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「大丈夫ですか?」
心配気な声に肩を揺さぶられ、リルファは翡翠の瞳を大きく見開き、目を覚ました。
労るように覗き込んでいるのは、ハウス・メイドのサーラ。
そばかすの浮いたかわいらしい少女の案じるような様子に、リルファは大きく息をついて微笑んでみせた。
「うなされているようでしたけれど……」
「悪夢だったわ」
リルファは言いながら差し出されたハンカチで眦に浮かんだ涙を拭った。
「ありがとう、起こしてもらえて助かったわよ」
「はい、あの――枕が低かったのでしょうか? 今夜は気をつけますので」
戸惑いを浮かべた少女に微笑みを浮かべ、リルファは寝台から足をおろした。
少し硬い寝台は確かに未だに慣れるものではない。
郷里の自室の寝台は優しくやわらかく自分を受け止めてくれたものだ。
といっても、この新しい寝台もすでに一月あまり使用している。それが悪夢の理由ではないことは、リルファ自身が良く知っていた。
「新しい任務におつきになるとうかがいましたけれど、帰宅時間はお変わりにならないのでしょうか?」
朝食の席、紅茶を用意しながらサーラが口にしたのはおそらく「場を和ませる」という目的があったことなのだろう。だが、リルファは思わずもっていたスープ用のスプーンをかしゃんっと小さく鳴らしてしまった。
「――さぁ、今のところちょっと……判らないのだけれど」
「あの、何かご心配が?」
サーラが心配気に声をかければ掛けるほど、リルファの口元は引きつってしまった。
十四の年齢で軍属の道を目指し、専門の寄宿舎に入り士官学校へと進んだ。この夏に人事異動を受けて中央に転属。そこで一月を経て辞令を受けたのが昨日のことだった。
「まったく問題ない」
言い切ると、リルファは席を立ちあがりナプキンで口元を拭った。
世話係として郷里からついてきてくれたサーラには感謝してもし足りない。軍人など自分の世話はおろか上官の世話までするのが当然のところを、サーラが手をかしてくれるのだから随分と楽をさせてもらっている。
そう――だからこれもきっと、叔父であるカドラスの肉親としての配慮なのかもしれなかった。
***
未だ年若い軍歴の者たちが暮らす古い官舎を出て、近隣に建つ真新しいつくりの上級仕官用の建物が並ぶ一角に入る。
軍士官用の建物の区画は幾つかに別れていて、その中でも最上級の建造物。建物内に入るのにチェックを受けて、自分と入れ替わりになる軍人と引継ぎを済ませる。
書類にサインをする間、どこか哀れむような視線を向けられたがそれは完全に無視した。この視線はもう何度か遭遇していたものだ。そう、この辞令を受けてから。
「リルファ・ディラス・デイラ参りました。
失礼させていただきます」
軽くノックをし、応えを待たずに扉を開く。
つんっと、薬草の香りが鼻についた途端、ふいに泣きたくなった。
広い部屋は雑然としていた。
本独特のにおいと、混じる薬草の香り。
寝椅子の上で寝ているその姿すらも変わらない。
こそりと溜息をついたのは、この上級官吏用の為の部屋には、奥に執務用の部屋もあれば別に寝室も用意されているというのにこの部屋の荒れようがすさまじい。
そう、きっと――神様は随分と意地が悪い。
昔、おそらく初めて恋した男の警護など。
そっと窓辺に近づいてカーテンを開く。
これでは警護とは名ばかりの小間使いみたいだ。
「光は書物をいためる」
突然の言葉に、どきりと心音が跳ね上がった。
「だからといって、湿気やカビも本を傷めます」
リルファはそ知らぬ顔で言うと、窓を開いて新鮮な空気を室内に招き入れた。
夏とも秋とも判らぬ風が室内に入り込み、よどんでいたような薬草とカビのようなにおいを一瞬さらっていく。なぜかほっと息をつけた。
「朝食は食堂に行かれますか? それともこちらにご用意したほうがよろしいでしょうか」
「お前は護衛官だろう。下働きのようなことはしなくていい」
「前任者にもそのようにおっしゃったのですね。
ですが、この部屋の有様もひどいものがありますし――ほうっておくと貴方様は寝食をお忘れになるとお聞きいたしましたが」
「死なないかぎり生きている」
また阿呆なこと言ってる。
リルファは嘆息し「貴方様は宮城の薬師様でいらっしゃいます。ご自身の健康のこともお考え下さい」
言葉を繰りながら、リルファは乱雑に置かれた本をとりあえず整え、丸められた紙くずをごみ入れに放り込み、書きなぐられた書類をまとめていく。
その間にこの部屋の主であるラドック・ベイリルは大きく息をついて立ち上がり、乱れた前髪をかきあげた。
「随分とつまらない女になったな」
鼻息混じりの冷めた口調を、リルファは無視した。
――ラドック・ベイリル。
年齢不詳の青年は、相変わらずの様子でそこにいる。そこだけ切り取ったように以前とあまりにも変わらない。
九年という歳月すら、無かったかのように。
だが、ただ一点は違う。
リルファの記憶のなかの男は、老人のような白銀の髪を確かにしていたというのに、現在の彼は瞳と同じ黒緑の髪をさらしていた。
だから初めに彼を見た時、それがラドック・ベイリルだとは判らなかった。何より、黒い髪の青年は以前よりずっと年若くすら見えるのだ。
「本日のご予定は?
