第二章 容疑者
警察署の相談窓口は、殺風景なパイプ椅子とスチールデスクが並ぶだけの部屋だった。
蛍光灯の白い光が、壁の汚れまで照らし出している。窓はあるが、すりガラスで外は見えない。
透は受付で事情を説明し、待つこと四十分。
その間、二度ほど帰ろうかと思った。夢の話をして、まともに取り合ってもらえるはずがない。頭のおかしい女だと思われるのが関の山だ。
だが三人の女性が死んでいる。そして透の夢はまだ続いている。次の夢が、次の被害者を意味するなら。
帰るわけにはいかなかった。
ようやく現れたのは、スーツの上着を脱いだワイシャツ姿の男だった。ネクタイが少し緩んでいる。
「捜査一課の神崎です」
名刺を差し出しながら、男は透の正面に座った。
「篠宮透さんですね。連続殺人事件について情報提供があると聞きましたが」
神崎怜。三十代前半に見えるが、目の下にはうっすらと疲労の色が浮かんでいる。鋭い目つきと背筋の伸びた姿勢が、この人間が日常的に緊張の中にいることを物語っていた。
透は向かいの椅子に座り、自分でも馬鹿げていると思いながら話し始めた。
「夢を見るんです。毎晩、自分が殺される夢を。それが最近の殺人事件と一致しているんです」
神崎の表情は変わらなかった。
ただ、ボールペンの先がわずかに止まった。
「夢、ですか」
「はい。品川の浴槽の事件、さいたまの絞殺事件、世田谷の刺殺事件。三件とも、私が夢で見た殺され方と手口が一致しています」
「それは、ニュースで事件を知った後に夢を見た、ということですか」
「違います。夢が先です」
神崎は透の顔をじっと見た。嘘をついているかどうか見極めようとする、職業的な視線だった。透はその視線を真正面から受け止めた。
「夢の日付は覚えていますか」
「覚えています。最初の刺殺の夢は二月三日。品川の溺死の夢は二月五日。絞殺は二月六日です」
「品川の事件が報道されたのは二月十二日です。つまり、事件の一週間前に夢を見ていた、と」
「そうです」
神崎は手帳にメモを取った。透には、その手つきがあまりに事務的に見えた。信じていない。形式的に聞いているだけだ。
「篠宮さん。こういった情報提供はありがたいのですが、正直に申し上げて、夢の内容だけでは捜査に反映するのは難しい」
「わかっています。でもこれだけは聞いてください」
透は身を乗り出した。
「品川の事件。浴槽に沈められた被害者の両肩に、押さえつけた痕があったはずです。犯人は被害者の背後に立ち、両手で肩を掴んで顔を水に押しつけた」
神崎の目が微かに動いた。
「それと、浴室の窓は開いていた。犯人がそこから逃げたからです。窓の外は共用廊下に面していて、非常階段まで五メートルほどの距離だった」
神崎の顔色が変わった。
ペンが止まり、透を見る目が明らかに変化した。警戒の色が混じっていた。
「……どこでその情報を」
「夢で見ました」
「窓のことは報道されていません」
透は黙った。知っていた。だからこそ、ここに来たのだ。
「非常階段までの距離も、公表していない情報です」
神崎はゆっくり手帳を閉じた。穏やかだった声のトーンが、一段低くなった。
「篠宮さん。いくつか確認させてください。二月十一日の夜、あなたはどこにいましたか」
「……え?」
「品川の事件があった夜です」
透は一瞬、意味がわからなかった。
それから理解した。
自分が疑われている。
「家にいました。一人で」
「それを証明できる人はいますか」
「いません。フリーランスの一人暮らしですから」
神崎の目が細くなった。透は自分の心臓が冷えていくのを感じた。
情報を提供しに来たはずが、容疑者にされようとしている。未公開情報を知っていたことが、善意ではなく疑惑を招いた。
当然だ。考えてみれば当然だ。犯人しか知り得ない情報を持っている人間を、刑事が信用するはずがない。
「他の二件についても確認させていただきたいのですが、よろしいですか」
それから一時間、透は二件目と三件目の事件があった夜の行動を、細かく訊かれた。
自宅のパソコンの閲覧履歴。コンビニのレシート。スマートフォンの通話記録。
証明できるものは少なく、証明できないものばかりだった。一人暮らしのフリーランスの夜は、誰にも見られていない夜だ。
解放されたのは午後三時を過ぎてからだった。
署を出た透は、曇り空の下で深く息を吐いた。
来るんじゃなかった。
そう思った。だが同時に、来なければよかったとは思えない自分もいた。三人が死んでいる。四人目が死ぬかもしれない。自分にしか持っていない情報がある。
透は重い足取りで駅に向かった。
翌日から、透の周囲に変化が起きた。
自宅マンションの前に、見覚えのない車が停まるようになった。黒いセダン。ナンバーを覚えようとしたが、翌日には別の車に変わっていた。
コンビニに行くとき、少し離れた場所から同じ人間がこちらを見ている気配がする。スーツ姿の男。目が合うとさりげなく視線を逸らす。
尾行されている。
透はそれを確信しながら、日常を続けた。原稿を書き、コーヒーを飲み、夜になれば眠り、そして殺される夢を見た。
一週間後、神崎から電話があった。
「篠宮さん、少しお話があります。署まで来ていただけますか」
