上げるようにとそのまま立ち上がらせられる。

「歩く気がないなら、横抱っこするよ?」

 さすがにそれは恥ずかしく、リルファはしゃくりあげながらゆっくりと足を動かし始めた。

――ラドックの護衛としてこの場にいなければ、とは……ちらりと浮かんだ。だが、ちらりとだけで、まるですべてを拒絶するようにリルファは一度瞳を閉ざし、歩き始めた。

 口を開く気力のないリルファに、青年は困ったような微笑だけを浮かべ、リルファを近くの部屋に連れて行き、手を洗い消毒して包帯を巻きつけた。

 衛生兵だろうか。やけに手馴れた様子で包帯を巻き、微笑む。

「しばらく痛むかもしれないけれど、すぐによくなるよ。

 まぁ、風呂はしみるだろうけれど――あれ、君ってば首も怪我があるの? 怪我だらけだね」

 怪我、といっても薄い切り傷だ。

 今は包帯も巻いていない。軟膏だけはぬっているが、もともと薄皮とほんの少しきられただけなのだからリルファは気にもしていなかった。

ただ、傷跡自体は目立たないのだが、その場に痣のようなものが出来てしまったのは不可解だった。日々薄れていくようなので、ほうっておけばこのまま消えてなくなってしまいそうなのだが、サーラが何故か視線をそらしたのは気がかりだった。

 面前の青年は痣ではなく、その下に隠れている傷が気になるのか消毒液で首筋を拭い、微笑んだ。

「大丈夫?」

「……はい。お世話をおかけいたしました」

「いや、別にいいんだけど――まぁ、自分を大事にしなよ?」

青年は微笑むと、包帯を片付けて立ち上がった。

「じゃあ、ぼくはいくけど。大丈夫?

話し相手が必要なら、もう少し一緒にいようか?」

「いえ、あの――名前、教えてもらってかまいませんか?」

 さっさと立ち去ろうとする青年に、慌てて名を尋ねると彼はくすりと微笑んだ。

「次、会うことがあったら教えるよ。

別に恩にきてもらうようなことじゃないからね。ではね」

 ひらひらと手を振っていかれてしまい、リルファは丁寧に巻かれた白い包帯をそっと撫でた。


「……」

 ゆっくりとそれをなで、浅い呼吸を繰り返す。

心が泣いているのをなだめて、先ほどの牢獄塔へと戻った。

 中に入ることはできなかった。彼らの嬌声を耳にしてしまえば、その動揺はもっと大きなものになってしまいそうだったから。

 だからただ、ひたすらにラドックが出てくるのを待った。

 静かに、心を空にして。

――やがて半刻程もたった頃、ラドックは幾つかの書類を手に出入り口から顔を出した。その三白眼がちらりとリルファを一瞥し、何の言葉もかけずに歩き出す。

 リルファはただ静かにその背後に従った。

研究室も薬草園にも寄らずにラドックは自室に戻る。リルファは暮れていく時間を前に、一礼してそのまま退出しようとしたがラドックに室内に入るようにと命じられた。


「座れ」

 示された寝椅子は、彼が普段から寝台がわりにつかっているものだ。

 乱雑におかれたキルトをよけて座る。ラドックは持っていた書類を机に放ると、溜息を落としながらふいにリルファの左手を取った。

 びくんっと、体が震える。

そんな動揺などラドックは気にも掛けなかった。

 丁寧に巻かれた包帯を、乱暴に解いていく。それを解かれると、真新しい傷がさらけだされてしまうことになぜか羞恥を感じて手を引込めようとした。


 だがそれは適わない。

思いのほか強い力で手首を押さえ込まれ、一定のリズムでするすると容易くそれは解かれてしまった。

 さらけ出された傷口は、ひやりとした外気に触れ、リルファは思わず視線をそらした。

「だから見るなと言ったのに――それでも利き手ではないところは褒めてやる」

 ぼそりとラドックの口から出た言葉に、唇を噛んだ。

キッっと一度はそむけた視線を向ければ、ラドックの黒緑の三白眼がすだれのような髪の間からリルファを睨みつけていた。

「――あれが、あんな非人道的な実験が、必要ですか?」


 言葉にしながら理解している。

 あれは、必要なのだ。

――地位ある男のために。

世継ぎの君はいる。だが、何かあったらと思えば更に子を成したいと思うのだろう。


なんてくだらない。


「俺のやることに口を出すなと言った」

「あの子はっ。私よりも年下じゃないですか!

それがあんなふうに汚されるなんて許されないっ」

 ただの愚痴だ。

言っても仕方のないことだ。

ラドックを責めて――責めても、何も変わらない。

「所詮死刑囚だ。死を待つだけのものを利用して何が悪い」

「だからって!」

「だから何だ? 誰かがやらなければいけないものだ。だれかで実験して献上される薬だ。

 えらそうなことを言ったところで、誰かが犠牲になることに代わりはない」

 ラドックはえぐるようなまなざしで叩きつけてくる。

「あの娘を哀れんで、お前がその身を差し出せるのか!

