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第9章:受肉する悪意、微笑む絶望

 崩落した要塞から立ち上る黒煙。


 それは本来なら風に流され、霧散していくはずのものだった。

 だが、その狼煙のろしは消えるどころか、まるで意志を持ったかのように一点に収束し始めていた。


『……おい、待て』


 勝利の余韻に浸るスカーレットの脳内に、劉の焦燥した声が響く。


『おかしい。質量保存の法則を無視してやがる。……あの煙、集まって何になる気だ?』


 収束した黒煙と魔力光が、一つのシルエットを形成する。


 現れたのは、スミスではない。


 透き通るような白磁の肌。星々を溶かし込んだような瞳。

 性別すら超越した完璧な美貌を持つ、一人の「人間」だった。


 その存在がそこに在るだけで、大気が震え、空間が悲鳴を上げている。


『……嘘だろ』


 劉の演算プロセッサが、弾き出した答えに戦慄する。


『あれはスミスの成れの果てじゃねえ。……これまで俺たちが戦ってきた「悪意の残滓」や「影」……その大元である「悪意の真実」そのものだ! 依り代(器)を通してしか干渉できなかった概念が、質量を持って受肉してやがる!』


「概念が、肉体を持ったというの……!?」


 スカーレットは息を呑んだ。


 美しい怪物は、ただ静かに微笑んだ。

 その瞬間、スカーレットの全身を原初的な恐怖が貫いた。

 それは、生物が「死」という概念を初めて認識した時のような、抗いようのない絶望。


(……勝てない)


 剣を持つ手が震える。膝が笑う。

 目の前にいるのは敵ではない。嵐や地震と同じ、ただそこにあって命を奪うだけの「理不尽」そのものだ。

 視界が暗く染まっていく。思考が塗りつぶされていく。ああ、もう楽になりたい――。


「させないわよッ!」


 凛とした声が、鼓膜を叩いた。


 ハッとして顔を上げる。


 目の前には、マーガレットが立っていた。

 彼女の小さな背中が、圧倒的な絶望からスカーレットを庇うように立ちはだかっていた。


「私の前で、お姉様を絶望させるなんて……百万年早いのよ!」


 マーガレットの拳からほとばしる金色の闘気が、迫りくるプレッシャーを押し返している。


(……ああ、そうか)


 スカーレットの意識が、絶望の淵から急速に戻ってくる。


 自分はいつだってそうだ。肝心なところで詰めが甘くて、すぐくじけそうになるポンコツ娘だ。

 でも、だからこそ。

 支えてくれる背中がある。

 引っ張ってくれる手が、叱咤してくれる声がある。


(情けないわね、私。……でも、悪くない)


 スカーレットは震える脚に力を込め、大地を踏みしめた。

 剣を構え直す。

 もう、切っ先は揺れていない。

 その二人の背中を見て、セレスティアは優しく微笑んだ。

 かつて孤独な呪術士として生きた彼女にとって、互いに背中を預け、恐怖さえも分かち合うその姿は、何よりも眩しい幸福の光景だった。


「……さて、私もお仕事サポートしませんとね」


「行くわよ!」


 スカーレットの号令と共に、三方向からの同時攻撃が放たれた。

 だが、怪物は優雅に手を振っただけだった。


 パリン。


 すべての攻撃が、ガラス細工のように空中で砕け散る。


「……嘘でしょ?」


 マーガレットが絶句する。

 怪物は慈愛に満ちた瞳で三人を見下ろした。

 庭師が、伸びすぎた雑草を見るような目で。


「わずかな時間に私への対処法を生み出すか。……この箱庭の生物にしては、優秀ですね」


 怪物は指先を向ける。

 それだけで、足元のビルが「砂」へと還元され、崩落した。


「くっ……! 撤退ッ!」


 崩れる瓦礫の上で、スカーレットたちは距離を取る。


『……分かったぞ』


 劉が呻くように言った。


『戦ってみて分かった。こやつ、この世界イザムバードの存在じゃねえ。俺たちの前世の世界でも、マーガレットの異次元とも違う……もっと上位の領域から、直接やってきた輩だ』


「あやつは、ルールそのものを無視して降りてきた『超越者』の端末だ」


 セレスティアは、青ざめた顔で怪物を見つめていた。


 彼女の周囲には、懐から放たれた無数のおびただしい数の呪符が浮遊している。

 それらは独自の軌道を描きながら、怪物の放つ波動を観測・解析していた。


「……解析完了チェックメイトには程遠いですけれど」


 セレスティアは浮遊する符を指先で操りながら、冷や汗を拭った。


「あのお方の構成術式、存在目的……すべてが『虚無』ですわ。支配や統治などという人間的な欲求ではありません。どうやら、純粋な『破壊』……この世界を更地に戻すことだけが目的のようです」


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