再び訪れた相談窓口で、神崎は以前とは少し違う表情を見せた。硬い警戒の奥に、困惑とも言える色が滲んでいた。
「あなたのアリバイを徹底的に調べました」
「それで」
「三件の事件すべてについて、あなたのアリバイが確認できました。品川の事件の夜は、マンションの防犯カメラに一晩中外出していない記録がありました。エントランスと非常階段、両方のカメラです。他の二件についても同様に、あなたが犯行現場付近にいなかったことが確認されています」
透は息を吐いた。
疑いが晴れた。しかし安堵よりも先に浮かんだのは別の感情だった。
「じゃあ、信じてもらえますか。私の夢の話」
「正直に言います。信じているわけではありません」
神崎は正面から透の目を見て言った。
「ただ、あなたが報道されていない情報を知っていたのは事実です。夢かどうかはともかく、何らかの方法であなたは犯行の詳細にアクセスしている。それが捜査に活かせる可能性があるなら、利用しない手はない」
「利用」
「言い方が悪かったかもしれません」
神崎は一拍置いた。
「協力を、お願いしたい」
声から事務的なトーンが少し抜けていた。
「あなたの夢の内容を、できるだけ詳しく教えてほしい。可能であれば、夢を見たらすぐに記録してください。日付、内容、殺害の方法、場所の特徴、犯人について気づいたこと。何でも構いません」
透はしばらく黙った。
それから、うなずいた。
「わかりました。ただし、条件があります」
「条件?」
「捜査の進展を教えてください。私は自分がなぜこんな夢を見るのか知りたい。事件のことがわかれば、手がかりになるかもしれない」
神崎は数秒考えてから、小さくうなずいた。
「公開できる範囲で」
こうして、透と神崎の間に奇妙な協力関係が生まれた。
刑事と情報提供者。それ以上でもそれ以下でもない。共有しているのは、事件を解決するという目的だけだった。
その夜から、透は夢日記をつけ始めた。
枕元にノートとペンを置き、夢から覚めるたびに、震える手で内容を書きつけた。
二月二十日。
ロープで首を吊らされた。犯人が背後からロープを引く力の強さ。つま先が床から離れる感覚。首の骨が軋む音。薄暗い部屋。コンクリートの壁。天井に鉄パイプが走っていた。犯人の手が見えた。大きな手だった。
二月二十一日。
駐車場で金属バットのようなもので殴られた。最初の一撃は右のこめかみ。衝撃で視界が弾けた。倒れた後も何度も振り下ろされた。コンクリートの冷たさ。血の味。犯人は何も言わなかった。ただ黙々と振り下ろしていた。
二月二十二日。
手を後ろで縛られ、顔にビニール袋を被せられた。呼吸ができない。ビニールが口に張りつく。必死でもがくが、手が動かない。透明な膜の向こうに犯人の影が見えた。ぼやけた輪郭。大きな体。
そして二月二十三日の夢で、透は初めて犯人の手をはっきりと見た。
大きな男の手。長い指。爪は短く切りそろえられている。
そして左手首の内側に、古い火傷の痕があった。
ケロイド状に盛り上がった、十円玉くらいの大きさの痕。ピンク色がかった白。それだけが、夢の中で異様にくっきりと見えた。まるで、そこだけ照明が当たっているように。
透はノートにそれを書き留め、翌朝すぐに神崎に電話した。
「犯人の手を見ました。左手首に古い火傷の痕があります。ケロイド状で、十円玉くらいの大きさです」
受話器の向こうで、神崎が息を呑んだのがわかった。
「火傷の痕ですか。他に身体的な特徴は」
「大きな手です。指が長い。男性で間違いないと思います。体格も大きい。百八十センチ前後」
「わかりました。記録しておきます」
神崎の声は相変わらず冷静だったが、以前ほど懐疑的な色は感じなかった。透が提供する情報の精度が、少しずつ神崎の中の何かを動かし始めていた。
四件目の事件が起きたのは、その二日後だった。
千葉県の住宅地で、三十代の女性が自宅で絞殺された遺体で発見されたと、夕方のニュースが伝えた。
透の夢日記には、五日前にロープで首を吊らされた夢の記録が残っている。
透は日付入りの夢日記のコピーを、事前に神崎に渡していた。事件の報道より前に書かれた記録。
もはや偶然では説明がつかなかった。
その夜、神崎から電話があった。
「千葉の事件現場に、事前の情報をもとに警戒配置を試みましたが、範囲が広すぎて間に合いませんでした」
透は唇を噛んだ。
「ただ、遺留品がありました。現場の近くに、犯人のものと思われる手袋が落ちていた。鑑識に回しています」
「手袋」
「ええ。医療用のラテックス手袋です」
医療用。透は引っかかるものを感じた。
「あなたの夢に何か、手袋に関する記憶はありますか」
透は目を閉じ、夢を思い返した。
「……いいえ。夢の中の犯人は、素手でした」
現実では手袋をしているが、夢の中では素手。
透が犯人の火傷の痕を見ることができたのは、そのためだった。夢は犯人の「行為」を映しているが、現実の防護措置は反映されていない。
透はノートを見つめ、ページを繰った。
殺害方法、場所の特徴、犯人の断片的な情報。一つ一つは小さな欠片だが、確実に像を結びつつある。
犯人はまだ捕まっていない。
そして夢は、今夜も来る。




