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第一章 最初の夢

 目を開けた瞬間、喉の奥にまだナイフの感触が残っていた。


 冷たくて、硬くて、じわりと熱い。


 刃が肉を裂く、あの嫌な抵抗感。気管を断ち切る鈍い衝撃。


 声を出そうとして出せない、あの絶望。


 篠宮透は布団の中で身を丸め、自分の首に手を当てた。


 傷はない。


 当たり前だ。夢なのだから。


 だが心臓はまだ暴れている。こめかみに血管の拍動が響いて、鼓膜の内側がどくどくと脈打っている。背中にびっしりと汗が張りついて、パジャマが肌に貼りつく不快さだけが、辛うじて意識を現実に繋ぎ止めていた。


 時計を見る。


 午前三時十七分。


 また、だ。


 透はゆっくり体を起こし、枕元のペットボトルに手を伸ばした。キャップを開ける指が震えている。ぬるい水が喉を通る。飲み込む感覚が、喉がまだ繋がっていることを教えてくれた。


 ようやく呼吸が落ち着いてくる。


 一週間前から、この夢が始まった。



 最初の夜は、知らない路地裏で背中を刺された。


 仕事帰りの道だったのだろうか。夢の中の透はコートを着ていて、バッグを肩にかけていた。


 足音が聞こえた。自分ではない、もう一つの足音。


 振り返ろうとしたが体が動かず、次の瞬間、背中に焼けるような衝撃が走った。


 膝から崩れ落ち、アスファルトに倒れ込む。頬に小石が食い込む感触だけが妙に鮮明だった。


 遠くで車のクラクションが鳴っていた。犯人の足音が離れていく。透は地面に横たわったまま、自分の血が広がっていくのを感じた。


 温かかった。自分の血は、こんなに温かいのかと思った。



 二日目は、マンションの屋上から突き落とされた。


 夜空が見えた。星はなく、雲が低く垂れ込めた灰色の空だった。


 背中を押す手の圧力。男の手だとわかった。大きくて、力が強くて、ためらいがなかった。


 落下しながら見上げた四角い空を、透は今でもはっきり思い出せる。屋上のフェンスが遠ざかっていく。風が耳元で吼えている。


 地面に叩きつけられる瞬間の衝撃は、意外にも一瞬だった。痛みよりも先に、視界が真っ白に弾けた。



 三日目は、浴槽に顔を押しつけられた。


 後頭部を鷲掴みにされ、湯船に顔を沈められた。水が鼻から入ってくる。口を開けたら水が流れ込んだ。


 もがいた。腕を振り回した。だが犯人の力は圧倒的で、透の抵抗はまるで意味をなさなかった。


 肺が焼ける。意識が遠のく。水面の下で見た天井の照明が、歪んだ月のように揺れていた。


 目が覚めた時、枕に顔を押しつけていたわけでもなかった。仰向けのまま、溺れる夢を見ていた。



 四日目は首を絞められた。


 五日目は鈍器で殴られた。


 六日目は毒を盛られ、体が内側から焼けるような痛みの中で意識を失った。


 七日目の今夜は、喉をナイフで裂かれた。


 手口が変わる。場所も変わる。けれど殺される自分と、見えない犯人だけはいつも同じだ。


 そして死ぬ瞬間の痛みだけは、毎回おそろしくリアルだった。


 夢から覚めても、しばらく体に痛みの残像が張りついている。首を絞められた翌朝は、喉に手を当てたまま一時間動けなかった。溺死の夢の後は、水を飲むのが怖くなった。


 これは、ただの悪夢ではない。


 透はそう思い始めていたが、それが何なのかはわからなかった。



 翌朝、透は二杯目のコーヒーを淹れながら、開いたままのノートパソコンを睨んでいた。


 フリーライターとして受けている雑誌の取材原稿。締め切りは三日後。だが一週間まともに眠れていない頭では、文章がまるで形にならない。


 書いては消し、消しては書く。


 三十分かけて仕上がったのは、たった二行。しかもどちらも気に入らない。


 透はため息をつき、椅子の背もたれに体を預けた。天井を見上げる。ワンルームマンションの白い天井。染みひとつない平坦な白が、かえって空虚に見えた。


 スマートフォンが鳴る。画面に表示された名前を見て、少しだけ口元がゆるんだ。


