ワタシノネウチ
測定台の上に、静寂があった。
広間を埋め尽くした貴族たちが、誰も声を出さない。
笑い声も、ざわめきも、扇を揺らす音さえも、すべてが止まっていた。
リディア・ハーウィンは、その静寂の中心に立っていた。
手のひらの上に、魔術石が乗っている。
透明な球体。
本来ならば、触れた者の魔術属性に応じて色づくはずのもの。
炎属性なら赤。水なら青。風なら緑。光なら金。
リディアの手の上で、石は──
何も、起こらなかった。
透明なまま。
無色のまま。
冷たいまま。
三回目だった。
十三歳の初回測定。
十五歳の再測定。
そして今日、十八歳。
三度とも、同じ結果だった。
「……またか」
誰かが呟いた。
その一言が引き金になった。
くすくすという笑いが広間の端から広がっていく。
扇で口元を隠した令嬢たちが視線を交わす。
壁際に並んだ貴族たちが、小さく首を振る。
リディアは石を台に戻した。
顔を上げて、真っ直ぐ前を向いた。
泣かなかった。
震えなかった。
表情を崩さなかった。
それだけが、今の彼女にできることだった。
「リディア」
低い声が、背後から落ちてきた。
振り返らなくてもわかる。
婚約者、クラウス第一王子の声だ。
「やはり君には、失望した」
静かな声だった。
怒鳴らない。
罵倒もしない。
ただ、淡々と。
それが余計に、冷たかった。
「婚約の件は、改めて考え直す必要がある」
広間がざわめいた。
リディアは振り返らなかった。
ただ、胸の奥で何かが、また一つ、静かに削れた気がした。
◇
リディア・ハーウィンの「無能」の歴史は、物心ついた頃から始まっていた。
ハーウィン侯爵家は、代々優れた魔術師を輩出してきた家柄だ。
父は水と氷を操る宮廷魔術師。
母は風属性の名家の出身。
兄は十三歳の測定で「複合属性」という希少な結果を出した。
そしてリディアは──
何も、なかった。
最初の家庭教師は、三ヶ月で匙を投げた。
「才能がない子に教えられることは何もございません」
二人目は半年で去った。
三人目は一年で去った。
残ったのは、魔術書だけだった。
使えなくても、読むことはできる。
リディアは読んだ。
父の書斎にある魔術書を片っ端から。
理論書、歴史書、古代魔術の文献。
不思議なことがあった。
読めば読むほど、わかるのだ。
なぜ炎魔術は詠唱に母音を多用するのか。
なぜ水魔術の術式は円形を基本とするのか。
なぜ複合属性者は制御に苦労するのか。
理論が、するすると頭に入ってくる。
でも、使えない。
わかるのに、使えない。
その矛盾が、リディアをずっと苦しめていた。
十五歳のとき、こっそり論文を書いた。
題名は「無属性反応の原因と可能性についての考察」。
誰にも見せなかった。
見せても、笑われるだけだとわかっていたから。
その論文を、机の引き出しの奥にしまって──
そのまま、三年が過ぎた。
婚約者のクラウスとは、十五歳のときに政略で決まった。
最初から、好きではなかった。
好きではなかったけれど、誠実であろうとした。
彼が魔術の話をするとき、リディアは真剣に聞いた。
彼が不機嫌なとき、空気を読んで距離を置いた。
彼が他の令嬢を褒めるとき、何も言わなかった。
三年間、ずっとそうしてきた。
でもクラウスは、一度もリディアを「よくやっている」と言わなかった。
代わりに言われたのは、こういう言葉だった。
「君は魔術が使えない。王家の婚約者として、それは致命的だ」
「他の令嬢を見てみろ。君はあれくらいできないのか」
「政略だから仕方なく婚約しているが、正直つらい」
一言一言が、削っていく。
小さなナイフで、少しずつ。
リディアは笑った。
うなずいた。
「精進します」と言い続けた。
そのうちに、わからなくなってきた。
自分には本当に価値がないのだろうか。
魔術が使えない。
婚約者に必要とされていない。
家族の期待にも応えられていない。
では──
ワタシノネウチって、なんだろう。
その問いが、胸の奥に沈んでいった。
答えが出ないまま、ずっと。
◇
翌日の夜会は、春の訪れを祝う名目で開かれた。
広間は花で飾られていた。
白と金の薔薇。
天井から下がるシャンデリアが、それを照らしている。
美しい場所だった。
リディアには、関係なかった。
クラウスに呼ばれたのだ。
「話がある」という短い言葉だけで。
