3
リルファはなえてしまいそうな自分の気力を鼓舞し、自らの護衛対象がいる部屋へと足音も高く向かった。
たかが三日で陰気さを取り戻した部屋に入ると、朝の弱いラドックはいつもと同じように自分の寝椅子でキルトに包まっていた。
よく見れば、彼の汗と垢協定は立派に健在らしく、黒緑の髪は艶やかさという言葉とは無縁になんだかぺっとりと額に張り付いているようだし、近づけば薬草とは違う異臭すら感じてくる気がする。
あくまでも気がするだけだが……
――宮廷官吏として間違ってる。
確かに……
顔にはうっすらと髭が生えている。だがもともと髭に関しては薄いほうなのだろう。毎日そっている様子はないが、さほど――ほかのことにくらべれば――むさくるしくはない。
自然と大きく息をついた。
「人の顔をみて溜息つくとはいい度胸だな」
低い唸るような声に、けれどすでに慣れているリルファは「おはようございます」と声を掛けた。
この男は身じろぎして起きたりしない。
突然その目がぱちりと開くのだ。
――ある意味不気味。
「人事に辞任を申し入れましたが、却下されました」
「だから?」
「今回の不始末に罰を言い渡されました」
「で?」
「ということで、浴室の準備が整っておりますのでどうぞ」
「何がということだ?」
不機嫌そうな恫喝気味の声。だがこの程度でひるんではいられない。リルファはてきぱきとクロゼットの中から着替えを引き出した。
見事に黒い衣類ばかりだが、幸いなことにきちんと洗濯はされている。当然だ。それは小間使いの仕事だから、浴場で衣類を置いておけば洗濯女が洗濯し届けてくれるのだ。
問題は、ラドックは毎日着替えないし毎日シャワーを浴びたりしない。
「はい、着替えです」
「意味が判らん」
「お風呂です。髭も伸びていますし、髪も汗でべったりしています。もしかしてと思いますが、私が寝込んでいた三日の間シャワーも浴びてないのではないですか?」
「それがどうした」
素でいばられてしまった。
「汚いです」
「……」
「不潔です」
「……」
「病気になりますよ」
「病み上がりにいわれても説得力がない」
確かに――
「とにかく、うるさい。お前は護衛らしく外で立ってろ」
強い口調で怒鳴られた。
リルファはひきつりそうになったが、ふとテーブルの上に放置されたカップを見つけた。中身はホットチョコではないようだったが、粘度は高い液体のようだ。リルファはすかさずそれを手にすると、力いっぱい相手の頭からかけた。
「――……」
「まぁたいへん。浴室にご案内いたしますね」
リルファは自分の演技力の無さに眩暈すら感じたが、今のが故意であろうということくらいどんな愚か者であろうとも理解できることだろう。
「このっ、くそ莫迦娘っ」
憎しみのこもったまなざしで射すくめられたが、ぼたぼたと謎の液体をかぶった顔では迫力も半減だ。
忌々しそうにぎりりと歯軋りし、ラドックは勢いをつけて立ち上がった。
だがリルファの思惑からはずれ、彼は浴室になどいかずにクロゼットにあるタオルを引き抜き、それで乱暴に髪を拭うにとどまった。
「……」
「出て行け」
「――」
「リルファ・ディラス・デイラ! 外で立っていろ」
まるで悪いことをした学生に命じる教師のように怒鳴りつけられ、リルファはすごすごと退出を余儀なくされた。
――護衛官らしく扉の前で剣に手を掛けたまま、考える。
どうやればあの男を風呂にいれることができるか。そう、なおかつ毎日だ。
毎日身奇麗にさせるというのは実に荒業だ。
もっとべったりとしたものをぶちかけてやれば否が応でも風呂に入るかもしれない。それとも背中にやもりでもいれてやろうか?
