Scene 3:鋼鉄の揺り籠と罠
翌朝。
スカーレットはセント・アークの中央駅から、北方行きの魔導特急『ニーズヘッグ』に乗り込んだ。
ここからバルカス領までは三日間の旅路となる。
一等客室は、走る社交場だった。
深紅の絨毯、マホガニーのテーブル。
スカーレットが窓際の席で紅茶を啜っていると、通路側から不快な怒鳴り声が響いてくる。
「おい給仕! 酒が遅いぞ! 私を誰だと思っている!」
肥え太った中年男――身なりからしてどこかの小貴族だろう――が、若い女性乗務員を怒鳴りつけ、持っていた杖で彼女の足を小突いている。
「も、申し訳ございません……!」
「ふん、平民が。教育してやるから、あとで私の個室に来い」
見るに堪えない、典型的な腐敗貴族の姿。
スカーレットはカップを置き、その様子を横目で眺めた。
この瞬間、彼女の脳内で【並列思考】の魔術が起動する。
脳内に構築した仮想パーティションで、劉玄雲の人格をエミュレートし、二つの視点を同時に走らせる。
【思考領域A:スカーレット(オリジナル人格・貴族の娘)】
(……なんて下劣な。同じ貴族として恥ずかしいわ。あの乗務員さん、震えている。助けてあげなきゃ可哀想よ)
【思考領域B:劉玄雲(エミュレート人格・達人)】
(……隙だらけだ。右脇が空いている。あの杖の角度なら、奪い取って顎を砕くのに〇・二秒もかからんな。殺す価値もない豚だ)
二つの声が、脳内で同時に響き、会議を行う。
少女の義憤と、老人の殺意。
相反するはずの二つが、魔導回路を通じて奇妙に同居している。
(……落ち着きなさい、劉。ここで騒ぎを起こせば、バルカス領に入る前に足がつくわ。それに、貴方のエミュレートには魔力を食うのよ)
(ふん。分かっている。だが、あの手つきは気に食わん)
スカーレットは小さくため息をつくと、席を立ち、男の横を通り過ぎざまに――
「つまづいたフリ」をして、男の足の甲をヒールで正確に踏み抜いた。
勁を乗せた、骨に響く一点集中の一撃。
「ぎゃあっ!?」
男が悲鳴を上げて転げ回る。
スカーレットは驚いた顔を作り、扇子で口元を隠した。
「あら、ごめんなさい。……あまりに通路にはみ出しておられたので、ゴミかと思いましたわ」
優雅な礼。
完璧な貴族令嬢の振る舞いに、周囲の客からはクスクスと失笑が漏れる。男は顔を真っ赤にして、捨て台詞を吐きながら逃げ出した。
「ありがとうございます……!」
「いいえ。お仕事、頑張ってね」
乗務員に微笑みかけ、席に戻る。
窓の外には、美しい田園風景が流れていた。
【思考領域A:スカーレット】
(すごい速度……! これならすぐに着くわね)
【思考領域B:劉玄雲】
(……地形が変わったな。あの山の稜線、伏兵を置くには絶好のポイントだ。この速度で移動する場合、攻撃をするなら次のトンネルか……)
老武人の勘が、不穏な空気を察知した。その時だった。
――キェェェェェッ!!
鋭い鳴き声と共に、列車の屋根に何かが激突する衝撃が走る。
窓の外、空を覆う黒い影。
ワイバーンの群れだ。
「キャアアッ!?」
「ま、魔物だ! なぜこんな所に!?」
車内はパニックに陥る。
車掌が青ざめた顔で駆け込んできた。
「お、落ち着いてください! ワイバーン程度であれば、この列車の対空防御システムで対応できます!」
車掌の言葉通り、車両から魔導砲が展開され、数匹のワイバーンを撃ち落とす。
だが、次の瞬間。
ブシュン、と嫌な音を立てて、防御結界が消失した。
「なっ……エラー!? 防御システムがダウンしました!?」
絶望する車掌。
だが、スカーレット(劉)だけは冷静だった。
(……やはりな。タイミングが良すぎる。これは故障じゃない、プログラムされた『罠』だ)
スカーレットの実力を測るために、魔獣使いが差し向けられたのだ。
ここで死ぬならそれまで。生き残れば、さらなる警戒対象となる。
(面白い。やってやろうじゃないか)
劉の人格が好戦的に笑う。だが、相手は空を飛ぶワイバーン。近接戦闘だけでは分が悪い。
(スカーレット、身体を借りるぞ。物理は俺がやる。魔法はお前が組め)
(了解。でも、魔力を無駄にはしたくないわ。……『ハッタリ』で行くわよ)
スカーレットは席を立ち、風圧渦巻く列車の屋根へと飛び出した。
「キシャアアッ!」
一匹のワイバーンが火球を吐きながら急降下してくる。
スカーレット(劉)は、揺れる屋根の上で体軸を全くぶらさず、突っ込んでくる鉤爪を最小限の動きで回避。すれ違いざまに、ワイバーンの翼の膜を短剣で切り裂いた。
バランスを崩し、墜落していく魔獣。
だが、群れはまだ十匹以上いる。
「……よく聞きなさい、蜥蜴ども」
スカーレットは右手を天に掲げた。
膨大な魔力が渦巻く――ように見える「光」を展開する。
それは、実質的な攻撃力は皆無だが、視覚的・魔力的威圧感だけを極大化させた【擬似・戦略級殲滅魔法】の幻影。
「消し飛びたくなければ、去れ」
知能の高いワイバーンたちは、本能的な恐怖を感じ取った。
さらに、遠くで操っていた魔獣使いの命令すら無視し、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
「ふぅ……。燃費ゼロで済んだわね」
スカーレットは髪を直し、涼しい顔で客室へと戻った。
呆然とする乗客たち。
その中から、一人の幼い貴族の少女が駆け寄ってきた。
「あ、あのお姉様! ありがとうございました……! 凄かったです!」
「ふふ、怪我がなくて何よりですわ」
スカーレットは聖母のような微笑みで少女の頭を撫でた。
その横顔には、慈愛と、底知れぬ実力への自信が満ちていた。




