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第三章 追跡

 桐生のクリニックを、透はふたたび訪れた。


 前回と同じ待合室。同じ風景画。同じ静けさ。


 だが透の中にあるものは、前回とはまるで違っていた。夢と事件の一致。警察との協力。犯人の手に刻まれた火傷の痕。その全てを抱えて、透はここに座っている。


 診察室に入ると、桐生が穏やかな笑みで迎えた。


「具合はいかがですか。睡眠導入剤は効いていますか」


「効いていません。夢は止まらない」


 桐生はうなずいた。落胆の色は見せなかった。


「薬の量を増やすこともできますが、それよりも根本的なアプローチを試した方がいいかもしれません」


「根本的な、というのは」


「夢の内容そのものに働きかけるんです。夢日記をつけているんですね」


「はい。先生にそう勧められたので」


「続けていますか」


「毎日つけています」


「いい心がけです。記録を続けることで、夢のパターンが見えてくることがあります」


 透は少し迷ってから、桐生に夢と事件の一致について話した。警察に相談したことも。


 桐生は驚いた様子を見せなかった。眼鏡をかけ直し、穏やかな声で応えた。


「興味深い話ですね。ただ、人間の記憶というのは後から書き換わるものです。事件のニュースを見た後で、過去の夢の記憶が修正されている可能性もゼロではない」


「夢日記は事件の前につけています」


「ええ、そうかもしれません。しかし夢の記憶を言語化する時点で、無意識の編集が入ることはよくあります。夢で見たものと、夢日記に書いたものが、完全に同一である保証はどこにもない」


 桐生の言葉には一理あった。透自身、自分の記憶を完全に信用できているわけではない。


「いずれにしても」と桐生は続けた。「夢をコントロールする方法はあります。明晰夢という言葉を聞いたことはありますか」


「夢の中で、これは夢だと気づくこと、ですか」


「その通りです。通常、夢を見ている人間は自分が夢の中にいることに気づかない。しかし訓練によって、夢の中で自覚を持つことが可能になります。明晰夢の状態になれば、夢の中で自分の意志で行動してできるようになる」


 桐生は眼鏡の奥から透を見た。


「殺される前に犯人の顔を見る。逃げる。夢の展開を変える。そういったことが、訓練次第で可能になります」


「訓練というのは」


「まず実感テスト、リアリティチェックです。日中、定期的に自分が夢の中にいるかどうかを確認する癖をつけてください」


 桐生はデスクの上で自分の手のひらを広げて見せた。


「手のひらを見る。指の数を数える。時計を確認する。文字を読む。夢の中ではこれらが不安定になります。指が六本になったり、時計の数字が読めなかったりする。現実ではそんなことは起きません。この確認を日中に何度も繰り返すことで、習慣が夢の中にも持ち込まれる。夢の中で手のひらを見た時に異常に気づければ、そこが明晰夢の入り口です」


 透は帰宅後すぐに訓練を始めた。


 スマートフォンに一時間おきのアラームを設定した。アラームが鳴るたびに手のひらを見る。指の数を数える。一、二、三、四、五。時計を二度見する。数字が変わっていないことを確認する。


 自分に問いかける。


 これは現実か。


 最初は馬鹿馬鹿しく感じた。現実に決まっている。キッチンのシンクに溜まった食器も、窓の外を走る車の音も、コーヒーの苦味も、全て現実だ。


 しかし透は続けた。何度も、何度も。起きている間中、一時間ごとに手のひらを確認し、自分に問い続けた。


 これは現実か。


 五日目の夜、変化が訪れた。



 夢の中で、透は暗い廊下を歩いていた。


 見覚えのない建物。コンクリートの壁。蛍光灯が一本だけ点いていて、廊下の先は闇に沈んでいた。


 背後に気配を感じる。足音。重い靴の音。いつものように犯人が迫ってきている。


 透の心臓が跳ねた。


 逃げなければ。体が強張る。足が動かない。いつもそうだ。夢の中では、走ることができない。


 その時、透は無意識に手のひらを見た。


 訓練の成果だった。五日間、一時間ごとに繰り返した動作が、夢の中にまで染み込んでいた。


 指が六本あった。


 これは夢だ。


 透の意識が一瞬で覚醒した。


 夢の中にいるという自覚が、冷たい水のように全身に広がった。景色が変わったわけではない。暗い廊下も、背後の気配も、そのままだ。だが透の中にある「自分」の輪郭がはっきりした。