 それができないのであれば、お前にとやかく言う権利はない」

「私が!――」

 とっさに出た言葉に、リルファはびくりと身をすくませたがそっと首を振ってひたりとラドックを見た。

「私が、実験体になればあの子はもう使わないのですね」

「莫迦か、お前は」

 ラドックは心底あきれたという様子で息をついたが、リルファは小刻みに震える体を抱きしめて不安に揺れる瞳を叱咤して言葉をつむいだ。

「私が――」

 ラドックの言う言葉は正しい。

非難したところで、誰かがその身を差し出さなければこの実験は終わらないのだというなら、汚いだの何だのと叫ぶ前に、自分が身を投げ出せないのであればそれはただの偽善だ。

 ラドックはぎりっと歯を鳴らし、はっと息を飛ばした。

「いい度胸だな、莫迦娘」

 ラドックはがんっと乱暴な音をさせて席を立つと「半刻、よく考えろ。頭を冷やせ――俺が戻った時にまだその考えが変わらないのであれば、お前を実験体にしてやる」

 リルファの身が、震えた。

 時間をおけば今の考えは簡単に覆ってしまいそうだった。

 勢いか、といわれればきっと勢いは大きい。時間がたてばたつほどにきっと自分は自分の発言に身を震わせて無様に動揺して自分の言葉を後悔し覆し、またのたうつ。

 いっそ今このときに薬を渡されてしまうほうがマシだ。

 ラドックは憎むような眼差しを叩きつけ、ふいっと身を翻して自身の部屋を出て行った。


――半刻。


 それがこんなに長いことを、リルファははじめて感じていた。

 頭の中が沸騰してしまいそうなほど、さまざまなことが頭をよぎっていく。あの娘が哀れだと、あんなあつかいは不当で非道なのだと訴える自分とともに、だからといって自分がそれを成せるのかと罵倒する声が頭で響く。

 身を縮め、外界からの声を遮断するように耳をふさぎぎゅっと強く目を瞑る。

 あの娘は未だ十七だろう。自分はそれより四つも年上で、何より陛下に仕える軍人だ。この身は陛下の為に存在する。

 あの子が汚されたというのであれば、自分はなんだ。この身はすでにラドックにより傷つけられた。

 リルファは自分の左腹部をきつく押さえた。

その時の証は――今も失われることは無い。

 

 ならば、ならば――

 ダンっと、音をさせて扉が開かれた。

 ハっと身をすくませて顔を上げれば、ラドックが自分の頭をタオルで乱暴にふきあげながら、普段はすだれのような前髪に見え隠れする黒緑の瞳をむき出しにしてさげすむような眼差しをこちらへと向けた。

 ほんわりとただよう石鹸の香り。

リルファは小さな振るえを必死に押し込み、冷え切った男の言葉を耳に入れた。

「決まったか?」

「――私は軍人です。この身はもとより陛下の為に……」

 言うほど、勇ましい音にはならなかった。

小刻みに震えるからだのように、言葉も多少頼りない。

 だが、それでも必死に自分を奮い起こした。


「ふん。立派な軍人魂だな。莫迦らしい」

 ラドックは言いながら一旦リルファの横を通り過ぎたが、すぐに棚の中から小さな薬瓶を引き出し、グラスの中にそれを落としこんだ。

 ずいっと――差し出される。

「飲め」

「……あの」

 手を差し出しながら、かたかたと手が振るえ、つま先がグラスを二度はじいた。

「ここで、ですか?」

 相手は?

 戸惑う声に、無表情の監察官の声で男は「見知らぬ囚人に抱かれるのに記憶を持っていたいか? 薬が利いてきたら入る手はずになってる」

と素っ気無く返される。

 リルファはすっと血の気が引くのを感じながら意を決してグラスを受け取るとその中身を吐き気と共に飲み込んだ。


***


激しい頭痛が眠りを妨げた。

夢を見ていたは覚えている。いつもの悪夢だ。

子供の頃、森の中にある小屋で暮らしていた青年の夢。牢獄で数多の薬を投与されて命を落とす囚人の悲鳴。

 いつも中心にいるのは、黒い悪魔のような男だ。

冴え冴えとした眼差しですべてのことを淡々とこなす。人の命を救う為の薬を作る為に、数多の人を犠牲にできる男。

「ラル……」

泣きながらその人を呼んだところで、目がぱちりと開いた。

一瞬焦点の合わなかった瞳が、だがすぐに薄暗い天井を写す。見慣れたものではなかったが、それでも知らないものではない天井。

 高官が暮らす寮の天井だ。

涙でこわばった瞳に手をあてて、はりついた目元をそっともむように撫でた。

むき出しの腕が、目に入る。

 ぼんやりと記憶をたどっても、なぜここで眠っているのかは出なかった。記憶をもっと深く手繰ろうとして――辞めた。

 思い出したくない。

そろそろと寝台を出れば、下着だけの姿の自分。

リルファの軍服は室内にある椅子に掛けられていた。

――皺になる。

そんなことを思って、自嘲気味に引きつった笑みがこぼれた。

意図もせずに、つっと涙がこぼれてしまう。

 自分の身に何があったのか、理解したくなかった。

 ただ莫迦みたいに、笑いたくて泣きたくて、吐き出したかった。けれどそんな自分の頬を一発殴りつける。

自分で選んだ道だ。

 

