第四章 真相
その夜の夢は、これまでと違った。
透は暗い部屋に立っていた。いつもの廊下ではない。
広い部屋だ。天井が高く、壁には棚が並んでいる。棚の上には瓶が整然と置かれ、中に無色透明の液体が入っている。ラベルが貼られているが、文字が判読できるほどには近づけない。
薬品の匂いが充満していた。あの甘い消毒液の匂い。夢の中で何度も嗅いだ匂いが、この部屋の空気そのものだった。
ここは犯人の場所だ。
透は明晰夢の意識を保ちながら、部屋を見回した。
薬品棚。デスク。椅子。デスクの上にファイルが積まれている。壁には小さな窓があり、外は暗い。デスクの横にゴミ箱。中に使用済みのラテックス手袋が丸めて捨てられていた。
ファイルの一番上に、写真が挟まれていた。
女性の写真だ。
証明写真大の顔写真が数枚、一列に並べられている。顔までははっきり見えないが、全員若い女性だった。
被害者の写真だ。
透はファイルに手を伸ばした。夢の中で物に触れる感覚が、薬のおかげで以前より鮮明になっている。紙の質感が指先に伝わった。
写真の下に、手書きのメモがあった。文字が歪んで読みにくいが、日付らしきものが書かれている。
犯行の日付だ。
過去の事件と一致する日付が並んでいる。そしてその下に、まだ来ていない日付がもう一つ。
三月十二日。
次の犯行日が書かれている。
場所は――
文字が歪む。読もうとすると文字が逃げていく。夢の中の文字は不安定だ。
しかし場所名の一部が見えた。「板」という字。
透は日付と文字を必死で記憶に刻んだ。三月十二日。「板」。
背後に気配を感じた。
空気が変わった。温度が下がった。
振り返ると、男が立っていた。
三メートル先。白いシャツ。長い腕。左手首の火傷。
今回は、顔が見えた。
暗闇の中から、男の顔がゆっくりと浮かび上がった。まるで水面から顔を出すように、少しずつ、少しずつ。
顎。唇。鼻筋。
そして眼鏡。銀縁の眼鏡。
その奥にある穏やかな目。少しだけ微笑んでいる口元。
桐生圭吾だった。
透の全身から血の気が引いた。
背骨を冷水が駆け下りるような感覚。足が震えた。膝が折れそうになった。
「篠宮さん」
桐生が、透の名を呼んだ。
夢の中で聞いた声と、現実の診察室で聞いた声が完全に重なった。あの低い、落ち着いた声。穏やかで、知的で、安心感を与えるはずの声。
「そこまで来てしまいましたか」
桐生が一歩近づいた。透は後ずさった。背中が薬品棚にぶつかる。瓶がカタカタと揺れた。冷たいガラスの感触が背中に伝わった。
「あなたはいつも優秀でしたね」
桐生の声には感嘆が混じっていた。怒りでもなく、焦りでもなく、純粋な感嘆。
「夢の中で意識を保つだけでなく、ここまで辿り着くとは。私の患者の中で、あなたほど強い意志を持った人間はいなかった」
桐生の手が伸びてきた。左手首の火傷の痕が、蛍光灯の光の下でてらてらと光っている。
透は叫んだ。
目が覚めた。午前一時四十三分。
透はベッドの上で震えていた。涙が頬を伝っていた。止めようとしても止まらなかった。
桐生先生。
自分を助けてくれると思っていた人。夢を止めるために薬をくれた人。明晰夢の方法を教えてくれた人。眠れない夜の恐怖を打ち明けた相手。
あの人が、犯人だった。
翌朝、透は震える手で神崎に電話した。
「犯人の顔を見ました」
「顔を? 誰ですか」
「……桐生圭吾。私の担当の精神科医です」
電話の向こうで、長い沈黙があった。透は受話器を握りしめ、神崎の呼吸だけを聞いていた。
「間違いありませんか」
「間違いません。顔も声も、夢の中で確認しました。左手首の火傷の痕も一致します」
「桐生圭吾。桐生メンタルクリニックの」
「はい」
神崎の声が硬くなった。
「篠宮さん。今から署に来てください。できるだけ早く」
一時間後、透は捜査一課のフロアにいた。
