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ウィル・ヒギンズの観察記録

 七月二日、火曜日――

そう書き出し、ナシュリー・ヘイワーズは肺を一杯に膨らませ、ついで一息に押し出した。

日記というかこれはある一人の男の観察記録に他ならない。

 相手の名はウィル・ヒギンズ――そのへんによくありそうな名前の現状二十六歳の青年将校だ。階級で言えば少佐、そしてナシュはそのヒギンズの補佐官という立場だった。



さて、問題はウィル・ヒギンズのことだ。

ウィル・ヒギンズは黒髪に湖畔の色の瞳を持っている。あまり見ない組み合わせだ。特徴的といってもいい。そして、彼の特徴の一つに、物忘れがある。この男は昨日起こったことも忘れる――かと思えば、一年前のことを突然的確に指摘したりするのだ。

「年寄りというものは近くのものは見えなくとも、遠くのものが見えたりするものだ」

 などと言葉にした挙句、口の端に笑みを浮かべてみせる。

普段はまったく不機嫌が服を着て歩いているような男だというのに、時々そんな冗談まがいのことを口にするものだから、どうにもそのひととなりがつかめない。


 はじめて補佐官という職種についたおり、ナシュも相手のことを細部まで知り尽くし、その動き一つで相手の全てを理解できる有能な補佐官になろうと誓った。

 その観察記録もすでに半年以上続いている。その文面を読み返せば、ウィル・ヒギンズという男が真面目な男であり、また上層部に覚えもめでたいということもよく判る。

 ただし、半年以上彼の下で働いていてもはっきりとその生態が理解できない。生真面目な顔をしていたかと思えば、その表情のままおかしなことを言う。自らの副官を笑わせようと思ったのかもしれないが、もしかしたらただの独り言かもしれない。

 さて、昨日のウィル・ヒギンズは黙々と仕事をこなす勤勉さを見せた。新しく西側に作られる砦の警護系統を構築する為に、他砦の現状報告書に目を通し幾つかの要点を纏め上げて他砦への訪問日時を決めていく。

 ナシュは補佐官として資料を集める為に奔走し、紅茶を入れ、意見を求められれば口を開いた。

「一度北東砦に出向かねばならない」

「日程を組むのでしたら、今週末が良いと思います。再来週に入れば合同訓練の準備が入りますから」

 言わずとも良いことだが、一応そのようにナシュが告げたのだが、ウィルは机の上に両肘をつけて指を組み、中指と人差し指をわずかに動かしながら眉間に皺を刻みこんだ。

「日が悪い」


 この上官は女のように占いでもするのだろうか。

新聞のコラムにでも「今週末は旅行は厳禁。駄目、駄目、だーめ」とか?

生憎とナシュは占いなど見ないようにしている。信じていないからではなく、そんなもので容易く自らの心が浮き立つことがイヤなのだ。もし「今日は最高。この日に告白すればどんな異性もあなたにメーロメロ」などと書かれていたら、一日阿呆な考えに囚われてしまうかもしれない。

 ただし、生憎と恋煩う相手は今のところいない。いないので「損した」と思って一日沈むことだろう。

 なんの根拠もない「損」の為に。


 さて、ウィル・ヒギンズは鎮痛な様子でカレンダーを見ていた。

まるで睨みつけていれば日が良くなるとでもいうかのようだ。その根暗とも言うべき性格に合わず明るい湖畔の色合いの瞳はたっぷり二分ほどはその数字を睨みつけ、ついで観念したように、

「中尉」

と、ナシュを呼んだ。

「君は、どうするつもりだ」

その問いかけの意味がつかめなかった。


 何故ならナシュはこの男の補佐官なのだ。どうするも何もない。ウィル・ヒギンズの日が悪かろうが何だろうが関係がない。

「当然お供させて頂きますが」

「――判った。努力しよう」


 どんな努力が必要であるのかナシュは突っ込みたい心境だったが、その時にできる筈がない。

 だからこそ、この記録でナシュは刺々しく言葉を連ねた。


努力って何?

