召喚練習中
一足先にファウリーの部屋に帰宅して寝台の上でごろごろとしていたぽってりとしたハムスター――キンクマなのに黒――悪魔は本日の成果にたいへん満足していた。
ファウリーが中等科二年も半ばまで過ぎたが、相変わらずファウリーの成績は座学で中より上、技術で中の下という有様だった。
勿論、悪魔の地道な努力の賜物だ。
本日はアメフラシを召喚してやった。アメフラシ!
あのうねうねとしたナメクジのような姿を見た途端、教室中は悲鳴に包まれた。やはり一匹ではなく三十匹出してやったことが功を奏したに違いない。
嫌がらせは出し惜しみをしてはいけない。
悪魔は満足げにむふむふと鼻先を動かし、キシキシという音にむくりと顔をあげた。
音の主は出窓からひょいっと進入を果たした。まるで自分の部屋のように我が物顔で部屋を見渡し、そして当然のようにファウリーの勉強机の椅子に座る。
まぁたやってるよ……――
悪魔は毛布の中にもぐりこみ、勝手に人の部屋に入り込んだ――そう、ここはもうすでに長年慣れ親しんだ悪魔の部屋でもあるのだ。突然入ってくるなど無礼だろう――レイシェンは机の上に放り出された本に肩をすくめ「ファウリーでもこんな本を読むんだ」と淡く微笑んだかと思えば、今度は手馴れた様子で机の引き出し、二重底になっている隠しから一冊のノートを引き出す。
キンクマ悪魔はかしかしと頬をかいた。
とりあえずこの男のやっているコトはハンザイであるらしいが、悪魔としてはハンザイはむしろ歓迎すべき単語だ。悪いことをするのが悪魔なのだし、人間をそそのかして悪いことをさせて楽しむのも悪魔だ。
だが、ことこのレイシェンのするハンザイはあまり楽しく感じない。
「またニナに虐められてるし……」
日記の文面を指先でなぞるように微笑を零し、楽しそうにしていたレイシェンだったが、やがてその雰囲気がゆっくりと変化していく。
悪魔はそれを眺めながら小首をかしげた。
「――黒髪の男って……」
低く冷たく吐き出される言葉に、悪魔はぴんっと髭を動かした。
あ、それ、オレっ。オレだよっ。
って、ああああ、オレ馬鹿っ。なんだってファウリーの前になんか出ちまったかなぁっ。
途端に思い出された後悔に、ごろごろと身をもだえさせた悪魔だが、レイシェンの様子がいつもと違うことに首をかしげ、なんだか判らないが自分の存在がレイシェンを不愉快にさせたと思わせる事実ににんまりと機嫌を良くした。
***
「ファウリーさんっ、家はこの辺だったんですか?」
帰宅途中、今日は絶対にニナに遭遇したくないという思いで帰宅ルートをかえたファウリーだったが、思いもよらない相手を前に乾いた笑みを浮かべてしまった。
坂道の多い街で、高い場所には学園やら研究塔やらと主要施設が立ち並んでいる。上から幾筋かの道が別れ、ファウリーが普段使っている道は「シルビア通り」だが、本日は「アルート通り」を下り、少しばかり遠回りでの家路――ばったりと会ったのは見知らぬ青年だった。
いや、見知らぬ……知っている?
ファウリーは眉根をひそめてじっと相手を観察した。
年齢で言うならば、糞忌々しいお隣のレイシェンと同じ、もしくはもう少し下かもしれない。心持ち垂れた眦とアヒルのようにへんな笑みを浮かべている口元。首にかかるようにして少しはねた癖のある髪は、深いブラウン。
何だかものすごく癇に障るような、不快な気持ちが持ち上がるのを感じる。どうやら相手は自分を知っているらしい。名前を言われたことであるし、といったところで、もともと黒髪のファウリーはこの辺りでは有名な存在だ。
――召喚魔導師パードルフの養い子。
知らぬ者のほうが少ないかもしれない。
「えっ、と、あの……ファウリーさん?」
ファウリーの怪訝気な表情に、アヒル口の青年は戸惑うように首をかしげる。
「――誰?」
一瞬失礼かとも思ったものの、相手の不躾な態度が癪に障る。ファウリーは基本威張りんぼうだ。
「ああっ。もう二年ものお付き合いだというのにっ」」
お付き合い!
