ウィル・ヒギンズの観察記録4
「やぁ、中尉」
道端でばったりと知人に出会った場合――相手も私服、自分も私服であった場合はぺこりと頭を一つ下げて何事もなく通過するのが礼儀だろう。
しかもその相手が見知らぬ女性達といた場合は確実に「触らぬ神に祟りなし」といくべきだ。
ナシュリー・ヘイワーズはその鉄則を理解しているし、ことなかれ主義の平和主義。わざわざ他人の揉め事になど首を突っ込みたくは無い。
だからその時も当然のように一礼してそのまま過ぎ去ろうとしたというのに、相手はふいに手を伸ばしてぐいっと引き寄せた。
「彼女達に言ってもらえないだろうか」
「何をでしょう?」
何するんだべらんめぇっ。という内心は鉄壁の自尊心が隠してくれる。ナシュは自他ともに認める外面大王だった。いや――もしかしたら、自認はしているが他人はそこを理解していないかもしれない。
「私はウィル・ヒギンズであってワイト・ヒギンズではないと。どうも理解してくれなくてね」
淡々と言われる言葉と、そして不快そうに眉を潜めているご婦人方を一瞥してナシュは微笑んだ。
――嘘です。この男はワイト・ヒギンズで正解です。
と言ってはいけない理由は思い当たらなかった。
そもそもナシュとしては相手に対して貸しはあれども借りは無い。
正解者に拍手! と手を打ち鳴らして称賛してやってもいい程だろう。
「いやですね、ワイトさん。そうやって何でもかんでも少佐に押し付けて生きるのは好ましくありませんよ」
当然の如くナシュは極上の微笑みを浮かべ、ついでその場にいるご婦人方に人当たりの良い微笑を向けた。
「ワイトさんは時々ふざけるだけですからお気になさらず。では、私は失礼――」
「ナシュ。なんて君は意地悪なんだ」
ワイトはぎゅっとナシュの二の腕を掴むと、彼女の体を囲い込むように引き寄せ自らの前に引き出すと耳の後ろを唇で軽く吸い上げた。
「私が他の女性といることに妬いているんだね。私が愛しているのは君だけだよ、可愛いナシュリー」
その後ナシュは笑顔を張り付かせたまま左手肘を後ろにぐっと埋め込み、相手の腹を一撃した後浮いた腕を強く引いて背後から捻り上げ、ついでに足を払おうかと思ったのだが、さすがに過剰防衛かもしれないとそこは許した。以前投げ上げた挙句に腹部に爪先をめり込ませた相手がいたが、あれは酔っ払いの上、ナシュの胸を無遠慮に鷲づかみにした為に遠慮も憐憫も一切かけなかった。今回はさすがにそこまでしたら非道が過ぎよう。
「忙しくしておりますので失礼致します」
ナシュは笑顔のままその場にいた女性――完全に言葉を失って卒倒しそうになっていた女性達に一礼し、呻いている上官の兄をその場に放置して足音も高く退散した。どうやらワイト・ヒギンズは弟と違い鍛えられていないらしい。
ウィル・ヒギンズであればあの程度で怯むことはないだろう。少なくとも自らの上官として応戦できるだけの基礎は備えていて欲しいものだ。
ナシュはすたすたと歩きながら持っていた荷物を抱えなおした。この時は自らがしたことが面倒を引き起こすなど少しも考えてなどいなかったのだ。
***
「中尉」
人事部から戻ったウィル・ヒギンズが静かにナシュへと視線を向け、視線がかち合うとすすすっとその視線を心持ち下げた。
「人事移動届けが出ているというが」
ナシュは普段と変わらぬ笑みを浮かべていたが、危うく舌打ちしてしまいそうになった。
顔見知りの人事部長を内心でののしりつつ「自分の可能性を試してみたいと思いまして。不都合がありましたでしょうか」とあたりさわりのない模範解答を口にした。
決して、面倒くさい上官はイヤだなどと言ってはいけない。
「……兄が迷惑を掛けているのではないだろうか」
「ええまったく」
――その通り。
だが当然そんなことを口にするナシュではないのだった。
「勿論、君がどの部署を望むかは自由だ。私がとやかくいうべき事柄でないことは承知している」
ではとやかく言うな。
「君は優秀な補佐官だ。できればこのまま私付きのままでいて欲しい。それとも、私に何か落ち度があるだろうか――いや、厄介であることは承知しているが」
淡々と言われる言葉に、ナシュはだんだん自分が何か悪いことをしているような罪悪感に囚われ始めた。
