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「リルファ様?」

 肩を揺さぶられて目を覚ました。

「大丈夫ですか?」

 心配気に覗き込んでいるのは、ハウス・メイドのサーラ。そばかすの浮いたかわいらしい表情にそっと息をついた。

「うなされていたようですけれど……あの」

「ありがとう」

 リルファは言いながら差し出されたハンカチで眦に浮かんだ涙を拭った。

もう何度も同じ朝を迎えていた。

滑稽なデ・ジャ・ビュ。

だがそれが最近の現実。


「本日はお休みとうかがいました、もう少し横におなりになられますか?」

 サーラが労わるように言う。こうやって悪夢にうなされて目を覚ますことが、この一月半で増えた主に、サーラは悲しそうな眼差しを向けてくる。

 牢獄で耳にする悲鳴やなにかが自分の中に澱のように溜まって行くようだった。人々が影で黒の魔術師、黒の悪魔とののしるラドックのことを、リルファは実際擁護できない。

 彼が育てている薬草園の大半の薬が毒草と呼ばれるものであることも、噂ばかりではなくほぼ事実だ。


 彼は――この華やかともいえる国の暗部だった。

「いや……もう起きるよ。シャワーでも浴びてくる。朝食は、そうだな……たまには食堂で食べる。今日はサーラも体を休めなさい」

――来なくていい。

 ラドックの言葉がずしりと腹部に突き刺さる。

 自分はあなたの護衛なのだと言い切ってしまえば良かった。

シャワーを浴びて軍服に身を包む。

今日のラドックはいつもと同じ時間に部屋を出て、薬草園で薬草の世話、その後は薬草の調合室で薬をつくり、その後はおそらく監獄に行く――ならばその間に部屋を片付けてしまおう。

 リルファはパンとスープだけの簡単な食事を喉の奥へと流し込み、ふと人の気配に顔をあげた。

「ああ、そのままで」

 慌てて立ち上がり敬礼をしようとしたところを、とどめられる。相手は人事部の総長であり、リルファにラドックの警護を任命した当人だった。

「君はよくやってくれているようだね」

と、微笑まれ――リルファは胃にずしりと痛むものを感じた。

「……いえ、あまり役に立てず」

「いやいや、一月と半分もあの男についてもっているのは君くらいのものだよ。

 あれで敵も多いから護衛官はつけないといけないのに、一週間ももたずに誰も彼も逃げ出す始末だ。

 あれも底意地が悪いからな」

「――」

「それに、身近に人がいるのを嫌がる男だから、君が来てくれて良かったよ」

 にこやかな上司の言葉に、リルファは複雑な表情を浮かべた。


――自分が何の役に立っているのか、正直判らなかった。

 

毎日ラドックの後をついて回っているだけだ。護衛といったところで、ラドックはもともと官舎敷地内からあまり出ない。何者かに狙われるということも無いし、荷物もちのようにただただついて回っているだけだ。