広間の中央に立ったとき、嫌な予感がした。
貴族たちの視線が、すでにリディアに集まっていた。
まるで何かを待っているような。
これから起きることを、知っているような。
クラウスが前に出た。
隣に、見慣れない令嬢がいた。
金髪。青い瞳。
魔術石の測定で「光属性・上位」と認定されたと噂の娘。
マリア・セルヴェン伯爵令嬢。
「皆に伝えることがある」
クラウスの声が広間に響いた。
「リディア・ハーウィンとの婚約を、本日をもって解消する」
広間が静まり返った。
「王家の婚約者には、それ相応の力と資質が必要だ。昨日の測定結果を見た通り、リディア嬢にはそれが備わっていなかった。これは遺憾であるが、国のためにやむを得ない判断だ」
整然とした言葉だった。
感情がない。
まるで布告文を読み上げているような。
クラウスはリディアのほうを向いた。
「三年間、ともに過ごしてきたが──正直に言う。君といた時間は、私にとって無駄だった。才能のない者がいくら努力しても、結果は変わらない。それが現実だ」
無駄だった。
その言葉が、胸に刺さった。
三年間。
笑い続けた三年間。
耐え続けた三年間。
「精進します」と言い続けた三年間。
それが、無駄だった。
リディアは動かなかった。
泣かなかった。
叫ばなかった。
ただ、胸の奥の何かが──
ぷつん、と。
静かに、切れた。
「リディア・ハーウィン嬢」
突然、別の声が広間に響いた。
男の声。
クラウスでも、その場にいる誰でもない声。
リディアは声のほうを見た。
人混みをかき分けて、一人の男が前に出てきた。
年齢はリディアと近い。二十歳前後。
黒い軍服。
左胸に金の紋章。
短く切りそろえた黒髪。
静かな、しかしどこか熱を帯びた目。
「あなたに、折り入ってお願いがある」
男がリディアに向かって言った。
広間がざわめく。
「お前は誰だ」
クラウスが低い声を出した。
「アシュレイ・ヴォーン」
男は答えた。
「隣国エルダの、第一王子だ」
広間の空気が変わった。
隣国の第一王子。
軍事大国として知られるエルダの。
なぜここに、なぜ今。
アシュレイはクラウスを一瞥して、すぐにリディアに視線を戻した。
「失礼」
そう言って、懐から何かを取り出した。
小さな球体。
魔術石だった。
ただし──昨日のものより、ひと回り大きい。
「触れてもらえますか」
アシュレイがリディアに差し出した。
「……なぜ」
リディアの声は、かすれていた。
「昨日と同じ結果になるだけです。私の測定結果は、三度とも」
「知っています」
アシュレイは静かに言った。
「それでも、触れてほしい」
リディアは彼の目を見た。
嘘をついていない。
からかってもいない。
ただ、真っ直ぐに。
リディアは手を伸ばした。
石に、触れた。
次の瞬間。
パン、と。
乾いた音がして──
石が、砕けた。
粉々に。
跡形もなく。
リディアの手の上に、細かな欠片がきらきらと落ちていった。
広間が、凍りついた。
誰も声を出さなかった。
アシュレイだけが、静かに口を開いた。
「魔術石が砕けるのは、測定限界を超えた魔力が流れ込んだときだけです」
一言一言を、ゆっくりと。
「リディア・ハーウィン嬢は、無属性魔術師です」
無属性。
その言葉が広間に落ちた。
「無属性魔術師は、特定の属性を持たない代わりに、すべての属性を内包します。測定石は属性を判定するために作られているため、無属性には反応できない。結果として──無反応、と表示される」
リディアは、自分の手を見つめた。
欠片が光を反射して、きらきらしていた。
「数百年に一人と言われる、最も希少な素質です」
広間がざわめき始めた。
「そんな……」
「無属性魔術師が実在したのか」
「ハーウィン家の令嬢が」
リディアには、声が遠かった。
頭の中で、何かがゆっくりとほどけていくような感覚があった。
使えないのではなかった。
測れなかっただけだった。
三回の測定。
三回の無反応。
三回の「失望した」という視線。
全部、全部──
測定方法が、合っていなかっただけだった。
「待て」
クラウスの声がした。
リディアが振り返ると、クラウスが青い顔をして立っていた。
「そんなはずがない。三度の測定で一度も反応しなかった。無属性だというなら、なぜ今まで」
「測定石では判定できないと、先ほど申し上げましたが」