面前にいるのは体躯のいいオッサンだというのに、何故そんなにも見事に捨てられた子犬臭を撒き散らすことができるのか。
しかも、人の胸を見つめながら。
ナシュは一旦天井を仰ぎ見て「できれば視線を合わせていただけるとよいのですが」と嘆息交じりに口にした。いい加減そこに顔は無いと怒鳴りちらしてしまいたいが、面前のウィル・ヒギンズはぴくんっと反応し、ついでおそるおそるというように視線を上げた。
視線がかちんと重なり合うと、よしよしという満足感がたちのぼりナシュはにっこりと微笑んで「では――」と話の続きをしようとしたのだが、次の瞬間に言葉は凍りついた。
ウィル・ヒギンズは基本的に無表情な生き物で、隊内でもその生真面目さゆえに誰もが彼を前に口を噤む。
現在のウィル・ヒギンズは確かに無表情だった。
ただし、顔が赤い。
赤らんだ顔を必死にどうにかしようとしているのかその手は無意味に緩く握ったり解いたりを繰り返している。
視線を逸らしたい様子だが、先ほどナシュが言ってしまった言葉を必死に実践する為にウィル・ヒギンズは息をつめて食い入るようにナシュを見ているのだ。
「……」
ナシュは思わず犬に命じるように「休め」と言ってしまいたくなった。
だがしかし現状は何故か上官と視線を合わせたまま、まるきりハブとマングース――蛇に睨まれた蛙状態。
食うか食われるかの凶悪な緊張で、視線をはずせば殺されると本気で恐ろしいものが腹部に蓄積されていく。
「ナシュ」
どれほどそうしていたものか、相手からやっと搾り出された言葉に、ほんの少しの緊張が解けて背筋に汗が伝い落ちた。
「君には私専任でいて欲しい」
おそらく、この時に何を頼まれたところでナシュは「はい」と応えていただろう。謎の恐慌状態を脱することができるのであれば、はいつくばってその靴先に口付けをしろという屈辱にも耐えた。
ナシュは上官の言葉にぶんぶんと顔を上下に振って「了承いたしました」と口にし、軍属らしく長靴の踵を打ち鳴らしてぶるんっと身を反転させた。
「ナシュっ」
やっと後ろを向けたと思ったら、今度は乱暴に二の腕を掴まれてしまった。
完全に混乱していたナシュは、泣きそうな自分を叱責しながら「なにか?」とたたらをふんで足を止めた。
捕まれていなければ無様にもすっころんでいたかもしれない。
「……昨日の休暇は楽しめただろうか」
「昨日――」
子供のように相手の言葉を反芻し、ナシュは途端にワイト・ヒギンズのことを思い出した。
腹立たしさと共に本来の自分を取り戻す。
「言っておきますが、ワイトさんが怪我をしたのは自業自得だと思いますので私が苦情を受けるのは間違っていると思います」
弟に頼りきって生きているあの男のことだ、まさか「おまえの部下に酷い目にあった」と苦情を向けたのではあるまいか。そう思えば更に腹立たしさも増してくる。
――ワイト・ヒギンズ。今度ばったりあったらもっと虐める。ネチネチと。
ナシュの言葉に顔色を取り戻したウィル・ヒギンズはすっとナシュの首筋を一度なぞり、しばらく無言でナシュの腕を引き寄せた。
「兄は気に入ったものに時折意地の悪いことをする。君に悪さをしないといいが」
唇が首筋を吸いあげ、その意味するところに気付いたナシュは唖然とした。
そこに、跡があったのだ。鬱血した跡が。
キスマークをつけて歩いていた!
そのばかばかしさに血の気が引いたナシュは、同じことをした上官に対してワイトと同じように攻撃を仕掛けることもできない程動揺し、あわてて身を引き離した。
「失礼致しましたっ」
くそぉっ、指摘するならどうしてもっと穏便な方法を使わない!
ナシュは大慌てで医務室に駆け込み、わざわざ湿布薬を塗布して包帯で巻き、挙句いつもは結い上げている髪を解いて軍帽をのせた。
「あー肩こりかぁ。巨乳はつらいなー」
「生憎と付き合いが長い為、肩がこるかどうかという意味さえ判りませんよ」
ニヤニヤ笑う軍医を睨みつけ、ナシュはこの日の日記に――死ね、ワイト! と幾度も書き連ねることを誓った。
いいや、それを指摘する為だけに同じ場所に触れるウィル・ヒギンズも大概だ!
しっかり記録していつかセクハラで訴えてやる。