「もしもし」


「とーる、おはよ。生きてる?」


 日野麻衣。高校からの親友で、心療内科の看護師をしている。声が明るい。朝から元気な人間がこの世にいることが、透にはときどき信じられなくなる。


「かろうじて」


「声が死んでるよ。また寝てないでしょ」


 見透かされている。透は苦笑いを浮かべた。


「ちょっとね」


「ちょっとじゃないでしょ、その声は」


 麻衣の声が少しだけトーンを落とした。心配している時の声だ。


「ねえ、前も言ったけどさ、一回ちゃんと病院行きなよ。うちの先生紹介するから」


「……考えとく」


「考えとく、は行かないってことでしょ。透のそれ、もうずっと知ってるからね」


 麻衣の言葉に透は黙った。実際、麻衣の言う通りだった。


 「考えとく」は透の常套句で、実行されたことはほとんどない。


 しかし今回ばかりは、透自身も限界を感じていた。原稿は書けない。集中力が続かない。食欲も落ちている。それに、夢の中で死ぬ感覚が、日を追うごとにリアルになっていく。


 昨夜の夢では、ナイフが喉を裂く瞬間に、血の匂いまで感じた。鉄錆のような、生温い匂い。


 透は受話器を握り直した。


「……麻衣、紹介してくれる先生って、どんな人?」


 電話の向こうで、麻衣が一瞬黙った。


 それから弾むような声で答えた。


「桐生先生っていうの。四十くらいの男の人で、穏やかで話しやすい先生だよ。睡眠障害にも詳しいから、透にはぴったりだと思う」


「睡眠障害」


「うん。論文とか書いてるみたいで、夢の研究もしてるんだって。悪夢の治療にも実績があるって聞いた」


 夢の研究。悪夢の治療。


 それは今の透にとって、藁にもすがるような言葉だった。



 三日後、透は麻衣に紹介された桐生メンタルクリニックの待合室にいた。


 白とベージュを基調にした内装は清潔感があり、壁に掛けられた風景画がどこか不自然なほど穏やかだった。湖と山の絵。緑が鮮やかすぎて、現実の風景というより、誰かの理想の景色のように見えた。


 待合室には透のほかに患者の姿はなく、静かすぎる空間がかえって緊張を強めた。受付の女性が柔らかい笑顔で会釈してくれたが、透はうまく笑い返せなかった。


「篠宮さん、どうぞ」


 受付の女性に呼ばれ、診察室に入る。


 桐生圭吾は、麻衣の言った通り穏やかな印象の男だった。


 銀縁の眼鏡の奥の目は柔らかく、白衣の下にはきちんとアイロンのかかったシャツを着ている。患者を安心させるために訓練された微笑みを浮かべていた。


 デスクの上は整然としていて、ペンが一本、ノートが一冊、それだけが置かれていた。


「日野さんからお話は聞いています。毎晩、悪夢を見るんですね」


「はい。一週間ほど前から」


「どんな夢ですか」


 透は少し迷ってから、夢の内容を話した。


 毎晩殺される夢。毎回変わる手口。消えない痛みの感覚。目覚めた後も体に残る、死の残像。


 桐生はメモを取りながら、時折うなずいた。表情を変えずに聞いてくれる姿勢が、透には少し楽だった。誰かに話すだけで、胸の圧迫感がわずかに和らぐのを感じた。


「なるほど。殺害の方法が毎回異なる、というのは興味深いですね」


 桐生はペンを置き、透を見た。


「何か思い当たるストレス要因はありますか。仕事の締め切りとか、人間関係のトラブルとか」


「仕事は忙しいですけど、いつも通りです。人間関係も特に問題はなくて。だから余計に、なぜ急にこんな夢を見るようになったのかわからなくて」


「夢の中で、犯人の顔は見えますか」


「いいえ。いつも後ろからとか、暗い場所で。顔だけは絶対に見えないんです」


 桐生はペンを取り直し、何かを書き留めた。


「まずは睡眠の質を改善しましょう。軽い睡眠導入剤を出しますので、寝る前に服用してください。それと、夢の内容が気になるようでしたら、夢日記をつけてみるのもいいかもしれません。起きた直後に、覚えていることを何でも書く。続けていると、夢のパターンが見えてくることがあります」