また凄い単語の出現にファウリーが瞳を見開くと、青年は何を思ったのか自分の手で自分の口元を覆い隠した。
「ども」
「……」
「あれ、判りません? いやだなー」
ちょっとまっててくださいねーとごそごそと自分の鞄を漁りだした青年は、まさに不振者だった。
果たしてその鞄からいったい何を出そうというのであろう。
ファウリーは引きつりつつ、じりじりと後退した。
「じゃあ、コレでどうでしょう」
青年は言うや、白いものをずるりと引っ張り出した。
それを感知せず、ファウリーはくるりと身を翻して脱兎の如く駆け出していた。坂道を駆け上るのは大嫌いだというのに。
「変態でたーっっっっっ」
「ちょっ、ファウリーさんっ」
両肩に掛かる学生鞄のベルトをしっかりと掴み、ファウリーは必死に狭い路地を走り、坂道を駆け上がろうとしたが、生憎と相手の体力のほうが勝った。
ファウリー・メイは自称未来の天才召喚魔導師だが、生憎と今はただ運動神経の鈍い小娘でしかない。
ぐわしと二の腕をつかまれ、ぜーぜーと息をつく男はファウリーを押さえ込む。
「あっ、あたしは召喚士なんだからっ。魔獣を呼ぶわよっっ」
当然魚介類しか出せないが、それでも涙目で必死に言うファウリーに、相手は冗談でも耳にしたかのように笑ってみせる。
この状態で笑うのがまた怖い。
ファウリーは頭の中で様々な事柄がちらつくのを感じた。
――コートを着た男が突然ばがりとコートを開く!
そんなものは都市伝説ではなかったのか?
面前の男はコート着ていないが、鞄からは謎の白い服を引き出し、今もだらっと掴んだままだ。
これからそれを着用して「ほーら」と開くかもしれない。
中にシャツ着てるけど! スボンもちゃんとはいてるけど。
こんな場所で早着替えとか?
変質者に遭遇したという思いでファウリーは混乱していた。
「いやだなぁ、もぉ。ファウリーさんってば」
細い路地裏で見知らぬ男に捕まったファウリーは、威嚇するように「魔獣を呼ぶわよっ」と言ったわけだが、相手は肩を揺らし、
「ファウリーさんってば魚介類専門じゃないですか。あ、ぼく魔道免許ないから、未資格で指導官無しに召喚すると大変ですよ。駄目ですったら」
――なんでバレてるのぉっ。
それになんて失礼な!
ファウリーが大声を出そうと口を開きかけた途端、掴まれていた戒めは思ってもいなかった援軍により解かれた。
「うわぁっ」と青年が叫んだのは、その足を思い切り踏みつけにあったからで、そしてその足を踏みつけたのは、
「何ぼさっとしてるのよ、馬鹿っ」
声と同時にその主は思い切りファウリーの腕を掴んでいる男の手に「とうっ」と手刀を叩きつけた。
「ニナっ」
ニナはファウリーの腕を掴み上げると、今度は逆方面に向かって走り出し、路地裏の更に小道に入り込み、相手が追ってこないことを確認して怒鳴りつけた。
「何してんのよ、あんたはっ」
「何って――ニナこそ何してんの?」
あまりのことにファウリーは素で問いかけてしまった。
そもそも、本日違う道を選んだのはニナと顔を合わせたくなかった為だ。毎日毎日あきもせずにぐちぐちと下らないことを言ってくるニナを避けたる為に道を変え、あまつさえ変質者に絡まれるわ、挙句そのニナに救われるとは――まったく予想だにしていない展開である。
呆然とするファウリーに、ニナは苛立ちもあらわに怒鳴った。
「あんたは何ほいほい男にとっ捕まってる訳?」
「いや、なんていうか……」
「ばっかじゃないのっ」
ぎゃんぎゃんと怒鳴るニナは、ファウリーの手をいつまでも掴んでいることに咄嗟に気づいた様子で、まるで穢れたとでも言うようにぶんっとその手を振り払った。
「えっと、ありがと?」
どう言えばよいのか判らず、不本意ながら助けてもらった気持ちもあるためにファウリーが礼を口にすると、面前のニナはみるみるうちに顔を真っ赤に染め上げて「べつにあんただから助けたわけじゃないわよぉぉぉぉっ」
と怒鳴りつけ、脱兎の如く逃げ出した。
「……つん、でれ?」
