ウィル・ヒギンズの観察記録2
――そしてこれは、呪いだろうか。
ナシュは気付けば温かく大きな手が自分の頭を撫でている現状で目を覚ます羽目に陥った。
生来の冷静さを総動員し、叫ぶことも体を跳ね上げることもしなくてすんだことはまさに僥倖。だが、ぶつぶつと落とされる言葉は激しく恐ろしい呪いの呪文だった。
「すまない、すまなかった。私が悪い――もっと気をかけてやれば、いいや、きちんとこんなことは断れば良かった」
……ぼそぼそと落とされる音は、恐怖いがいのなにものでもない。
きちんと覚醒していることを示すべきか。いいや、起きていると知れればもっと恐ろしいことになるやもしれぬ。
ナシュは自らの気配を気取られぬように膝頭に額を押し付けてだらだらと流れる汗と、口の中に無意味に溜まる唾液をどう処理すべきかと苦悩した。
「それとも――君にとって私はどうでもいい男なのか」
え、なにこれ怖い。
貞操の危機とかいうのか、もしかして。
まて、ちょっとまて。何がどうしてそうなる? ナシュは昼間の突発的な求婚を思い出し、まさかあれは本気だったのかと腹部が冷える思いがした。
「もっと早い段階で突っぱねていれば、君が傷つくこともなかったろうに」
いやいやいや、今、今ならまだ間に合います。
傷ついてないです。あんなスラングどうってことは無い。ケXからX突っ込んで、内臓XXXP――とか、そんな品性下劣な暴言ならこの耳はたこ踊りができそうなくらい聞いてます。鼻先で笑いながら下品な応酬してあげればよかったですか? 頼みますからおかしな責任とか感じないで下さい。
なんならもっと下らない酒場歌をハイ・ソプラノでご披露してもいい。酔っ払った兵士達が品性下劣に披露する歌の一つや二つ、歌って進ぜましょうとも。
ナシュは卒倒寸前に陥った。
「責任はとろう」
どんな責任だ、このドアホウ。
さすがに耐え切れなくなったナシュはばしりと相手の手を払い落とし、引きつった表情をがばりと向けて、もつれる舌で声を張り上げた。
「こ、交代の時間ですか!」
「――中尉、いや……ナシュリー、ナシュ。我々はきちんと話し合ったほうがいいと思う」
何故突然名前で呼ぶ。
全身に広がる鳥肌に、ナシュは近くにある自らの細剣をがしりとつかみ、ぐっと立ち上がった。
「少し見回って参ります」
「ナシュ、私の誠意が足りないことは理解している。だが、だからといって逃げていては何も解決はしない」
「私と貴方の間で解決すべき問題など何一つありません」
今日もにこにこ明朗会計!
「君が私に対して憤りを覚えることはもっともだ。だが、私はこういう問題を無視してはいけないと思う」
「あんなことでいちいち責任を感じていたら、軍人などやっていられませんよ! 私の職場は男ばかりが多い軍隊なのですよ」
どれだけ下らぬ言葉をこの耳にいれて生きてきたと思う。
おそらく、上級仕官であるウィル・ヒギンズよりもずっと数多くの猥談を耳に入れてきたし、下らぬ喧嘩で吐き出されるスラングをにやにやしながら聞いてきたのだ。
「いちいち結婚などと言っていたら、今頃私は二十人以上の男と結婚する羽目になる」
だから気にしてくれるなと思いを込めて怒鳴り、怒鳴ったことに対して冷静さを取り戻した。
上官相手だと思いだし、決まり悪く咳払いをし、
「いいですか?」
「――」
理解してくれましたね?
そう確認するように声を潜めたが、面前の上官は蒼白になっていた。
「なんということだ」
……信じがたいと首を振り、
「軍務は君には向かない。もう止めるんだ」
ナシュは気を失いそうになった。
どう考えても、この上官と自分とを比べてどちらが軍隊向きかと問われれば自分のほうが軍務には向いている。人間関係しかり、根回ししかり。こんな場所は真面目ばかりで生きていく場ではない。
「いや、だが……おかしい。君はし――」
ふっとウィル・ヒギンズは言葉を濁し視線を伏せた。
「処女だったではないか」
……セクハラで訴えるぞ、この糞馬鹿野郎。
しかも何故過去形。
「ふざけるのもたいがいにして下さいよ! 私は正真正銘現在進行形で処女ですよっ」
「――いや、話が見えない」
ウィル・ヒギンズは呆然と呟き、ナシュは指を突きつけた。
「私の処女性が問題でしょうか!」
張り倒していいですか。
ナシュは震える声で問いかけた。
「問題だ。つまり、私は――いや、私と思い込み、君はワイトに手……」
苦痛に呻くように、ウィル・ヒギンズは言った。
「手篭めにされたのだろう?」
テゴメ……手捏ねハンバーグは美味しいですよね。私も大好きです。粗挽き肉にたっぷりと胡椒を利かせて――
「てごめ……」
いや、ハンバーグじゃないだろう。
「君にとっては寝耳に水だろう。こんなことを言えば頭がおかしいといわれるかもしれない。責任逃れの嘘と思えるかもしれない。だが、君に無体を働いたのは私ではない。私の双子の兄のワイトだ。恥ずかしい話だが、本来であればあれが一人で領地の管理をしなければいけないのだというのに、あれには苦手分野があり時折り入れ替わって私が処理をしていたんだ。上官は知っているが、君にもきちんと言っておくべきだった。まさかあれが君に無体なまねをするとは思っていなかった」