どちらかに行かれる予定でしたら馬車の手配を――」
「邪魔くさい。俺に警護などいらぬし、死ぬ時は死ぬ」
まるきりつまらないことのように口にするラドックにリルファはゆっくりと呼気をつき、できるたかぎり冷静に「申し訳ございません。それが私の仕事でございますから」とつげた。
「職務熱心なことだな。ならば扉の前で警護に励めばいい」
――気難しい薬師。
数年前に妃殿下の産熟が悪く命も危ぶまれたときに窮地を救ったのは医学ではなく薬学だった。
その薬学を操る「薬師」ラドック・ベイリル。
腕の良さもさることながら、その薬学の為に影ではヒトにはばかるような実験をも繰り返しているという噂がある。
黒い薬学師。
リルファは薬師の命令に一礼すると、そのまま部屋を出て扉の前で警護に立った。
任命を受けた時、これは「栄誉ある職」であると言われたものだが、言ってしまえば「厄介払い」かもしれない。
「ラルは――扱いづらいからな」
いまさらぼやいたところではじまらない。
軍務につきたいと望んだのは自分だし、中央勤務を喜んだのも自分だ。
まさか、古馴染みの警護が仕事だとは思いもしなかったが――中央に来ることによって、彼と再び顔をあわせるかもしれないと、ちらとも思わなかったといえば嘘になる。
リルファは部屋の前で直立不動の体勢を取りながら、自分の中できりきりと痛むものと戦っていた。
――あなたが好きよ、ラドック・ベイリル。
精一杯の勇気を込めてそう告げた。
相手の年齢も、外見の異質さも。その全てを認めて好きだと告げた。だが、ラドック・ベイリルはそれを一笑に付してリルファに突きつけた。
「おれを好きだって?」
くつくつと肩を揺らし、それでも間に合わないのか腹を抱えて、そうしてラドック・ベイリルは幼い少女に手を差し向けた。
「ならばお嬢さん、おまえが俺のものだという、その証をおれにくれないか?」
――彼が好きだった。
その想いは真実だけれど。その想いは間違いだった。
傷つけられた十二の娘は、その日全てを失ったのだ。
***
ゾクリと背筋を這い登る寒気に、リルファは自分の内にある忍耐力を試されているような感覚を味わった。
――これは、この任務は。
拷問に近い。
いや、拷問意外のなにものでもない。
ラドックの仕事はいくつかの場所で行われる。その一つが敷地内にある薬草園、図書館、官舎内にある研究室――そして、刑務所。
中央に犯罪を犯した者達がとどめられた牢獄には、さまざまな人々が押し込められている。
ラドックはその虜囚を使い、薬の実験をしているのだ。
幾つかの薬を合わせ、それを死刑囚に投与する。
その日のうちに命を落とすものもあれば、それまであった病状が完治することもある。
それを目の当たりにし、見つめ続けることは――リルファの精神を少しづつ侵して行く。
「看守」
その日の薬の投与を終えたラドックは消毒薬で手を拭いながら、監視の為にいる看守に視線を向けた。
「明日は女の囚人を用意してくれ」
「はい」
「できれば健康な二十歳前後」
「現在刑が確定されている女の中で該当するとすれば、十七くらいの娘がいますが――」
「ではそれと、五十代の病弱な男」
「それならいくらでもいます」
どれでもいい、と軽く手をあげて牢官舎を離れるラドックの後ろをついて歩きながらリルファはわななく唇を押さえるようにしてその背に声を掛けた。
「……女性を、どうするつもりです」
「あんたには関係がない」
そっけない口調が返される。
「ラルっ」
思わず昔のように声を掛けてしまった。
かつんっと、ブーツの足が止まる。
振り返った黒緑の瞳は冷たくリルファを見たが、やがて嘆息交じりに切り替えした。
「おれはおまえの上官だ」
「若い女性にどんな薬を投与するつもりですか!
いくら貴方が陛下に数々の権限を与えられているとしても……」
「では、お前が代わりに飲むか?」
睨み付けられたまなざしに、リルファは凍りつくような恐怖を感じた。
「俺がやっている実験はすべて陛下の命令だ。
それに口を出すことは、陛下への反逆にとられると知れ」
はき捨てられた言葉に胸元で手を握り締めた。
「……お前は明日、来なくていい」
ふいに、ラドックの口調が少しだけ柔らかなものになった気がした。
それを頼りにするようにリルファが言葉を重ねる。
「――私で良いのであれば、私が」
歩き出しかけた青年の足がまた、止まる。
その冷ややかなまなざしがひたりとリルファを射抜き、馬鹿にするかのように鼻を鳴らした。
「俺の仕事に耐えられないのであれば、さっさと郷里にでも戻って嫁に行くのだな」
悔しさにくっと唇を噛んだ。
「安心しろ。明日の実験は命にかかわることはない。
だが、明日は来なくていい。休暇のつもりで体を休めていればいい」
「――私は……」
「命令だ。リルファ・ディラス・デイラ」
毅然とした口調で命じられ、それ以上リルファは口を開くことができなかった。
遠ざかる背中も追いかける気力がない。何かをつかむように伸ばした手が、空をつかんでぱたりと落ちた。
新しい任務を命じられ、一月と半がかろうじて過ぎた。
だが、その時間はただ過ぎただけで、リルファの中に新しい何かを築くことはない。
――尻尾を巻いて帰れ。
そう言われたこともすでに一度や二度ではない。
この一月と半分で、自分の中に膨らんだものがあるとすればラドック・ベイリルに対する憎しみや恐怖ばかりだ。
あの男はこの一月と半分の日々ですでに片手では足りない程の罪人の命を奪っている。
リルファは軍人だ。命じられれば他人の命を奪うこともあるだろう。だが、実際に誰かの命を奪ったことはただの一度もない。
自嘲気味に笑みを落とし、泣きそうな自分をごまかすように空を見上げた。
うっすらと星が瞬き始めた肌寒い空を――