その背を見送り、ファウリーは脱力した。
ニナのツンデレはちっとも楽しくない。
***
「ただいまー」
「おかえり、ファウリー。今日は遅かったじゃないか」
ニナのツンデレという衝撃は、変質者に遭遇したことよりもファウリーの精神力を著しく阻害した。
心持ぐったりしつつも帰宅したファウリーは、とぼとぼと惰性でもって帰宅し、台所で夕食の準備をしているおじいちゃんに「ただいまー」とおざなりに声をかけ、更にとぼとぼと三階の自分の部屋の扉を開いた。
「……何してんの、レイシェン」
そして更に自室でレイシェンに遭遇――今日は最悪な日に違いない。
レイシェンが堂々と足を組んで座っているのは、間違いなくファウリーの勉強机の椅子だ。
まるで自分の部屋のようにすっかりと寛いでいるレイシェンは、その膝の上に本を一冊乗せている。
その本の存在に気づき、ファウリーは自分の体温が確実に一度上がるのを感じた。
最近学園の友人から借りた恋愛小説は、女子生徒の間で人気の『愛の囁き』という、もうタイトルからしてちょっとアレな感じの本である。
ファウリーとしてはそういった本に勿論興味は無い――ちょっとだけあるかもしれないが、魔道書に比べればその魅力は十分の一以下だ。そんな本が何故そこにあるかといえば、「もぉぉぉ、キュンキュンくるのよぉ」という友人に無理やり押し付けられたのだ。
レイシェンは小首をかしげるようにしてそのページをペラペラとめくり、わざとらしく溜息を吐き出した。
「【神様は私達を引き離してどうしようというの? こんなにも深い愛で結ばれた私達を! ああっ、なんという悲劇っ】」
「真顔で読まないでよぉっ」
もう本当に全編そんな感じでキュンキュンより血反吐を吐きそうだというのに。ファウリーは真っ赤になって抗議したが、レイシェンはふっと口元に淡い笑みを浮かべた。
「ファウリーもこんな本を読むようになってたんだね」
遠い目をしないでったら。
ファウリーは気恥ずかしさと苛立ちを覚えながら唇を尖らせ、背負っていた鞄をはずし、寝台の横に放り投げ、自分はどさりと寝台に座って腕を組んだ。
「友達から押しつけられただけだってば。そういうのも読まないと話が合わないでしょ」
「いつの間にファウリーに協調性が……」
からかうように言うレイシェンは肩をすくめて膝の上の本を机に放り出し、ついで椅子から立ち上がるとファウリーの前に立った。
「そうだよね、ファウリーも十六だし」
「なによ」
「好きな人とかいるの?」
何でレイシェンと恋話しないといけないのよ! 十歳年上の男とするような話題ではないだろう。
それでも「好きな人」という単語にふっと――黒髪の青年が浮かび上がり、ファウリーは咄嗟に自分の中で打ち消した。
そう、違う。
これは恋とかでは無い。
ただ、自分と同じ色彩を持つ相手が気に掛かるだけ。
「いないわよ」
相手の言葉にふいっと視線を逸らして頬を赤くするファウリーをじっと見下ろし、レイシェンは眉間に皺を刻みつけて「へーえ」と口にした。
「本当に?」
「いないってばっ」
そむけていた顔を勢いをつけてレイシェンへと向け、だいたい何でレイシェンにそんなこと言わないといけない――と不満をぶつけてやろうとした途端、まるで風がなぞるようにふわりと唇に違和感を覚えた。
「じゃあ、召喚の実習しようか」
「……」
身をすいっとあげて、レイシェンが極自然にそう言う。
ファウリーは灰黒の瞳を大きく見開き、瞬き、混乱した様子でレイシェンを見上げた。
「レイ……?」
「なに?」
「いや、うん――?」
あれ……?
ファウリーは眉を潜めてレイシェンを見上げたが、相手は「どうかした?」という眼差しで問いかけてくるだけだ。
――今、唇が触れた気が……したんだけど。
あれ、気のせい?
いや、うんと、気のせい……よね? あれ?
「どうしたの? 召喚実習しないの?」
何故か冷ややかな微笑を浮かべているレイシェンを見上げながら、ファウリーは引きつったような笑顔でうなずいた。