取調室ではなく、神崎のデスク横にある打ち合わせスペース。パーティションで仕切られた狭い空間に、椅子が二つとテーブルが一つ。
「桐生圭吾。四十歳。桐生メンタルクリニック院長」
神崎はファイルを広げた。
「経歴を調べました。医学部卒業後、大学病院の精神科に十年勤務。その後独立して開業。論文も複数。睡眠医学と夢のメカニズムが専門分野の一つで、特にレム睡眠中の脳活動と意識の関係について研究している」
「夢の研究」
「ええ。本人が夢の専門家だとすれば、あなたの夢の訓練を指導できるのは当然だし、あなたの夢に影響を与える方法も知っていることになる」
透は拳を握った。
「彼が私に処方した薬。レム睡眠を延長する薬だと説明されましたが、本当にそれだけの効果なのか確認してほしいんです」
「薬の名前は」
透が薬の名前を告げると、神崎は手帳にメモした。
「調べます」
「それと、火傷の痕について。桐生の左手首を確認する必要がある」
「診察中、彼は長袖のシャツの上に白衣を着ていました。手首は見えなかった」
「患者としてもう一度受診して確認する、という方法は」
「今の私が桐生先生の前に座ったら、きっと隠しきれません。声を聞いただけで震えると思います」
神崎はうなずいた。無理を強いるつもりはなかったのだろう。
「証拠がまだ弱い。夢の情報だけでは逮捕状は取れません。裏付けが必要です」
神崎は立ち上がり、デスクの脇のホワイトボードに被害者の写真を並べた。五枚の写真。五人の女性の顔。
「被害者は全員、三十代の女性。東京近郊在住。職業はバラバラ。共通の知人も、共通の行動範囲も見つかっていなかった。接点が不明だった」
「桐生先生の患者だった可能性は」
神崎が振り返った。その目に、初めて明確な光があった。
「今すぐ確認します」
三日後、神崎から電話があった。
「被害者五人のうち三人が、桐生のクリニックに通院歴があった」
透は受話器を握りしめた。
「偶然とは思えない数字です。残りの二人についても調べています。別の医療機関からの紹介で桐生の診断を一度受けている可能性がある」
「じゃあ、桐生先生は自分の患者を」
「まだ断定はできません。しかし状況証拠は揃いつつある」
神崎は一拍置いて言った。
「それともう一つ。あの薬を調べました」
透は息を止めた。
「一般に流通している睡眠薬ではありません。研究目的で使われている実験的な化合物で、臨床での処方は認可されていない」
「未認可」
「ええ。未認可の薬を患者に処方していた。それだけでも医師法違反の疑いがあります」
神崎の声が低くなった。
「そしてこの薬の薬理作用を詳しく調べたところ、レム睡眠の延長以外に、もう一つ作用があることがわかりました。脳波の同調性を高める作用です」
「脳波の同調性」
「他者の脳活動に同期しやすくなる。つまりこの薬は、あなたの脳を犯人の脳に同調させるために使われていた可能性がある」
透は目を閉じた。
桐生が夢の訓練を勧めたのも、新しい薬を提案したのも、すべて計画の一部だったのか。透の夢を鮮明にし、犯人への接続を強化するために。
しかし、一つ腑に落ちないことがあった。
「神崎さん。一つわからないことがあります。私が夢を見始めたのは、桐生先生に会う前です。薬を飲んだのはその後。じゃあ最初に夢で繋がった原因は何なんですか」
沈黙が流れた。
「それを調べるために、桐生の過去を洗っています」
連絡は翌日来た。
「桐生圭吾の過去に、重要な記録がありました」
神崎の声にいつもと違う硬さがあった。
「二十三年前、埼玉県で住宅火災が起きています。桐生は当時十七歳で、この火災に巻き込まれ、左手首に重度の火傷を負った」
二十三年前。左手首の火傷。
「この火災の原因は隣家の失火で、火元の住宅に住んでいた家族三人が死亡しています。そして延焼した隣の隣の住宅に住んでいた四歳の女の子が、煙を吸って一時意識不明になった」