努力すれば日が良くなるのか? どんなだよ。


 とりあえず文字の中とは言え、さすがにナシュは士官学校で覚えた低俗なスラングは入れずにおいた。この記録はそういったことを記録するものでは無い。まったく理解できない上官を理解しようという純粋な職業的観察だ。


***


 ナシュは翌日、ウィル・ヒギンズの記録を書き込む為にノートを開き、昨日より深い溜息を吐き出した。

 今日のウィル・ヒギンズは不機嫌だった。

半眼に伏せた瞳で、仕事をこなしていながら時々「死ね」「くたばれ」「ふざけるな」とぼそりと言うのだ。

 基本的にウィル・ヒギンズという男は寡黙で実直。生真面目な男だ。

ナシュはそんな相手の補佐官に任命された時は喜びと共に「うわ、なんか面倒くさい」と正直思った。私生活に関わるような付き合いをしなければならない上官も面倒臭いが、四角四面に仕事に向かう人間も付き合っていくうえで気苦労があるものだ。勿論、やたら女性部下をからかうような上官などもってのほかだが。


「少佐?」

 おそらく言葉を落としていることに気付いていないのではないかとナシュはおそるおそる声を掛けた。すると、ウィル・ヒギンズは手をとめ、一旦息を吸い込むと普段の彼に戻った様子で顔をあげ、しばらくナシュをひたりと見つめてゆっくりと息をついた。

「何だ、中尉」

「いえ――珈琲をお入れしましょうか?」

「そうしてくれ」

 即答で言いながら、ふっとウィル・ヒギンズは眉間に皺を刻みつけた。しばらくの間そうしていたかと思えば、考えをはじくように軽く首をふる。

いったい何が気に触ったのか判らなかったが、何よりも相手の気持ちが理解しがたいのだからすでにナシュは色々と諦めていた。

 相手と自分の間には性別の違いしかないような気がするが、相手はおそらく妖精の取替え子であろう。意思の疎通を図るのも困難なのだから、諦めはむしろ必定だ。

「中尉」

「なんでしょう」

 ウィル・ヒギンズは珈琲の香りを楽しんだのち、角砂糖を四つどばどばと落とし込んで銀色のティ・スプーンでかき回した。

「明後日、私に言って欲しい言葉があるんだが」

「明後日、ですか?」

「私は知っての通り、物忘れが激しい。明日ならともかく明後日には忘れてしまいそうだ」

 そう口にするウィル・ヒギンズはどこか冷ややかで自嘲的だった。

確かに、自らの欠点を口にするのはとても矜持が許せないことだろう。そう思い、ナシュは神妙な表情を作り、決して相手の心を傷つけたりしないように柔らかさを重視して微笑んだ。


「判りました。明後日の朝で宜しいですね」

「ああ。ありがたい」

 そう口にしたウィル・ヒギンズは口の端に笑みを浮かべて力強くうなずいた。


ナシュはその時のことを思い出しながら、日記にもきちんと相手の言葉を書き記した。

 翌日のウィル・ヒギンズは機嫌が良かった。

いつもと変わらず仕事に励み、そつなく一日を過ごす。そして帰宅する時に上着に手をかけ、ふいにその眼差しをナシュへと向けた。


「中尉」

「はい、なんでしょうか」

「明日から出張になる。迷惑もかけるだろうが、よろしく頼むよ。先に謝っておく」

 口の端に笑みを浮かべ、ヒギンズは軍帽に軽く触れて角度を直した。

その眼差しが、どこか面白がるような色を見せた気がしたがナシュはいつも通りにさらりと流した。


***


 さて、翌日――数日分の下着と替えの軍装を鞄に詰めてウィル・ヒギンズの執務室へと赴けば、すでにウィル・ヒギンズは必要な書類を点検している段階であった。

上官より遅れたことを恥じたナシュは、顔をしかめてしまわないように気をつけながら敬礼し、自らの遅れを詫びた。

「いや、君に落ち度は無い。そんなことを気に掛けるな」

 言いながら書類に視線を落としている相手に、ナシュはほっとしながら思い出した。

数日前に頼まれていた伝言だ。

「少佐」

「なんだ」

「三番目の引き出しの封書をお忘れになりませんように」

 その言葉に、言われたウィル・ヒギンズは怪訝そうに眉を潜めた。


忘れてるよ、本当に。


 半ば呆れながら、だがナシュは勿論そんなことをおくびにも出さなかった。

ウィル・ヒギンズは「わかった」と小さく答えると、書類をぱさりと机におき、引き出しの三つ目に入れられている封書を引き出し、ついで中身を確認するようにするりと取り出した。

 ざっと視線が紙面を走る。

その次の瞬間、ウィル・ヒギンズは一瞬硬直し息を止め、ついでぐしゃりとその紙を丸めた。

「少佐っ」

 持って行く書類ではないのかと慌てたナシュが声を荒げると、ウィル・ヒギンズは誰かを絞め殺しそうな表情で「くたばれっ」という意味合いの酷いスラングを吐き捨てた。それはよく酔っ払った海軍の人間が陸軍の人間をののしる時に使われるような到底文字にするのもはばかられるような単語だ。

 そしてその次の瞬間には、ひどく真面目な様子で頭を下げたのだ。


「すまない」

「あ、いや……え?」

 確かにあまりにも程度の低い言葉を耳にすることとなったが、だからといって上官に真摯に謝意を向けられる程のことでもない。

「君には本当にすまないことをした。謝ってすむことではないが、だが」

「あの、少佐?」

「ああ、本当にどうすれば……そうだ。それがいい。結婚してくれ」


――何ですか、とつぜん。

あんたとうとう頭煮えたか?