 自分は今、夢を見ている。


 背後の気配が近づいてくる。足音。呼吸。男の呼吸音。重い。規則正しい。興奮していない。慣れた動作の呼吸だ。


 逃げずに、見ろ。


 透は拳を握りしめ、振り返った。


 暗い廊下の奥に、男の影が立っていた。


 顔は闇に溶けて見えない。だが今回は距離が近い。三メートルほど。これまでで最も近い。


 男の手が見えた。左手首の火傷の痕。間違いない、同じ犯人だ。


 透は一歩踏み出した。男の顔を見ようとした。


 二歩目。足が重い。空気が粘っているように感じる。


 三歩目で、男との距離が二メートルに縮まった。


 顔が見えかけた。影の中に、顔の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。


 もう一歩。


 その瞬間、視界が白く弾けて、透は目を覚ました。


 午前三時。心臓が壊れそうなほど鳴っていた。体中から汗が噴き出している。


 透はノートを掴み、震える手でペンを走らせた。


 明晰夢、成功。犯人との距離を詰められた。三メートルから二メートルまで近づいた。顔の輪郭がぼんやり見えかけた。次はもっと近づく。



 翌日、透は神崎に電話で報告した。


「犯人に近づけるようになりました。まだ顔は見えませんが、距離を詰めることはできました」


「どうやって」


「明晰夢の訓練です。夢の中で、これは夢だと気づけるようになった。気づいた瞬間に、夢の中で自分の意志で動けるようになるんです」


 神崎は黙って聞いていた。


「それと、もう一つ気づいたことがあります」


「何ですか」


「匂いです。犯人に近づいた時、匂いがしました。甘い、消毒液のような匂い。病院に近い匂いなんですが、少し違う。もっと化学薬品的というか」


 言葉にするのが難しかった。知っている匂いに似ているのに、ぴったり一致するものが思い浮かばない。


「消毒液のような甘い匂い。エタノールとも違う。もっと重い感じの」


 神崎はメモを取った。


「火傷の痕と、薬品臭のする男。医療関係者か、薬品を扱う職業の可能性がありますね。医師、看護師、薬剤師、あるいは研究職」


「そう思います」


 神崎は手帳を閉じる前に、透に言った。


「篠宮さん。一つ聞いていいですか」


「はい」


「こわくないですか。毎晩殺される夢を見て、その犯人に自分から近づこうとしている。普通は逃げる」


 透は少し考えてから答えた。


「こわいですよ。毎晩死ぬほどこわい」


 声が震えた。それは嘘ではなかった。


「でも、このままじゃ誰かがまた殺される。私の夢がそれを止められるなら、逃げるわけにはいかない」



 透は桐生のもとで訓練を続けた。


 明晰夢の成功率は上がっていた。三回に一回は夢の中で意識を保てるようになった。


 だが犯人の顔だけはどうしても見えなかった。近づくと必ず夢が崩壊し、目が覚めてしまう。二メートルが限界だった。


「壁にぶつかっている感じです」


 診察室で透が言うと、桐生はうなずいた。


「明晰夢で意識を保つには、脳の覚醒レベルのバランスが必要です。深く眠りすぎると意識が沈み、覚醒レベルが上がりすぎると夢から弾き出される。犯人に近づこうとすると緊張で覚醒レベルが上がりすぎるんでしょう」


