ウィル・ヒギンズの観察記録7
後悔、とは読んで字のごとく事柄が終わったあとで悔いることだ。
そう、つまり――ナシュリー・ヘイワーズは後悔していた。
生真面目な上官に対して、ほんの少しばかりの同情心が芽生えたのかもしれない。あほんだらな兄に虐げられて育っていたのだ。多少性格がアレなのは仕方ない。
しかし、なんといっても未だ二十代なのだからもう少し人生というものを楽しめばいいと思い、連れ出したのが間違いのもとだった。
「ナシュゥゥ」
居酒屋【アビオンの絶叫】は今日も兵士や騎士でもりあがっていた。騎士達は貸し切りにしてしまうことが多いが、今日はそういうこともなく色々な隊がまぎれている。
ナシュは馴染みの顔を見つけて上官を紹介し、こういった場では階級はあまり気にしてはいけませんと口をすっぱくして説明した。きっとウィル・ヒギンズの耳にはたこが二匹ぶら下がっているに違いない。
士官学校からの友人であるレニィ・インはすでに適当に酒が入っていたが、さすがにウィル・ヒギンズの姿に一瞬萎縮した。一瞬だけだ。だが、ここが酒場だということを思い出したレニィは堅物のウィル・ヒギンズに気安く挨拶し、酒を酌み交わした。
そうこうするうちに周りにいた兵士達数名でわきあいあいと飲んでいたのだが、やはりウィル・ヒギンズはなかなか場に馴染めないようだ。
たかが一日で何かがかわるわけではないだろう。ナシュは上官のフォローをしながらそれでも自分も楽しむ為に酒を飲んでいた。
そして、それは一刻近くもその場の人間に酒が浸透した頃合。こんな場だから猥談も出るし、品の無い単語も吐き出される。そういった雰囲気もウィル・ヒギンズにとって悪いものではないだろうと思っていたが、突然レニィが動いたのだ。
「ナシュゥゥ」
――その両手を突然卑猥にわきわきと動かし、むにりとナシュの胸を下から持ち上げるようにして、揉んだ。
「うぎゃ」
「あああ、この重み。この柔らかさがもぉサイコーっ」
「おぉぉっ、糞っ、女同士は羨ましいぜっ」
げらげらと笑いが沸き起こる中、ナシュは脱力してレニィの頬を引っ張った。
「いやらしい手つきで触らないように」
「いやらしい手つきで触らないと意味がなーい! ふふふふ。よいではないかよいではないかっ」
なんだそれは。
「少佐、少佐だってこの凶悪な武器はちゃんと点検したいですよねぇ」
酔っ払いレニィは突然酒をちびちびと飲んでいたウィルへと流し目を送り、ナシュは卒倒しそうになった。
よくよく見ればウィルの半眼は伏せられ、なんだかよく判らないオーラが漏れている。
ひくりとナシュが引きつると、ウィル・ヒギンズは真顔で言った。
「人の胸をもむな」
――……
「もぉっ、少佐はお堅いんだからぁ」
「いやいや、俺も固いぞ。ナシュリーの柔らかな胸で癒してほ……」
品の無い下ネタで盛り上がっているところ悪いですが、今、人の胸という単語が明らかに――人の胸と聞こえたのですが。
気のせいですか? 気のせいですよね。
ナシュは引きつりつつ、気付いた。
この上官、すでに酒の量が許容量を越えているのではないのか?
そのなんだか据わったような瞳とか、いつもよりだらだらと不機嫌そうに垂れ流している何かとか。
ナシュはがばりと立ち上がり、皮の財布から二人分の酒代をがしりと取り出してテーブルに叩きつけ、ウィルの腕をぐいっと引いた。
「帰りますよ!」
酒の量くらいきちんと把握して飲んでくれ。
おまえはいったい幾つの子供だ!
ナシュは内心で上官をぼろくそに怒鳴っていたが、当然表面上はそんなことを臆面も出さなかった。
「中尉、酒代は――」
「私が誘ったのですから、私がもちます。少佐はお気になさらず」
「そういう訳にはいかない」
腕を掴んだままぼそぼそと言う上官を引っ張る。しかし、相手はムッとしたかのように足に力を込めて立ち止まり、ナシュが押しても引いても動かなくなってしまった。
「少佐っ、ちょっ、動いてください」
「君におごってもらう訳にはいかない」
「――判りました。判りましたから、とりあえず今は」
店を出るぞ、このぼけ上官。
ナシュは相変わらずの無表情で酔っ払っていると思わしき上官を引き立てるようにして無理やり店を出た。
早く帰るぞ酔っ払い!