 ぎょっとしたナシュはあまりのことにざっと身を引いた。

程度の低い単語を聞かせた程度で結婚を申し込まないといけない事態に陥るとはどういうことだろうか。

 それとも真面目すぎる男というのは、思考が斜めどころかアクロバティックに動くのか。

どちらにしろ、ナシュは上官にするのもイマイチな男を夫にするつもりなどあるわけがない。

「この程度のことで結婚など考えられません。辞退致します」

「君にとってはどうということはないことだというのか」

「当たり前です」

 吐き捨てるように言えば、目を見張りウィル・ヒギンズは奥歯をかみ締めた。まるでナシュが平手打ちでもしたかのようだ。

 しばらく首でも絞めそうな視線を向けられたナシュは慄いて一歩引き下がり、ウィル・ヒギンズは無理やり体を引き剥がすように向きを変えた。


「荷物の準備を」

「はいっ」

 やっと結婚云々などという戯言を忘れてくれたかと安堵し、ナシュは敬礼したがウィル・ヒギンズの瞳はどこか暗いものだった。


 その日のウィル・ヒギンズは最悪だった。

昼近くまで馬を進め、中継地点で馬を交換し、更に先に進む。ナシュのことを気遣うそぶりを見せるのだが、それを自ら振り払うように更に馬の速度をあげようとする。補佐官という立場であるナシュは唯々諾々と相手の行動に従うが、さすがに夕刻間近にぶちりと切れた。

「馬を潰すおつもりですか」

 本来であれば目的の場所までは馬を幾度も交換し、三日掛かる。それを二日で行く勢いだ。

すでに本来であれば今夜の寝床として予定していた中継地点を越えている。


 どこで泊まるつもりだ。

朝まで馬を走らせるつもりか、この男は。

「すまない」

 言われた意味が理解できたのか、ばつの悪い顔をする。

 下弦の細い月があがるなか、舗装らしき舗装もされていない道を行くのは困難だ。

ナシュは胡散臭いものを見る視線で上官を見ると、首を振って馬の首を叩いた。

「川が近い筈です。今日はそこで野宿としましょう」

「それは駄目だ」

「これ以上移動したところで馬も人間も疲労するだけです。ご理解下さるかと思いますが」

 刺々しさを含めて言えば、ウィル・ヒギンズは忌々しそうに顔をしかめたがうなずいた。


 ナシュはウィル・ヒギンズについてある疑惑を持っている。

それはつまり――多重人格と呼ばれるものではないのだろうか、というものだ。あからさまに違う気はしないのだが、ウィル・ヒギンズはわずかながら嗜好の違いをみせることがある。珈琲と紅茶、食堂で出される食事にしても、よくよく観察すればグリーンピースを残す時と残さないことがある。口の端に笑みを浮かべる時と、ただ黙々と仕事を続けるとき。

 その二面性を突き止めようと記録をつけはじめたのだが、半年たった今も謎は謎のままだった。

森の入り口に手早く火をたき、持っていた携帯食料で味気の無い食事を済ませる。水で腹を下さぬようにと持参した紅茶を飲んで一心地をつけ、馬の背に乗せていた薄い毛布を体に巻くようにして火から遠くない場で就寝の準備を進める。

 ウィル・ヒギンズは不機嫌そうにむっつりと押し黙っていたが、手渡された砂糖なしの紅茶を無言で飲み干した。

「まずは私が起きています」

 夜盗や獣が出ないとは言えず、ナシュは提案したがウィル・ヒギンズはかぶりを振った。

「いいから君は寝なさい」

「いいえ。私の方が先に」

 ナシュは譲ろうとしなかった。相手のほうがやけに気を張っていて疲れているのは目に見えていたが、しかしウィル・ヒギンズは厳しい眼差しでそれを押さえ込んだ。

 仕方なく、ナシュは足を抱くようにして座ったまま額を膝に押し当てた。

ぱちぱちと乾いた薪がはぜる音と、火の温かさが適度に疲れた体を包み込んで眠りの淵へと落としていく。記憶の片隅に以前行われた野外訓練のことがよみがえった。下士官であった頃は野外訓練のほうが多かったくらいで、野宿は当然。そしてまた見張りで起きているのも当然だった。



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