第5章:柔らかなる毒、次元を穿つ愛
氷原の一角では、大気が悲鳴を上げるほどの重低音が響き続けていた。
ドゴォォォォォッ!!
衝撃波が雪を巻き上げ、クレーターを作る。
「オラオラオラァッ!! どうした紅蘭! 借りてきた猫みたいにお上品な拳じゃない!」
マーガレットが吼える。
彼女の拳は、陳美麗が得意とした剛拳・『羅王拳』。
一撃必殺の破壊力を、怒涛の連打で叩き込む制圧前進。
「フフッ、相変わらず野蛮な戦い方ですわね、老師」
対する李紅蘭もまた、同じ『羅王拳』で応戦していた。
真っ向からの打ち合い。
拳と拳がぶつかるたびに、火花のような魔力が散る。
(……チッ、硬い!)
マーガレットは舌打ちした。
技術は互角。だが、スミスが言っていた通り、紅蘭の身体スペックは異常なほど強化されている。 「剛」の打ち合いでは、出力と耐久力に勝る紅蘭が徐々に押し始めていた。
「どうしました? 息が上がっていますよ?」
紅蘭は涼しい顔で、マーガレットの豪腕を弾き返す。
「貴女の羅王拳は確かに強力ですが……所詮は『古い』。私の演算能力と身体スペックの前では、ただの力任せの暴力ですわ」
「うるさいっ! 愛があればスペックなんて関係ないのよ!」
マーガレットがさらに踏み込む。
渾身の右ストレート。
岩盤をも砕く必殺の一撃。
だがその瞬間、紅蘭の雰囲気が変わった。
剛直な岩のような気配から、掴みどころのない流水へ。
「……あら、まだ気づいていらっしゃらない?」
紅蘭が、ふわりと脱力した。
マーガレットの拳が紅蘭の胸元に突き刺さる――はずだった。
しかし、その感触は「ヌルリ」とした不快なものだった。
「なっ……!?」
拳が滑る。
紅蘭は身体を蛇のようにくねらせ、衝撃を完全に受け流していたのだ。
そして、流れるような動作でマーガレットの懐に潜り込む。
「私の家に伝わる秘伝……『李氏綿華流水拳』」
紅蘭の掌が、マーガレットの顎を撫でるように打ち上げられた。
パンッ。
軽い音。
だが、脳が揺さぶられ、視界が明滅する。
「ぐっ……ううっ!?」
マーガレットがよろめく。
そこへ追撃の掌底、肘打ち、足払いが襲いかかる。
一撃一撃は軽いが、急所を的確に突き、重心を崩し、反撃の芽を摘む絶妙な連撃。
「剛の拳しか知らない貴女には、この『柔』の極致は理解できなくて?」
紅蘭が舞うように攻め立てる。
マーガレットは防戦一方だった。
殴ろうとしても柳に風、捕まえようとしても水のようにすり抜ける。
剛拳の天敵。
しかも、スペック差で上回る相手による完璧な柔術。
「がはっ……!」
マーガレットは氷上に叩きつけられた。
立ち上がろうとするが、三半規管が狂わされ、平衡感覚がない。
「終わりですね、美麗老師。……愛していましたよ、貴女のその単細胞な強さを」
紅蘭が右手に紫色の毒気を纏わせた。
かつて陳美麗を殺した猛毒の手刀。それを心臓に突き立てようと振りかぶる。
絶体絶命。
だが、その時。
マーガレットの口元が、ニヤリと吊り上がった。
「……単細胞? 誰が?」
ドクンッ!!
マーガレットの背後から、黄金の光が噴き出した。
それは単なるオーラではない。
空間そのものが歪み、千切れるような亀裂が無数に走る。
『やれやれ、みっともないわねぇ美麗』
マーガレットの口から、彼女のものではない声――「第三の魂」の声が響く。
『柔よく剛を制す? ちゃんちゃらおかしいわ。圧倒的な「質量」の前には、小手先の技術なんて無意味なのよ』
「な、何ですの……その気配は!?」
紅蘭が初めて警戒の色を見せ、バックステップで距離を取る。
マーガレットがゆらりと立ち上がった。
その背後には、まるで千手観音か阿修羅のような、無数の腕の幻影が揺らめいている。
それは幻覚ではない。異なる次元から干渉してくる「実体」の投影。
「ねえ紅蘭。アンタの流水拳は、あくまで『この世界(3次元)』の物理法則を利用した受け流しでしょ?」
マーガレット(第三の魂)が指を鳴らす。
「じゃあ、避ける場所がない攻撃なら、どう受け流すのかしら?」
彼女が拳を構える。
ただの正拳突き。
だが、その構えと同時に、紅蘭の前後左右、上下、あらゆる空間に「拳の波紋」が出現した。
「第三の魂・限定解放……『多次元同時攻撃』・再現率80%」
マーガレットが拳を突き出した。
一発。
たった一発の突きが、次元の鏡に反射し、増殖し、数百の拳となって紅蘭に殺到する。
正面からの拳を受け流しても、背後から、頭上から、足元から、同時に拳が迫る。
「きゃあああああっ!?」
紅蘭の悲鳴。
流水の防御など成立しない。
これは技術の攻防ではない。
空間そのものを飽和攻撃で埋め尽くす、理不尽な暴力。
ドガガガガガガガガガッ!!!!!
紅蘭の身体が、四方八方から見えない拳にタコ殴りにされ、空中に固定されたまま滅多打ちにされる。
「ははっ! すごい! これなら避けようがないわね!」
主導権を取り戻したマーガレット(陳美麗)が笑う。
「さあ紅蘭! 私の愛(拳)を、骨の髄まで受け止めなさいッ!!」
圧倒的な逆転劇。
だが、第三の魂が警告する。
『調子に乗るんじゃないわよ。今の身体じゃ80%が限界。……長続きはしないわ』
タイムリミット付きの無双モード。
マーガレットは、このわずかな時間に全てを賭けて、かつての恋人へと突貫した。