透は受話器を握る手に力を込めた。
「この女の子の名前は――」
神崎が言葉を切った。
「篠宮透」
透の視界が揺れた。椅子の肘掛けを掴まなければ、崩れ落ちていたかもしれない。
「記憶にありますか」
「……いいえ。全く」
「四歳ですからね。記憶がなくても不思議ではない。幼少期の外傷記憶は抑圧されることが多い」
神崎は淡々と続けた。
「あなたと桐生は二十三年前、同じ火災で負傷している。桐生は火傷。あなたは煙による一時的な意識障害と低酸素状態。同じ火災の、同じ煙の中にいた」
透は自分の胸に手を当てた。呼吸が浅い。四歳の記憶は何もない。火事の記憶も、煙の記憶も。しかし体のどこか深いところで、何かがざわめいている気がした。
「桐生の研究論文の中に、極限状態で生じる脳波の共鳴現象についての仮説があります」
「共鳴」
「強い恐怖やストレスを共有した人間同士の脳が、無意識下で同調する可能性について述べている。特に脳の発達段階にある幼児と、強い感情を抱いている人間が同じ極限環境に置かれた場合、脳波のパターンが共鳴を起こし、以後も微弱な接続が維持されるという仮説です」
「桐生先生は、自分の体験に基づいてこの研究を始めた」
「そうとしか思えません。彼はあの火事の夜に、あなたとの間に接続が生まれたことを知っていた。あるいは後から気づいた。そしてそれを研究テーマにし、さらにはあの薬で接続を強化しようとした」
「つまり、あの火事で私と桐生先生の脳が繋がって、それが今になって夢として現れた、と」
「桐生がいつから殺人を始めたかはまだわかりませんが、桐生の脳が殺人に強く集中する状態に入った時、かつて共鳴を起こしたあなたの脳がその信号を受信して、夢として再構成している可能性はある」
透は椅子の肘掛けを強く握った。
四歳の記憶はない。火事の記憶もない。だが体のどこか、脳のどこかに、あの夜の痕跡が残っていた。
そしてその痕跡が、二十三年後に桐生の殺意を受信するアンテナになった。
「神崎さん。桐生先生は、私がここに通報したこと、知ってますか」
「その可能性を考慮して、桐生への直接的な接触は控えています。クリニックの周辺を監視していますが、桐生はまだ通常通り診療を続けている」
「でも夢の中で、彼は言ったんです。『そこまで来てしまいましたか』って」
神崎の声が低くなった。
「夢の中で、桐生があなたの存在に気づいた」
「はい。夢の中の接続は双方向なのかもしれない。私が彼の夢に侵入しているのと同じように、彼も私を感じている」
長い沈黙の後、神崎が言った。
「篠宮さん。今日から身辺に気をつけてください。あなたが危険な状態にある可能性がある」
透はクリニックに行くのをやめた。
桐生から電話があった。「次の予約日が近いですが」という穏やかな声のメッセージが留守電に残っていた。
透はそのメッセージを三回聞いた。何の変哲もない、優しい医師の声。しかし今の透には、その声が夢の中で名前を呼んだ声と同じものにしか聞こえなかった。
薬をやめた翌日から、幻視はぴたりと止んだ。現実は現実のまま、夢は夢のまま、境界はふたたび明確になった。
しかし夢は止まらなかった。
薬がなくても、あの火事の夜に刻まれた共鳴は消えない。透の脳は桐生の殺意を受信し続けていた。
そしてその夢の中で、桐生はもはや顔を隠さなかった。
銀縁の眼鏡の奥から、穏やかな目で透を見つめていた。
「逃げられると思いますか、篠宮さん」
夢の中の桐生は微笑んでいた。
透は夢日記にすべてを書き留め、朝になると神崎に報告した。犯人の表情。言葉。部屋の構造。棚に並ぶ薬品の瓶の数。
透は怯えながらも、自分にしかできないことがあると知っていた。
この夢を見ているのは、世界で透だけなのだから。