 透は処方箋を受け取り、クリニックを出た。


 外に出ると、三月の冷たい風が頬に当たった。空は灰色。曇り空の下を歩きながら、透はクリニックの看板を振り返った。


 桐生メンタルクリニック。白地に黒い文字。清潔で、何の変哲もない看板。


 この人なら、助けてくれるかもしれない。


 透はそう思った。



 その夜、薬を飲んで眠りについた。


 薬が効いたのか、入眠はいつもより早かった。


 だが午前二時、透はまた飛び起きた。


 今度は、ビニール袋を頭から被せられて窒息させられる夢だった。


 透明なビニールが顔に張りつき、呼吸のたびに口元に吸い込まれる。吐く息でビニールが膨らみ、吸う息で顔に密着する。


 犯人の手が後頭部を押さえている。逃げられない。ビニール越しに見える世界が、白く曇っていく。


 薬は、夢を止めてくれなかった。



 さらに数日が過ぎた。


 夢は毎晩続き、透の顔色は目に見えて悪くなっていった。


 鏡に映る自分の顔は土気色で、目の下のくまは隠しようがない。頬がこけて、一週間前より二キロ痩せた。


 コーヒーの量が増えた。一日五杯。胃が荒れているのがわかったが、カフェインがなければ日中も意識がぼやけた。


 その朝、透はリビングのソファに座り、ぼんやりとテレビをつけた。


 朝のニュース番組。天気予報の後に、アナウンサーが表情を引き締めて原稿を読み始めた。


「昨夜、東京都品川区のマンションで、女性の遺体が発見されました。警察は殺人事件として捜査を進めています」


 透はコーヒーカップを口元に運びかけた手を止めた。


「被害者は近くに住む会社員の三十代女性で、自宅の浴室で溺死した状態で発見されました」


 浴室。溺死。


「浴槽には、無理やり押さえつけられた形跡があり――」


 透の手から、リモコンが落ちた。


 浴槽。顔を押しつけられる。水が鼻から入ってくる。後頭部を鷲掴みにされる圧力。


 十日前に見た、あの夢と同じだ。


 偶然だ。そう思おうとした。浴槽での殺害なんて珍しい手口ではない。ドラマや映画でもよくある。たまたま一致しただけだ。


 透はリモコンを拾い上げ、チャンネルを変えた。


 手が震えていた。


 しかし三日後、透はふたたびニュースの前で凍りつくことになる。


「埼玉県さいたま市の駐車場で、女性の遺体が発見されました」


 透は台所で皿を洗っていた。テレビの音声が耳に入り、手が止まった。


「首に絞められた痕があり、警察は殺人事件として捜査を――」


 スポンジが流しに落ちた。


 首を絞められた夢。四日目の夢。暗い屋外。背後から首に腕を回された。コンクリートの冷たさが背中に伝わっていた。


 透はテレビの前に移動し、画面を凝視した。駐車場の映像。ブルーシート。パトカーの赤い光。


 偶然が二度重なるだろうか。


 心臓が早鐘を打った。


 透は震える手でスマートフォンを取り、最初の事件のニュースを検索した。


 品川の事件。記事を読み直す。


 被害者は三十代の女性。自宅の浴室で溺死。両肩に押さえつけられた痕。


 透の夢では、犯人は被害者の両肩を掴んで浴槽に顔を押しつけていた。


 二件目。首を絞められた女性。駐車場。


 透の夢では、暗い屋外で後ろから首に腕を回された。コンクリートの冷たさが背中に伝わっていた。


 手口だけではない。場所の雰囲気も一致している。



 三日後、三件目の事件が報じられた。


「東京都世田谷区の住宅街で、女性が刃物で刺されて死亡しているのが発見されました。背後から刺されたとみられ――」


 背後から刺される。最初の夢。路地裏。背中にナイフが入る感触。振り返れない体。アスファルトに倒れ込む重力。


 三度目の一致。


 透はテレビの前で膝を抱え、動けなくなった。


 偶然ではない。


 自分の夢は、現実に起きている殺人事件と繋がっている。


 そう確信した瞬間、恐怖とはまた違う感情が透の胸を満たした。


 もし自分の夢が、これから起きる事件を映しているのだとしたら。


 次の被害者を、救えるのではないか。


 いや、救わなければならないのではないか。


 透はソファから立ち上がり、スマートフォンを握りしめた。


 最寄りの警察署の電話番号を検索した。

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