 上司の言葉に空返事をいくつも返しながら、リルファはそっと自分の腹部を撫でた。ストレスで胃が痛む。


――それとも、この痛みはラドックに幼い頃につけられた傷跡が痛むのか。

 上司を見送り、食事を終えたリルファは嘆息し――すべてを払うようにぷるりと首を振り「仕事だっ」と自分を奮い起こすことにした。

 絶対に今日はあのかび臭い部屋を片付けてやる。

埃をたたき出してやる。

あのごみだらけの部屋を倒してやる。

 それはあのラドックをこてんぱんにしてやれるようで気分がよさそうだった。


 リルファは鼻歌を歌うようにしてラドックの自室に行くと、さっそく薄闇に閉ざされた陰気な部屋のカーテンをすべて開け放ち、窓を開く。

「ふふふ、合鍵がこんなときに役に立つのさ」

 憎しみを込めて室内を乱暴に片付けていく。

本に積もった埃を叩き落とし、本棚に順番に並べて戻す。

カビが発生した床をモップでふき取り、うっすらと色さえかわっているような窓をふき、机を拭く。

 捨ててよいものかどうかわからない書類はひとまとめに箱にいれ、明らかに捨てて良いと思われる丸められたものは捨てる。

 昼食まで抜いて片付けていたリルファがやっと一息ついたのは、太陽がゆっくりと沈み夕焼けで空が滲んだころあいだった。

 埃と灰で一杯になっていた暖炉に火を入れ、要らないものを燃やしその熱で湯を沸かして、ふと――リルファは棚の中にある小瓶に手を伸ばした。


「大丈夫、だよね……」

 黒いペースト状の物体。おそらく、これを見て一目で判るものはいないだろう。それでもリルファはそれが何か良く知っていた。

 古そう、そう呟きながらもその中身をカップの中に落とし込む。

カカオ。

まさかあるとは思わなかった。

 子供の頃はラドックの小さな小屋に行けば必ずそれを飲んだ。甘くてちょっとだけ苦い優しい飲み物。

 本来のカカオはむしろ苦味の強いものだが、これには砂糖を練りこんであることも知っている。 

 子供の頃のラドックは、自分にとってこの飲み物だったのだ。


 出窓はないが、窓辺に腰を預けてカップを傾ける。

疲れた体に甘い液体をゆっくりと流し込んだところで、ざっとリルファは血の気を引かせた。

 何の気配もなかった。

それは突然自分の面前に突き出された。

ぐいっと窓の向こうから腕を差し入れ、リルファを背後から引き寄せてその顔に銀色の細剣を突きつける。

「ラドック・ベイリル――じゃ、ないな」

 語尾はあせるようなものだった。

だから相手が間違えたのだと知るとリルファはすっと冷静になれた。

 持っていたホットチョコをためらわずに自分を背後からひきつけている相手になげかける。ひるんだところで身を沈め、床を転がるようにして距離をとり、胸元に入れている小さなナイフをそのまま投げる。

 うろたえた男はそのまま窓辺から立ち去っていた。

「な……に?」

 考えるより先に動いたリルファは、肩で息をつきながら慌てて窓辺に行くが、その姿はすでにない。

 そもそもこの部屋は三階なのだ。

遥か下に地面に叩きつけられたカップが粉々に砕け散り、ホットチョコの黒い染みがひろがっている。

 ソレを確認し、そこにきてはじめてぞくりと身が震えた。


――敵の多い男だから。


 自分ではなく、狙われていたのはラドックだ。

舌打ちしてリルファは自分をののしった。自分は、ラドックの護衛官という立場であるというのに、その身から離れていい訳がない。

 血の気が引くような気を味わいながら、リルファは身を翻しおそらくラドックがいるであろう監獄へと足を向けた。

 

 だんだんと暗くなる道を走り、敷地内の一番はずれにある監獄塔へとたどり着く、門前にいる看守が声を掛けてきたが、リルファはそのまま普段彼が実験に使っている部屋へと足を向け――突然、腕をぐいっと引かれた。

「どうした?」

 低い声にすぅっと腹部のあたりから血の気が引いた。

怪訝な顔をしたラドックが前髪に隠れる眉間に皺を寄せてこちらを見ている。険しいまなざしに泣き笑いの顔でリルファはほぅっと息をついた。

「あ、ああ……御無事ですか」

「お前は無事じゃないようだがな。なんだ、その怪我は? 軍服も汚れている」

 そう言われてはじめて、リルファは自分の軍服を見た。

 黒く汚れているのはチョコレート――肩越しに投げつけたので、左肩がチョコで汚れてしまったらしい。これはきっとサーラが困るだろうな。とぼんやり意味の無い思考がよぎった。

 不愉快そうなラドックが左手首をつかんだまま、もう片方の手でぐいっとリルファの顎をつかみあげてくる。


「首、切れてるぞ」

「え、ええ?」

 思わず間抜けな声を上げてしまい、慌てて捕まれたままの腕を動かし、指先で切られているという場所を確かめようとしたがラドックは舌打ちしてリルファを睨んだ。

「触るな。なんだその埃っぽいナリは? 汚れが入ると破傷風になったり――リル……?」

 ふいに、視界がぶれた。

体ががくりと前に倒れる。それを感じながら、リルファは自分の馬鹿さかげんに小さく笑った。

――自分が暗殺者なら、細剣に毒の一つも塗る、きっと……そうする。

 力が抜けた体をラドックの腕が咄嗟に力を込めて支える。それを感じながらリルファは白い霧に包まれるような感覚に意識を手放した。


***


「莫迦な話だ」

つまらなそうな男の声が部屋に響いていた。

「俺を毒で殺せると思うのが浅はかだ」

「……」

 ぐらぐらと頭がいたい。天井がぐるぐると回っている感触。吐き気がする。

リルファはふいに口の中に冷たい水を差し入れられ、すぅっという清涼感と共についでこみ上げる吐き気に身をよじって体内のものを吐き出した。

そこまできてやっと、ゆっくりと視界がクリアになる。

「ラル?」

 ぽろりと出たのは、昔、彼を親しげに呼んだ愛称。

彼は決まって、人の名前を縮めるなと名前を訂正させたものだった。

「――見えているか?」

 覗きこんでいる黒緑の瞳にこくりとうなずく。だが体がしびれたようになんだか動きが弱い。


「どこからでも入手できる植物毒だ。もともと致命傷を与えるつもりはないのか、遅効性の弱いものだ。どこにでもありすぎて出所をつかむことは無理だが、幸い毒を抜くのは楽だ――後遺症も残らないだろう」