アシュレイの声は、穏やかだった。
穏やかだからこそ、刃のように鋭かった。
「リディア嬢の値打ちを「測定結果」だけで判断されたのは、判断する側の問題です。殿下」
クラウスが黙った。
リディアは、クラウスを見た。
三年前、初めて会ったときのことを思い出した。
政略婚約と知りながら、誠実にいようとした十五歳の自分。
三年間、ずっと「精進します」と言い続けた自分。
無駄だった、と言われた三年間。
「クラウス殿下」
リディアは口を開いた。
声は、震えていなかった。
「三年間、無駄だったのは、お互い様ですね」
広間が静まり返った。
クラウスが何か言おうとした。
口が開いて、閉じて、また開いた。
「リ、リディア、私は──婚約を考え直す余地が」
「結構です」
リディアは笑った。
三年間続けてきた作り物の笑顔ではない。
力が抜けた、ただの笑顔。
「殿下がご自分でおっしゃったことです。三年間は無駄だった、と。私もそう思います。だから、ここで終わりにしましょう」
くるりと背を向けた。
マリア・セルヴェン令嬢と目が合った。
彼女はそっと、クラウスから一歩距離を置いていた。
リディアは何も言わなかった。
ただ、静かに歩き出した。
広間の出口へ向かって。
◇
夜の空気は冷たかった。
庭園に出ると、花の香りがした。
昼間に開いた花が、夜になっても香りを残している。
リディアは噴水の縁石に腰を下ろした。
ドレスが汚れるかもしれない。
どうでもよかった。
手のひらを開いた。
まだ、砕けた石の欠片が残っていた。
細かくて、きらきらしていて、まるで星の破片みたいだった。
ゆっくりと息を吐いた。
震えていた。
手が。膝が。肩が。
怖かったのかもしれない。
それとも、ずっと張り詰めていたものがほどけたのかもしれない。
どちらかわからなかった。
「寒くないですか」
声がした。
振り向くと、アシュレイが立っていた。
軍服の上から、薄い外套を羽織っている。
「……なぜここに」
「追いかけました」
あっさりと言った。
リディアは少し呆気に取られた。
「どうぞ」
アシュレイが外套を差し出した。
「あなたが着てください。私は厚着なので」
リディアは受け取った。
外套は、少し温かかった。
アシュレイは噴水の縁石から少し離れた場所に立って、空を見上げた。
夜空に星が出ていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
リディアは言った。
「どうぞ」
「いつから、知っていたのですか。私が無属性だと」
アシュレイは少し間を置いた。
「一年前」
「一年前?」
「あなたが書いた論文を読みました」
リディアは固まった。
「論文……」
「『無属性反応の原因と可能性についての考察』。エルダの王立図書館に、写しが届いていた」
リディアは混乱した。
「私はあの論文を、誰にも見せていません。机の引き出しにしまっていただけで」
「侍女の一人が、ハーウィン侯爵家から写しを持ち出して売ったようです。学術的な価値があると見込んで」
リディアは言葉を失った。
三年前、誰にも見せなかった論文。
恥ずかしくて、笑われそうで、引き出しの奥にしまっていたもの。
それが、隣国の王子の目に届いていた。
「驚きました」
アシュレイが続けた。
「魔術の才能がないとされている令嬢が書いたとは思えない内容だった。いや、才能がないからこそ書けた内容だったのかもしれない」
「どういう意味ですか」
「使える人間は、使えることが当たり前すぎて、なぜ使えるのかを深く考えない。でもあなたは使えなかったから、理論の根本から考えた」
アシュレイが空から視線を下ろして、リディアを見た。
「論文を読んで、確信しました。この人は、測定できないだけで、使えないわけではない、と」
リディアは、手の中の欠片を見つめた。
「なぜ、もっと早く教えてくれなかったのですか」
「あなた自身が気づくべきだと思っていました」
アシュレイの声は、静かだった。
「他人に「あなたには才能がある」と言われても、あなたは信じなかったと思う。三年間、ずっと「無能だ」と言われ続けてきたから」
リディアは黙った。
そうかもしれない、と思った。
誰かに言われても、信じられなかったと思う。
「今日の測定の場に間に合うように来ました。石が砕けたとき、あなたの目で確かめてほしかったから」