 後悔ならしている。いっぱいしている。

だが、それがどうした。

 あの娘は自分で選ぶこともできなかった。相手を面前にしていた。自分のように記憶しないように顔を合わせないという配慮すらなかった。

 そう――少なくとも、それはラドックの配慮だろう。

リルファは昨夜の出来事を記憶していない。

激しい体のだるさも、頭痛も――ただそれだけのものだ。

 唇をかみ締めて頭を振る。痛みに顔をしかめたけれどそれだけで、リルファは寝台をぬけだして軍服に身を通した。

 寝室を出れば、こちらこそ見慣れた本と書類だらけのラドックの私室。その主は珍しくすでに起きだし、何かの書類を作成していた。

「おはよう、ございます」

 声が震えたが、それを隠すように瞳を伏せて笑った。

「ああ――」

 不機嫌そうないつものラドックの声。こちらを見ようともせずに、ただ黙々と書類を作成しつづける。

「あの――」

 昨夜は、と言葉を続けようとして飲み込んだ。どう口にしてよいのか判らない。

 

 昨夜は、良いデータがとれましたか?

というのは激しく間が抜けているような気がする。

 それに自分から掘り起こして楽しい話題ではない。

 どうしようかと迷っているところで、ラドックはちらりとリルファを見た。

「朝食を運んでくれ。二人分」

「あ、はい」

「湯を用意して行け」

 命令口調に、リルファは慌てて暖炉脇に置かれている水入れの中身を薬缶(ケトル)へといれ暖炉に掛ける。そしてそのままの勢いで部屋を出た。

 食堂――ああ、その前に朝の身支度をしていないじゃないか。

 手洗いに出向き鏡の前で身支度を整える。はじめの気だるさなどどこにいったものか、十二分に睡眠をとった時のように、やけにすっきりとした顔立ちに泣きそうになったが、頭から水を掛けるように顔を洗って首を振った。


――仕事だ。何事も。


 嫁に行けない?

 そんなものは知っている。傷のあるこの身を求める者など元よりありはしない。

『リル、軍なんて行かなくても……俺の妻になればいい。そんなことでリルが変わる訳じゃないだろう』

 ふと脳裏によみがえるメイフェアーの兄の言葉をふるりと振り払う。従兄弟であるジェイコブはリルファが嫁に行けない身になったのだと承知して、そんなリルファの救済の為に自らを犠牲にするような言葉さえ掛けてくれた。

愚かで、優しい人。

 たとえその道しか無いのだとしても、その手にすがるなど出来よう筈がない。

リルファは自嘲の笑みを浮かべながらそっと自らの腹部を撫でた。


 このままオールドミスになって軍人として果ててやる!!

新たな決意を胸に抱き、食堂でプレートを手にラドックの部屋に戻ろうとしたところでふとその笑顔に気づいた。


「お、はようございます」

「おはようございます。昨日の怪我はもう大丈夫ですか?」

 と、手の怪我を消毒してくれた青年が首筋のタイを閉めながら微笑む。

 両手が二人分のプレートを手にしているリルファに「持とうか?」と声をかけてくれるがそれは辞退した。

「上官と君の分? 仲良しなんだね」

 てらいなく微笑まれ、リルファは微妙に引きつった。

 仲良し? これほど似合わない単語もないだろう。


食うか食われるか、そういう関係かもしれない。


「じゃあ、またね」

と、手を振られ、慌ててリルファは声をあげた。

「あの、わたくしはリルファ・ディラス・デイラと申します。ラドック・ベイリル様の護衛官を勤めております。あなたのお名前を頂いてよろしいでしょうか?」

「ああ――じゃあ、もう一度出会ったらにしていい?

もう一度顔を合わせたら結構運命的じゃない?」

 なにが楽しいのか笑いながら彼は立ち去った。なんだか不可思議なものを見送りながら、リルファは肩をすくめてしまった。

――いくら広い軍官舎といえども、顔くらいそのうちにまた合わせるだろう。

運命なんて大げさだ。

 だが、そんな軽口にほんの少しだけ心が軽くなった。


運命?


 運命論など信じていない。ラドックとの腐れ縁も、この出会いも、きっと意味は無い。

 

自嘲気味に、苦笑がこぼれた。


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