「……」
「確かにワイトは突然週末の約束の日付をずらされて不機嫌だった。だが、だからといって君に手を出すなんて。くそっ。帰ったらやつをぼこぼこにすると約束しよう」
ナシュは体中の力がへたりと抜けるのを感じた。
あっさりと告げられた言葉の軽さ――いや、重いのだが、そのあっけなさになきそうになったのだ。
この半年の間、この上官は病なのかと思っていたが、フタを開いてみれば――双子。別人であればそれは確かに嗜好も違かろう。
というかなんたる適当な。それでいいのか、軍務。
「本来であればワイトが責任をとるべきだろう。だが――ナシュ。君は私だと思って抱かれたはずだ。事実はどうあれ、君にとって処女を捧げた男は私だ。ワイトとのことは全て忘れさせると約束しよう。酷い悪夢など忘れて私に身をゆだねて欲しい」
口の端に笑みを浮かべていた男が面前の男でないということを鈍い思考回路で整理していたナシュは、舌がしびれるような気持ちでゆっくりと問いかけた。
「封書の中身は何と」
「……君にとって気分の良い文言ではない」
「言って下さい。一言一句違えずに」
短時間でざっと目を通していたことを考えれば、長い文面では無かった筈だ。
真実いいにくそうに、ウィル・ヒギンズは視線を伏せてゆっくりと口を開いた。
「ナシュちゃんの処女はいただいた。むっちりおっぱいご馳走様」
力いっぱい面前の男の頬を張り飛ばし、ナシュは引きつった笑いを浮かべた。
「遊ばれてるだけですよ、馬鹿ですかっ」
「女性との関係を遊びだなどと、そんなことは許されない。ナシュ」
「違う! あんたが遊ばれてるんだっ」
このボケナス。
話が通じないっ。
誰が誰に処女を捧げたって?
もう上官もへったくれもなく、ナシュは奥歯をぎしりときしませて怒りの眼差しを突きつけた。
「その手紙が嘘なんです。私は誰ともそんな関係になったことは無い。判りましたか!」
「……そうなのか?」
「そうですっ」
ぜーぜーっと肩を上下させて言うと、やっと自分の気持ちも多少は静まった。
ナシュは乱れた前髪をかきあげ、ぶるりと首を振った。
面前の上官はナシュの頭からゆっくりと視線を下げ、足元までを確認し、またゆっくりと視線をあげて胸元で視線を留めると小さく息をついた。
「良かった――いや、すまない。おかしな話をしてしまった」
「もういいです」
「そうか。君は処女なんだな。良かった」
安堵しているのかどうか知らないが、何故胸元を見ながら無表情で言うのか。
そんなところに顔はない。
しかも処女処女うるさい。悪かったな。
「そうか、良かった」
ナシュは引きつりつつ、自然と一歩下がった。
「見張りを交代します。どうぞお休み下さい」
「すまない。頼もう。今日は何故か疲れた気がする」
ナシュは口元が無駄に引きつるのを感じながら、こっちの台詞だ馬鹿と脳内で幾度も書き上げた。
ウィル・ヒギンズは先ほどのナシュと同じように焚き火の近くで片膝をたてるようにしてすわり、毛布を肩に掛けて寝入ろうと動き、ふと思い出すように視線をあげた。
「ナ――中尉」
「なんですか」
「……今回の件は忘れてくれるだろうか」
「明け方までには」
「それと、兄のことも」
「他言はしません」
半年悩んだ自分が可哀想だ。なんと下らない結末か。
「すまない。これからも時折り入れ替わるだろうが――その時は君には言うようにする。君には迷惑を掛ける」
掛けた、ではなく掛けるときた。
ナシュは深く嘆息し、軽く手を払った。
「結構です。言われずともおそらく見分けがつきますから」
ウィル・ヒギンズは目を見張ったがやがてゆっくりと規則正しい寝息をたてはじめた。
***
「おはよう、中尉」
ナシュはその日の日記の書き出しに、WBと記載することを心に留めた。つまりそれはワイト・ヒギンズのことを示す。好みの飲み物は珈琲、角砂糖は四つ。
正体の知られたワイト・ヒギンズは弟の仮面を半分だけ引っ掛けた状態で、肩をすくめた。
「君だけだよ、私達が見分けられるのは」
「言われたから判るだけです」
「いいや、君はわかっていた。私の時には的確に珈琲と砂糖を四つ用意していた。ウィルは甘いものは苦手だからね。砂糖四つなんて睨まれる。だから、少し遊んでみたんだ」
死ねぼんくら。
ナシュは自分の仕事をこなしながら、本日の記録の内容を脳内でこねくりまわした。
弟に頼らずばならない脳タリンのワイトは今日も子供も逃げ出す極甘珈琲を口の端だけを笑みの形にして飲んでいる。
――没落しろ、ヒギンズ家。
双子の入れ替わりに苦悩する補佐官、というシュチュが浮かんだ為の突発短編です。
本来はもうちょっと色っぽい感じに仕上げたかったのですが……ねぇ?