まるで子供の悪戯のようなものを考えていると、一人の男が部屋の前で足を止めた。
軍舎では見慣れない官邸服は、宮廷貴族のものだろう。初老を感じさせる男はちらりとリルファを一瞥すると礼儀正しく一礼した。
「ベイリル氏はいらっしゃいますか?」
「滞在してございますが、どういったご用件でしょうか」
これではまるで門番だ。
「グロウスと言えばご理解いただけましょう」
その言葉に来客を待たせ、中にいるラドックに声を掛ける。
ラドックはまだ怒っているのだろう、きついまなざしでリルファを睨んだがすぐに相手を通すように命じ、
「お前は外で立っていろ」
と、更に命じた。
――リルファは嘆息してしまう。
自分がやったとはいえ、あの謎の液体をふいただけの格好で来客を迎えるのはどうしたものか……
いや、自分が悪いのだが。
いやいや普通あそこで浴場にいかないという選択肢はありえないはずだ。
外で真面目に立ってそんなことを考えていたら、さほど時間をたてずに来客は去っていった。それを追うようにラドックが部屋を出る。
この時間ならば次に行くのは食堂――もしくは薬草園だろうとふんでいたというのに、その足は調剤室へと向いた。
何か薬を依頼されたのだろう。
いらいらした様子で棚の中の薬草をいくつもプレートに入れ、それを石臼でつぶしたりしながら作業している。
出て行け、という指示が無いのでおとなしく室内でその様子を見ていたが、ふと――リルファは窓の外が気になった。
そろりと身を動かし、カーテンが揺れる窓に近づく。人の気配がある気がし、ざっとカーテンを開くと驚いた様子の洗濯女達と目があってしまった。
「そう殺気だつな。邪魔くさい」
「――失礼しました」
「……調剤室は人の目が多い。阿呆な暗殺者といえどもそうそうここで狙おうなどとは思うまい」
いいながら作業を続ける男を眺め、リルファは顔をしかめた。
自分は確かに護衛官だが。このままでは守ることなどできないのではないだろうか? 自分の腕に――絶対の自信などない。
「ラル」
思わずそう呼べば、いつもと同じように「ラドック・ベイリル」と低い声が返る。
「ラドック……さま」
「なんだ」
何事かを口にしようとして、リルファは口を閉ざした。
ぶるりと首を振り、なんでもありませんと応える。ラドックはいぶかしげに眉をひそめたが、何事もなかったかのようにその作業を進めた。
リルファには彼がどんな薬を調合しているのか判らない。
ただ精密に重さを測り、いくつもの薬草を練り合わせたり火に掛けたりするのをただ静かに眺める。
昼を過ぎるまでそうしているから、リルファはふと彼の食事が気に掛かった。小さく息をつき、
「ラドック様、お食事をお持ちいたします。
しばらくお側を離れますが――」
「かまわない」
「はい、ではどうぞこちらにいらしてください」
一礼してリルファは部屋を出ると、大きく息を吐き出した。
ふわりと柔らかな空気が肺に入る。中にいる間は気づかないが薬剤の香りで頭が少しぼぅっとするようだった。
かつんかつんっとブーツを鳴らし、別塔にある食堂へと足を向けた。
消化によさそうなものを幾つか頼み、プレートに乗せて戻るとラドックはちらりと視線の一つも向けることなく、短く命じた。
「先に食べていろ」
「いえ、これはラドック様の分です」
「おまえは?」
「――私は結構ですので」
「病み上がりは栄養を取れ。食わないなら流し込むぞ」
黒緑の瞳に睨みつけられ、仕方なく「では食堂で済ませてまいりますので」と頭を下げる。だがラドックは何を思ったのか「ここにもってこい」と命じるのだ。
――食べないとでも思われたのだろうか?
