ウィル・ヒギンズの観察記録3
8月――
残念なことに気付いてしまった。
ナシュは毎日つけているウィル・ヒギンズ及びその双子の片割れであるワイト・ヒギンズの観察記録をつけながらつきつきと痛む額を押さえた。
脳タリンはワイトではなく、ウィルかもしれない。
今までちらとも気付かなかったくらい、ワイト・ヒギンズはほぼ完璧にウィル・ヒギンズになりすましていた。話によると、子供の頃から入れ替わったりして遊んでいたということで、自信もあるのだという――下らぬ自信だ。
ワイトがウィルと入れ替わるのは、ワイトには不向きな仕事をウィルが補う為だと言っていたのだが、ワイトが脳タリンというのはおそらく違う。ワイトは手元にある資料とウィルの進言に基づきその日の仕事を真面目にこなしていくし、必要があれば全て記録をとってウィルに残すというそつのない様子を見せる。
ではいったいウィルは何をしているのだろうか。
ナシュは好奇心に負け、珈琲を用意しながら尋ねてみた。
「少佐」
便宜上ワイトを相手にしている時もナシュは階級で呼ぶようにしている。
「少佐、今日はどういう仕事でこちらにいらしているのです?」
――何から逃げ出した?
声を潜めてナシュが尋ねると、ほぼ無表情で黙々と仕事をしていたワイトは面白そうに視線をあげ、口の端に笑みを浮かべてナシュの手から珈琲を受け取った。
「私は対人関係が苦手でね」
「対人関係?」
「ああ。ご婦人とか、年頃の娘を持っている男とかね――まったく懲りることもなく娘を連れて訪れるものもいる」
「……」
「そんな時はアレは便利だ。鉄壁の守りという訳だな」
じっと珈琲の香りを吸い込み、ソーサーの横に置かれている砂糖を一つ一つ珈琲の中に落とし込んでいく。
昆虫並みの甘党ワイトは、きっちり四つの角砂糖を落とし、どろりとした砂糖をティースプーンをつかんでかき混ぜた。
「……つまり、見合いがイヤで弟に押し付けている訳ですか」
「アレは見合いなどと思ってやいないよ。仕事だと思ってやっている」
――ひどい。
ナシュは内心で引きつり、ついでとばかりに思っていたことを口にした。
「弟を騙している訳ですね」
「そんなことはしない。苦手分野を補うのは昔からの私達の決め事だ」
「決め事?」
甘い珈琲をゆっくりと飲み、ワイトは一旦伏せた瞼をゆっくりと押し上げた。
「私はね、子供の頃から賢い弟に比べて――と大人に言われてきた訳だ」
同じ顔なものだから、その比較は普通のそれよりしやすく、そしてきついものだった。とほんの少し落ちたトーンは物悲しさを滲ませるようだった。
ナシュはその言葉を静かに耳にいれた。
ナシュにも姉という存在がいる。彼女がいるからこそ軍属の道を進めたのだが、もとをただせば彼女と同じ道をすすみたくないというひねくれた思いもある。ナシュ自身、姉とは比べられて育ったのだ。
小さな痛みのようなものが、胸に突き刺さり面前の男の悲哀が――
「だからアレには常々言い聞かせたものだ」
ふっと、ワイトは口の端に笑みを浮かべた。
「私が母の腹に落としてきた『賢さ』をおまえは拾い上げて産まれたのだから、おまえの『賢さ』は私の為に使われるべきだと」
自信たっぷりに言われた言葉をこねくりまわす間もなく、ナシュはおそるおそる問いかけた。
「少佐は――ウィル様は……」
「人間というものは長く言われ続けると、どんな事柄も納得するものだよ、中尉」
馬鹿だ。
ウィル・ヒギンズの愚か者。
ナシュは自分の上官のよく言えば素直な、悪く言えば単純な性格に涙がこぼれそうになった。
その日の記録の最後、ナシュは溜息をつきつきペンを走らせた。
――馬鹿ばっか。
***
ああ、今日はWA――ウィル・ヒギンズだ。
ナシュはウィルをA、ワイトをBと表記するようになった。そして最近気付いたことは、Bのほうが人間味があり、会話はしやすい。
何より、Bのほうが人間として好ましい。
少なくとも、Bは人と話をする時に視線を合わせて会話をする。
「昨日はすまなかった」
無表情のウィル・ヒギンズは半眼を伏せて言葉にした。
「あの人は君に迷惑を掛けなかっただろうか」
――あの人が迷惑を掛けているのは誰でないあんたにだけだ。
ナシュは穏やかな微笑を湛えて「問題はありません」と応えた。応えつつも激しく気になって仕方ないのだが、何故ウィル・ヒギンズは心持ち視線を下げて会話をするのだろうかということだ。そこはどう考えても胸ではなかろうか。女性の胸を凝視しながら言葉を発するのは激しくぶしつけではあるまいか。それとも、おまえには何も見えていないのか。
いや、見えていないのではなく何も考えていないのか。
「ワイトさんは」
何か話題を探そうと思わずそう口にしたのだが、ウィル・ヒギンズは息を詰めた。眼光が鋭くなった感じもする。
それに気付いたナシュは何か地雷を踏んだかと慌てた。ここで彼の兄の話題は厳禁であったか。
「兄が何かしたのか?」
「いえ――あの方はいつも通り仕事を処理しておいででした」
問題はまったくないと報告したつもりだが、しかしウィル・ヒギンズはその後普段にもまして不機嫌そうに黙々と寡黙に仕事をすすめた。
それに合わせてナシュも仕事を処理していったのだが、どう考えても本日のウィル・ヒギンズの機嫌は最悪だ。何より雄弁に語るのが四六時中はりついている眉間の皺だった。
あんなに眉間に力を込めていて頭が痛くならないのだろうか。ナシュがあきれ果てていると、普段はあまり無駄口を叩かない上官はふいに口を開いた。
「中尉」
「はい、何か」
喉でも渇きましたか?
必要書類にサインをしていたナシュは視線をあげて背筋を伸ばした。
「君は兄を名で呼ぶのか」
そこかよ。
ナシュは激しく脱力した。ナシュも軍属という身で長く生きている。十二歳の頃に士官学校に入隊し、女性隊士よりも断然多い男達の中で生きていたのだ。男が自分に向ける視線の意味に気付けない程馬鹿でいられる訳がない。そんなことに無頓着でいれば、今頃もっと出世している――悪い意味で。
だからこそ、最近この上官がもしかして自分に好意を抱いているのではないかと危惧しているのだが……いや、ただの無礼者か。
「ワイトさんは軍人ではありませんので、階級で呼ぶことはできません」
「――そうだな」
「勿論、仕事中であれば少佐と呼ばせていただいていますが」
今は面前に少佐もいますし、この場合「ワイトさん」と呼ぶことは不自然なことではないはずだ。
丁寧に説明すれば、ウィル・ヒギンズは押し黙った。
「では、私がいない時に君は私のことをどう呼ぶのだ」
まだ続けるのかこの不毛な会話。
うんざりとしながらナシュは眉を潜めて自分がワイトにウィルのことをどう呼んだかと思い返した。
ワイトはウィルのことをアレと言う。では自分はそういった会話の中でこの面前の上官のことをどう現したかといえば――
「ウィル様、と申し上げましたが問題でしたでしょうか」
記憶を手繰り寄せて言えば、無表情の上官はやっぱり無表情でナシュの胸元を見つめてしばらく無言だったが、やがてゆっくりとした口調で「問題はない」と告げた。
その後やたらと機嫌が良かった気がするが――ウィル・ヒギンズは無表情なので気のせいかもしれない。