リディアは顔を上げた。
「あなたが自分の手で確かめたことだから、誰も否定できない」
アシュレイが言った。
「他人の言葉ではなく、あなた自身の経験として残る」
リディアは、もう一度手のひらを見た。
欠片がきらきらしていた。
自分の手が、この石を砕いた。
この欠片は、その証拠だ。
誰かに言われた「才能がある」ではない。
自分の手で確かめた、紛れもない事実。
ゆっくりと、何かが胸の奥に落ちてきた。
温かいものが。
「……泣くつもりはなかったのですが」
リディアは呟いた。
目が、じんわりと熱くなっていた。
「泣いていいと思います」
アシュレイは、ただそう言った。
責めない。
慰めない。
ただ、そこにいる。
リディアは、泣いた。
声は出なかった。
ただ、涙が頬を伝った。
三年間分の疲れが、少しずつ溶けていくような気がした。
しばらくして、リディアは息を整えた。
「失礼しました」
「いいえ」
アシュレイが静かに言った。
「一つ、お願いがあります」
リディアは彼を見た。
「エルダに来てほしい」
アシュレイが真っ直ぐに言った。
「王立魔術研究所で、あなたの力を調べたい。無属性魔術師の研究は、数百年間止まっている。あなたの論文は、その突破口になれる」
「それは……私の力が必要だということですか」
「それもあります」
アシュレイは少し間を置いた。
「ただ、それだけではない」
「では」
「あなたが、この国にいていい場所はもうないと思ったので」
リディアは息を呑んだ。
「婚約は解消された。あなたを「無能」と言い続けた人間たちが、手のひらを返して近づいてくる。それに付き合う必要はないと思う」
アシュレイが手を差し出した。
「正式な招待状は改めて出します。ただ、今夜だけ聞かせてください」
静かな目だった。
急かさない。
押しつけない。
「あなたは、どこに行きたいですか」
リディアは、その問いを受け取った。
三年間、そんなことを聞かれたことはなかった。
何をしたいか。
どこに行きたいか。
何が好きか。
誰も、聞かなかった。
リディアは、ゆっくりと手を伸ばした。
アシュレイの手を取った。
「魔術書が、たくさんある場所に行きたいです」
アシュレイが、かすかに目を細めた。
「王立研究所の図書室は、大陸でも有数の規模です」
「では」
リディアは、笑った。
仮面でも、作り物でもない。
力が抜けた、ただの笑顔。
「よろしくお願いします、アシュレイ殿下」
夜風が吹いた。
噴水が月明かりを受けて、きらきらと揺れた。
リディアは手のひらの欠片を、そっと噴水の水面に落とした。
星の破片みたいな欠片が、水の中に沈んでいった。
ワタシノネウチ。
ずっとわからなかったそれが、今夜はじめて、自分の手の中に見えた気がした。
◇
翌朝、王宮では小さな騒動が起きていた。
クラウス第一王子が、昨夜の出来事を「誤解だった」として婚約解消の撤回を申し入れようとした。
ハーウィン侯爵家には、「無属性魔術師の令嬢」という情報がすでに広まっていた。
貴族たちは昨夜の態度を忘れたように、口々にリディアを称え始めた。
しかしリディアは、すでに侯爵家にいなかった。
机の引き出しには、一枚の手紙だけが残されていた。
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お父様へ
しばらく、エルダに参ります。
魔術の研究がしたいと、ずっと思っていました。
三年間、ありがとうございました。
リディアより
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窓の外、馬車の音が遠ざかっていった。
春の風が、手紙の端を揺らした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
リディアはちゃんとやり返せましたか? 私は書きながら「お互い様ですね」の一言が書けたとき、一人でガッツポーズしていました( *˙ω˙*)و ガッツ。
この作品が少しでも「スカッとした」「読んでよかった」と思っていただけたなら、ぜひ評価やコメントで教えてください。作者にとって何より嬉しいご褒美です。
次回作でもまたお会いできることを楽しみにしています!