信用がないな。
苦笑したが、命令であるなら仕方ない。言われたとおりに食事を運び、なんとも食べずらくも護衛対象を前に食事を済ませる。
当然、一緒に食事をしたところで、会話がある訳ではない。
もくもくとした味気のない食事。
――ふと、手にしていたリゾットを面前の人間にぶちかければ、さすがに浴場に行くのではないかとちらりとよぎった。
どろりとしたリゾットならばかけられればきっと相当気持ちが悪いに違いない。
左手で支えるリゾットの皿とラドックとをちらちら見ていたら、ふいに下を向いていた面があがり、険しい視線を向けてきた。
三白眼を更に険しくし、口元には引きつるような笑み。
「それをかけたら殺す」
「――しませんよ、そんなこと」
「ほぅ。そう願いたいな」
「でも、体は清潔にしたほうがいいですよ」
思わず勇気をふりしぼってしまった。
「薬師として説得力がありません」
「別に必要だと思っていない」
「でも、いつまでも結婚もできないですよ。そんなんじゃ」
言ってしまってから、しまったと思い浮かんだところで後の祭り。
そんなことを面前の相手が思っているか、と問えば――欠片ほども思っていないに違いない。
ちらりとでも女性に興味があるのであれば、もう少し身なりを気にするだろうし、髪型をきにするだろうし、髭を放置したりしないはずだ。
「ほぉぉぉ」
低い声が這い登るように聞こえてくる。
「そうだったな。どこかの誰かは俺が好きなんだったな」
「――いつの話ですか、いつの!
生憎と十二歳に一生残るような傷をつける変態下劣男など願い下げです」
「誰が変態下劣だ」
二人の間に史上最悪の空気が流れ出したところで、リルファは食事の終わったプレートを二枚、とりあげた。
「戻して来ますから、ここにいて下さいね」
「――戻らなくていい。この後は人体実験に入る。お前は行かなくていい」
その言葉に一瞬血の気が引いたが、リルファはこくりと喉を鳴らして意思の強そうなまなざしを相手へと突きつけた。
「いいえ。貴方の警護が私の仕事ですから」
――そして、人体実験がラドックの仕事だというのであれば、それを見るのもまた自分の仕事だ。
ラドックは目頭に皺を刻み、
「必要ない」
「私はラドック・ベイリルの護衛官です。貴方のいく場所に私は立ちます」
「――勝手にしろ。
だが、俺のすることに口出しすることは許さん。いいな」
はき捨てられた言葉にうなずく。
それ以降、ラドックは口を開こうとしなかった。黙々と監獄塔までの道程を歩み、なじみの看守に声を掛ける。誰を連れてくるかの支持を出すと、看守の視線がちらりとリルファへと向けられた。
「――何か?」
今までも何度もこの実験には立ち会ってきたが、今のように咎めるかのような視線を向けられたのははじめてのことだ。
「いや、あんたも中に入るのか?」
「そのつもりですが」
「悪いことは言わない――その、外で待っていてくれないか?」
いいづらそうに言葉を探り、視線をそらす男にリルファは毅然としたまなざしを向けた。
「私はラドック様の護衛官ですから」
「いや、しかし……」
「ほうっておけ。そのうちにイヤでも逃げ出す」
ふんっと鼻を鳴らし、冷たいまなざしで一瞥を送ってよこすとラドックは看守を促した。
看守とラドックの不信な様子に、さすがにリルファの心にも不安感がつのる。だが、この場に留まると覚悟したのだから――
実験用の部屋に入り、しばらくの間奇妙な沈黙が落ちる。ラドックは置かれている皿にもってきた薬ビンを置き、グラスを用意してそれらを分けていく。と、看守が一人の男を連れて来た。
どんな罪を犯したのか判らないが、頬のこけた痩せた男だ。
看守はその男を椅子に座らせ、足首と手足とを固定した。
その瞳にはこれからどんなことが起こるのか理解できずにこわばっている。
――毒、だろうか。
きちんと見届けようと覚悟したものの、そう思うといたたまれない気持ちになった。
軍人らしく出入り口に仁王立っていたところで、背後の入り口から女の悲鳴が聞こえた。
「やめてっ、いやよっっ、いやぁぁっっっ」
力任せに暴れる女を、二人がかりで看守が押さえつけて連れてくる。
どきりと心音が上がったのは、それが未だ年若い娘だったからだ。
悲壮な様子で首を振り「やめてっ、離してっ」と叫ぶ。金切り声のその声音に、我知らず自分の腕をぎゅっとつかんでいた。
救いをもとめるかのようにラドックへと視線を向けるが、その視線はどこまでも冷めていた。
ラドックの姿に女の顔色が蒼白になる。
だが、そこにリルファの姿を見つけると、女は瞳を大きく見開き声を張り上げた。
「助けてっ。ねぇっ、あんた女でしょう!