「どうすればいいですか」


 桐生は少し間を置いてから言った。椅子の背もたれに体を預け、天井を見上げるような仕草をした。


「一つ提案があります。新しい薬です」


 透は身じろぎした。


「レム睡眠を延長し、夢の中での意識を安定させる効果があります。脳の覚醒レベルを適切な範囲に保つことで、夢の中により長く留まれるようになる」


「一般的な薬ですか」


「まだ広くは使われていません。睡眠研究の分野では成果が出ている実験的な薬です。私の研究でも使用実績があります」


「副作用は」


「覚醒時に一時的な幻視が起こる可能性があります。夢と現実の境界が、少し曖昧になるかもしれない」


 桐生は透の目を見て、静かに言った。


「ただ、服用をやめれば戻ります。永続的な影響はありません」


 透は迷った。


 これ以上、夢と現実の区別がつかなくなるのは怖い。今でさえ毎晩殺される夢で神経がすり減っている。その境界が曖昧になったら、正気を保てるだろうか。


 しかし犯人の顔を見るためには、夢の中にもっと長く留まる必要がある。二メートルの壁を越えなければ、犯人の正体にはたどり着けない。


 五人目、六人目が殺されるのを傍観するのか。


「飲みます」


 桐生は薄く微笑み、処方箋を書いた。万年筆の動きは滑らかで、迷いがなかった。



 その夜、透は新しい薬を飲んで眠りについた。


 効果は劇的だった。


 夢の中で、透はこれまでにないほど鮮明な意識を保っていた。色が鮮やかだ。温度がある。空気の湿度がわかる。風が肌に触れる。足元のコンクリートの冷たさが足裏に伝わる。


 現実と変わらない解像度の世界が、目の前に広がっていた。


 犯人が現れた。暗い部屋の中。透の前方三メートルに立つ男の影。


 甘い薬品の匂いが鼻をつく。以前より強い。まるでその匂いの中に立っているかのようだ。


 透は一歩ずつ近づいた。一歩。覚醒レベルが上がるのを感じる。心臓が速まる。だが今回は夢が崩壊しない。薬が効いている。意識が安定している。


 二歩。犯人の体の輪郭が見えてきた。白いシャツ。長い腕。大きな手。左手首の火傷。


 三歩。二メートルの壁を越えた。


 四歩。一・五メートル。


 犯人の首から上が、ゆっくりと闇から浮かび上がろうとしていた。顎の輪郭。唇の線。


 もう一歩。


 男が透に手を伸ばした。


 透は叫びそうになるのをこらえ、犯人の手を掴んだ。


 冷たい指だった。長くて細い指。しかし握力は強かった。


 その瞬間、犯人の口が動いた。声が聞こえた。低い、落ち着いた声。


「篠宮さん」


 聞き覚えのある声だった。


 どこで聞いた。いつ聞いた。この声を、自分は知っている。


 答えに辿り着く前に、透の意識は弾けるように覚醒した。


 午前二時。透は汗だくのまま、ノートを掴んだ。


 犯人の声。低い。落ち着いている。聞き覚えがある。名前を呼ばれた。「篠宮さん」と。


 犯人は、透の名前を知っている。



 新しい薬の副作用は、桐生の言った通りに現れた。


 昼間、原稿を書いている最中に、視界の端に人影がちらつくようになった。


 振り向くと誰もいない。だが一瞬だけ、夢の中の暗い廊下が現実に重なって見えた。壁の向こうに、あの暗闇が透けているような感覚。


 スーパーで買い物をしている時、棚に並ぶ商品が一瞬だけ歪んで見えた。手を伸ばして缶詰を取ると、自分の指が六本あるような気がして、思わず数えた。一、二、三、四、五。五本。現実だ。


 大丈夫。ここは現実だ。


 しかし「大丈夫」と自分に言い聞かせなければならない時点で、すでに大丈夫ではないのかもしれなかった。


 麻衣が透の異変に気づいたのは、二人でカフェにいた時だった。


「透。何見てるの」


「え?」


「今、窓の外をずっと見てた。何もないのに」


 透は首を振った。窓の外に、暗い廊下が見えた気がしたのだ。一瞬だけ。街路樹と歩道の向こうに、コンクリートの壁と蛍光灯が重なって見えた。


「ちょっと疲れてるだけ」


 麻衣は透の顔をじっと見た。看護師の目だった。日常の麻衣ではなく、専門職としての麻衣の目。


「透。最近、前よりひどくなってない? 顔色も悪いし、ぼーっとしてることが増えた。目の焦点が合ってない時がある」


「薬を変えたから、その副作用かも」


「変えた? 桐生先生に? どんな薬に?」


 透は薬の名前を言った。麻衣の表情が変わった。眉が寄り、唇が結ばれた。


「聞いたことない名前だね。処方薬のデータベースにもないかも。ねえ、セカンドオピニオン取った方がいいんじゃない?」


「大丈夫だよ。桐生先生を信頼してるから」


 麻衣はそれ以上何も言わなかった。


 ただ、カフェを出る時に透の手をぎゅっと握った。小さな手だった。温かくて、力強かった。


 その手の温かさが、現実の確かな感触として透の掌に残った。


 今ここにいるのは現実だ。麻衣の手の温かさは、夢では感じられない。


 そのはずだった。



 五件目の事件が起きた。


 神奈川県の公園で、三十代の女性が金属製の棒状のもので殴打されて死亡しているのが発見された。


 透の夢日記にある、金属バットで殴られた夢と手口が一致していた。


 犯人は止まらない。そして透の夢も止まらない。


 断片が集まりつつある。手。火傷。匂い。声。名前。犯人の像が少しずつ形を結ぼうとしている。


 あと少し。あと少しで、顔が見える。


 透は新しい薬をテーブルに置き、グラスに水を注いだ。


 今夜も、夢の中で犯人に会いに行く。


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