プロローグ
「刺繍が何の役にたつの?
メイフェアーのように上手ならいいけど、私のようにヘタな人間はやらなくてもいいじゃないの」
窓辺に置かれたチェストが指定席だった。
それを椅子に、そしてテーブルに見立て、少女は自ら入れたホットチョコの入ったカップを揺らした。
猫舌の少女はふーふーと、かわいらしく息を吹きかけているが内容量は少しも変化がない。
十分に冷まさなければ、とろりと粘度の高い液体は簡単に彼女の舌の薄皮を引き剥がすといくつかの経験から彼女は承知していたのだ。
「そりゃ、できるにこしたことは無いと思うけれど……得て不得手って言葉だってあるでしょう? えっと……なんて言ったかしら? 適材適所? それだっていいわ」
子供らしい高い声が不満をたらたらと並べ立てていく。
窓からは明るい日差しが良く入り、チェストの上に広げられたハンカチに包んで持参したクッキーが幾つかのせられている。
そして話し相手は置かれた布人形。
不恰好な人形は、主に黒い布で作られ、その頭は白髪。
そこはまるで小さな茶会席のようだというのに、そこを一歩離れるだけでそれ以外の場所は世界が違うかのように暗く、陰気な空気と薬草の香り、湿ったカビのような香りに包まれている。
その中、壁に押し付けるように置かれている寝椅子の上にもりあがったキルトがもぞりと動いた。
「ずいぶんと難しい言葉を知っているな」
つまらなそうな声がそこから聞こえてくる。
低く老成し、重く疲れたような声。
上半身を起こしたのは、白髪の男だった。
いや――白ではなく、色を失ったと言ったほうが良いかもしれない。老人のようなその髪の面は存外に若い。といっても未だ十二の少女にしてみればこの男は偏屈な老人と大差ないのだが。
少女は微笑んだ。
まるで相手よりもずっと年上のように。
「もう昼過ぎよ?」
「そうだろうな、小娘が屋敷を抜け出して来るのはそんな時間だ」
つまらなそうな言葉。
キルトをばさりと跳ね上げると、黒いズボンに上半身裸の姿でゆったりと歩き、少女の座るチェストまで近づくと、チェストの上に置かれていた紅茶のカップを持ち上げた。
見慣れたといったところで異性の裸に、少女の視線は戸惑うようにそらされた。
心臓がとくとくと早く打つのは、なにも裸だけが原因ではない。
その腹部に無残に残る引き連れたような跡。
それを利用するかのように茨のような刺青が入れられている。
そしてこの男の傷はそれだけではなく、今は見えぬ背にも幾つかの傷跡が残されていることを幾度か目にしたことがある。
「あ、だめよ」
少女は慌てて声をあげたが、男は気にしない。
男の手に取り上げられたカップを見つめ、唇を尖らせた。
「それは、妖精の為のものなのよ?」
夢見がちな少女らしい言葉に、男は鼻を鳴らして笑う。
多少冷めてしまっていた紅茶は、喉を潤すのにちょうど良く彼の喉を流れた。
ついでにハンカチの上のクッキーをつまむ。
昼食としては悪くない。
「おれの家でおれが何をしようと問題はない」
「そりゃ、そうだけれど」
「それで、領主館のお嬢さん。あんたは今日は何しにきたんだ?」
そう矛先を向けると、少女はふっとこわばった。
その反応が判らず、男は首をかしげる。
「ねえ、ここを出て行くのですって?」
緊張をはらむその言葉に、男は口元を歪めて笑った。
「なんだ? 聞いたのか」
「叔父様が、言ってらして……ねぇ? どこに行くの? 戻る?」
少女の瞳に宿るものに、男はますます楽しげな色を向けた。
この辺り一帯を治めているのは、少女の叔父だった。彼女の両親はすでに天上へと召されて記憶すら危うい。彼女は叔父の屋敷で叔父の子供達と共に暮らしているのだ。
「王宮」
簡潔に答えてやる。
「戻るかどうかはしらん」
「……何で? 何をしにいくの?」
「仕事」
切って捨てるような返事。
少女は一瞬泣きそうな顔をした。
「私も、連れて行って」
「――領主館のお嬢さん、莫迦なことを口走ってるな?」
男の黒緑の瞳が面白そうに揺らめく。
やがて意地の悪い表情に変わり、少女のふわふわと揺れている金色の髪を指に絡めた。
「叔父上の屋敷はおまえにとって居心地が悪いか?」
「……そんなことは無いわ。年の近いメイフェアーとは喧嘩もするけれど、仲直りだってすぐするし。でも」
「でも、なんだね?」
少女は思いつめたような視線をあげて、ひたりとその翡翠の眼差しで男を見返した。
「あなたが好きよ、ラドック・ベイリル」
思い切ってその肩に手を掛けて背伸びをして口付けた。
――目測を誤って、歯ががちりとあたる。
それが、リルファ・ディラス・デイラの初恋で、そして初めての家族以外との口付けだった。