助けてっ、こんなひどいことっっ、もういやよっ」
心臓が早く鼓動する。
女の声は悲鳴のように響き、切羽詰っていた。その女の動揺に、さきに連れて来られていた男ががちゃがちゃと戒めを鳴らす。
恐怖が伝染しているのだ。
看守は無表情に女を所定の場所に固定した。それでも諦めない様子で彼女は全身で悲鳴を上げ続ける。
「押さえろ」
ラドックは冷たい声音でそう命じた。
「やめて、いっそ殺してっ」
「お前は死刑囚だ――安心しろ。やがては自由の手に乗せられる」
ラドックはいいながら、看守が押さえ込む女に近づいた。
あまりの痛ましさにリルファは自然と唇を噛んだ。顎を固定されて液体の薬が流し込まれる。女は涙を流して首をふって抵抗しようとしていたが、看守二人に抑えられて抗うことは許されなかった。
やがて、ラドックの手にしていたグラスの中身が彼女の口に流し込まれ――唇の端から流れ落ちる。
リルファは目をぎゅっと目をつむってしまった。
もう、すでに後悔している。
――見なくてよいと言われていたものを、見ると決意したのは自分だというのに。
やがて抵抗をしなくなった女に、看守二人が離れる。
新たなグラスを手にしたラドックは、その冷たい視線を男へと向けた。
男は恐怖でがくがくと震えている。だが、そんな男を前に、ラドックは静かに口を開いた。
「この薬は媚薬だ。
これを飲むことで命を奪われたりはしない――飲むことによってお前は本能のままに女が欲しくなるだろう。生殖反応が現れれば、その欲求のままにこの女を抱けばいい。
これはそういう実験だ」
飲め――
男はどうして良いかわからないという様子で辺りを見回していたが、やがてちらりと薬によってとろんっとした瞳になってしまった女を見て、ごくりと喉を鳴らした。
女ほどの抵抗はなく、男は薬を飲む。
リルファはこの様子を呆然と見詰めた。
ラドックは二人に薬を投与し終えると看守に命じて二人の戒めを解いた。
女はとろりとした瞳をしてはいたが、それでも身の危険を感じているのだろうずりずりとあとじさる。男は何度も喉仏を動かし、欲望の瞳を女へと向けた。
それを――観察者のまなざしでラドックは静かに見つめ、ペンを走らせる。
吐き気が、した。
やめなさいっと叫んでしまいそうだった。
だが、やけに乾いた喉が言葉を失うように音を出さない。わななく唇と、ぎゅっと握りこんだ手だけが、小さな痛みを与えた。
女の瞳が涙に濡れ、自分の体を抱きしめて息を乱す。
頬が高揚していくのと、男が女の肩に手をかけるのとは同時だった――かつんっと、リルファのブーツが音をたてる。
一瞬だけ、ラドックの視線がリルファを見た気がする。
――莫迦にする、さげすむ視線。
だがリルファは無言で背を向けてその場を離れた。
無力な自分にも吐き気がする。
――五十過ぎの体力の落ちた男。
そう、それはおそらく……この国の主を想定しているのだ。この実験を止めることが、軍人である自分にはできない。
だが、だとしても――あの娘があんな形で汚される理由になりはしないというのに。
汚い。
何もかもが汚い。
あんな実験を平気でやるラドックも、そんなことを命じる人間も、それを――とめることもできない自分も、なんて汚い!
監獄塔を出て、リルファは感情のままに壁を殴った。手の痛みも、表面が裂けて血が流れることも厭わずに力任せに殴る。
悔しいのかつらいのか、もう自分でも判らない。
悲鳴を上げて涙を流す、身を崩すようにずるりと地面に膝を折ったところで、血に濡れた手を、ふいに摑まれた。