 つまらなそういいきる男に、リルファは瞳を伏せて「すみません……」と小さくわびた。「護衛官だというのに……情けない」

つっと、涙が伝って落ちた。

「この程度で泣くくらいであれば、さっさと郷里に戻ることだな」

「――その方が、いいのかもしれませんね」

そう言葉にすれば、涙があふれてつぎつぎに頬を伝った。

ラドックは瞳をすがめ、近くのタオルを放り投げた。ばさりとそれが顔の上に落ちる。

それを抱くように顔を覆い、声を殺して泣いた。なぜ涙が出るのか、なぜ声を殺すのか判らない。

 自分が情けないからか。

弱いからか。判らない。

――自分がなぜここにいるのか判らない。


自分ほど役立たずなものなど地上のどこにもいない気がする。

自分の中のどろどろとしたものがあふれるように、涙があふれる。隣にいたラドックの気配が遠のいていくのを感じ、さらに孤独を感じた。

 自分は――何のためにここにいて、何のために存在しているのだろう。

ちっぽけでどうしてよいのか判らない。

ひとしきり泣いた頃、ふいに鼻腔がくすぐられた。

 甘い、ホットチョコの香り。

そっとタオルを顔からはずすと、面前に決してきれいとはいえないカップがずいっと差し向けられた。


「――」


 どうして良いか判らないリルファに、ラドックは溜息をついてカップを寝台の横のテーブルに置き、未だ体がしびれた感じで動きづらいリルファの肩口に腕を入れて起こしてやる。

 その手に、カップを押し付けた。

「いま、お前が気を弱くしているのも涙がでるのも薬の影響だ。

それを飲んでゆっくりと休め――いいな?」

 忌々しいという様子の青年の姿に、涙で赤くなった目元を和ませてリルファはぎこちなく微笑んだ。

「ありがと、ラル」

「ラドック・ベイリル――おれの名前をへんに縮めるな」

 もう何度も聞いたフレーズを耳に入れ、リルファは子供のように両手でカップを持ち、こくこくと温かで甘いホットチョコをゆっくりと飲み込んだ。


 それから三日の間、リルファは寝台から出ることは許されず――薬師としてラドックもそれに付き合った。日々を重ねるごとに、リルファは自分がどれだけ迷惑を掛けてしまっているかで恥じ入るしかない。

ラドック・ベイリルはこの中央聖都で有数の薬師だ。その薬師を三日もの間本来の仕事から引き離してしまったというのは――護衛官として許されるべきでない。

だから、動くことを許されたその日リルファはそのまままっすぐに人事部へと足を運んだ。


「おや、元気になったようだね」

にっこりと、人事総長であるシリル・ドゥナは微笑んだ。

普段から細い眼差しが、よりいっそう細く柔和に下がる。

「申し訳ありませんでした」

「なにか?」

「護衛官でありながら傷を負って三日もの間を無駄にいたしました。守るべき相手に看護までされては面目のしだいもありません」

「ああ、そんなこと。

いいんだよ。ようはあの男が無事であるならね」

「つきましては、ラドック・ベイリル氏の護衛の任を解いていただきに参りました」

 静かにこうべをたれるリルファに、シリルは、んーっと小さな声を出した。

「だが、当の薬師殿から解任願いは出ていないよ」

「ベイリル氏の問題ではなく、私の問題です」

「困ったね。こっちにも色々と事情というやつがあってね。君には是非ともこれからもあの男の護衛官を勤めてもらいたい」

というか。

「護衛官でいてもらわないと困る訳なんだが」

ぼやくように言って、大きく息を吐き出すと背筋を伸ばしまっすぐにリルファを見た。

「君が今回の件を恥じ入るというのであれば、どうだろう。

君には罰を与える――それで今回は帳消しにしよう」

「罰、ですか?」

 というか、当然何らかの罰則は与えられるものと思っていたリルファは怪訝気に眉をひそめた。

「かといって減法とか罰金はぼくの趣味じゃないから」

 ふふふんっとシリルはにんまりと微笑むと、よいことを思いついたというようにぽんっと手を打った。


「あの薬師殿を毎日風呂に連れて行き、宮廷仕官という意識の低い男をちょっとは身奇麗にしてやってくれ」


――それは無理!

 思わず声をあげてしまいそうなほどの暴挙。

だから自然とかすれた声が漏れてしまった。

「無茶な……」

「そりゃ、罰則だからね。簡単なことをやらせても面白くない」

面白いとか面白くないとかの問題ではない気がするのだが。

「まぁ、せいぜいがんばってね」

 ひらひらと手を振るシリルに、半ば追い出されるようなかたちで部屋を出たリルファは頭を抱え込んだ。

 

 身奇麗とは縁遠いのだ。

子供の頃もそうだった。あの男は汗とか垢とかと友情とか協定とかで結ばれているかのようにそれらを放置するタイプだったのだ。

――そう思うと、そんな男を好きだと思っていた自分に「目を覚ませ」とこんこんと説教をたれてやりたい気持ちになる。

 そうだ。あの男は最低最悪な男だ。

十二歳の小娘の体に、こともあろうに一生消えることのない傷をつけた……そこまで考えてぷるりと首を振った。

「くそっ」

 はき捨てた言葉に、廊下を歩いていたほかの軍人達がびくっと身をすくませていたがそんなことはかまっていられない。


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