宿舎へと向かう一本道を示すナシュに、ウィル・ヒギンズははじめのうちこそ引かれるように付いてきたものだが、そのうちにぱったりと足を止め、無表情のままを見下ろした。
「とりあえず今は――」
足を動かせ、このでかぶつ!
ぐいぐいと引っ張ってやろうと振り返れば、酒臭い息が頬を掠める。
左手が腰をさらい、右手がわき腹を抑える。
わき腹に添えられた手がシャツの上をなぞり、胸の脇をかすめた途端、びくりと身をすくませたナシュの耳元で、ウィル・ヒギンズはかすれたような声で囁いた。
「他人にあんな風に触れさせてはいけない」
「いや、あの……あんなの、女同士のじゃれあいじゃ――」
いや、そうじゃないだろう。
自分の胸をどうしようとあんたには関係が無い。ナシュは狼狽し、どう告げればいいのか逡巡してしまった。
一旦体を引き離したウィル・ヒギンズの湖畔の瞳がじっとナシュの瞳を見つめる。
「じゃれあい?」
「そー……です」
低く唸るような言葉と、無表情が怖い。
何よりこんな場面を誰かに見られたくないという思いで辺りを見回し、ナシュはほっとした。
中途半端な刻限が幸い、繁華街から外れて宿舎へと戻る細い道には人の気配が無い。そもそもあの店は王宮から近い場であるし、一般客など滅多にないような繁華街の外れだ。そこから宿舎までの一本道など人通りが少なくて当然――
ほっと息をついたところで大きな手が下から掬いあげるようにそっとナシュの左胸をなぞり上げた。
普段から女友達や、はたまた不埒な男達に幾度も撫でられたり掴まれたりした胸だ。本来であればナシュはそんな時の対処も手馴れたものだというのに、思い切り固まった。
「ではこれもじゃれあいだな」
「ちょっ……少佐っ」
形と柔らかさを確かめるように優しくなぞり、重さを確かめるように持ち上げる。酒の力も手伝ってか、ぞくぞくと背筋を奇妙な漣が這い登り、ナシュは狼狽した。
「酔いすぎです」
「酔ってなどいない」
これだから酔っ払いはっ。
酔っ払いは大抵そう言うんだよ!
「ちょっ、離して下さい」
「何故彼らが良くて私では駄目なんだ」
子供か?
そういう話か?
くそっ、酔っ払いはネジがぶっとんでいるのか?
ナシュは護身術の応用として相手の手首を掴んで身を引く方法を取ろうとしたが、気付くと自分の背中はとんっと壁にぶち当たる。
「もうあんな風に触れさせてはいけない」
さわさわと胸をなぞる感触が甘いうずきにかわりそうな恐怖。
叱責するように淡々と言いながら体でナシュの体を押さえ込み、威圧するように上から言葉を落とし込まれる。
きゅっと胸をつかまれ、軍服という厚い地だというのに的確に胸の中心にある部分を中指と人差し指の間で挟みこまれ小さな痛みに声が漏れた。
「ナシュ? 聞いているね」
な、なにをっ?
相手の力から逃れようと意識が向けられていて言葉など拾い集めている場合ではない。しかし、返答の無いことが相手の不興を買ったのか、ウィル・ヒギンズはナシュの胸を押しつぶすようにつかみ、耳元でもう一度言った。
「返事は?」
「はいっ」
威圧する言葉に慌てて応えれば、ふっとウィル・ヒギンズは吐息を落としてナシュの瞼に唇で触れた。
「いい子だ」
酒臭い息が耳元で柔らかさをもって囁く。
壁に押さえつけられたまま、このままどうなってしまうのかとナシュが焦りをつのらせる頃合に、問題の上官はぎゅっと一層強くナシュを抱きしめた。
***
――ナシュ……
その後、あのでかぶつの無表情淡々口調の上官は、普段は決して吐き出されない、やけに色っぽい艶やかな口調でナシュリーの名を口にし、囁いた。
「気持ち悪い」
思わずペンを持つ手に無駄に力が入り、ナシュは「ふふふふふ」と肩を揺らしながら、折れたペンをゴミ入れの中に放り込んだ。
壁に向かってしゃがみ込み、吐くに吐けない馬鹿上官の口に、ナシュは青筋をたてながら指を突っ込んだ。
腹が立っていればどんなことでもできるものだ。なんて自分は男らしい。どうして男に生れ落ちなかったかと悔やみながら、ナシュは新しいペンの先端を火で炙った。
吐いた後の始末もつけてきっちりと上官を官舎に連れ帰り、寮長に引き渡した自分は本当に立派だ。
立派過ぎて涙がでる。
「あああ、放置すればいいじゃないか、馬鹿ナシュリー!」
気づいたところで後の祭り。せめて今はせこせこと日記でつづり鬱憤を晴らすことしかできないナシュリーだった。