第5章:妹の皮を被った餓狼
翌朝。
幾何都市クアドラに、人工的な——しかし規則正しく美しい——朝日が昇った。
スカーレットは重い瞼を擦りながら、身支度を整えていた。
昨夜、劉から聞かされた「融合の罠」の話。そして、窓の外に広がる歪な街の風景。それらが気になって、熟睡できたとは言い難い。
「……まずは朝食ね。腹が減っては戦もなんとやらだわ」
スカーレットがドアノブに手をかけた、その瞬間だった。
バンッ!!
ノックもなしに、ドアが外側から勢いよく開かれた。
反射的にバックステップで回避するスカーレット。
そこに立っていたのは、満面の笑みを浮かべたマーガレットだった。
「おっはよー! スカーレットお姉様!」
「……あなたね。人の部屋に入るときはノックをしなさいと教わらなかったの?」
「したよ? 心の中で!」
マーガレットは悪びれもせず、スカーレットのパーソナルスペースを軽々と踏み越えてくる。
昨日のレザー・スーツ姿とは違い、今日はフリルがついた可愛らしいチュニックを着ている。完全に「無害な妹」の擬態だ。
「ねえねえ、一緒に朝ごはん食べに行こうよ! 私、お姉様のために美味しいお店リサーチしておいたんだから!」
言いながら、マーガレットはスカーレットの腕にギュッと抱きついてきた。
柔らかい感触。甘い匂い。 普通ならドキッとする場面だが、スカーレットの武人としての勘は、背筋に悪寒を走らせていた。
(……目が、笑ってない)
甘えた声を出しながら、マーガレットの瞳孔は獲物を狙う猛獣のように開かれている。
腕に回された手の力も強すぎる。これは抱擁ではない。関節技の予備動作だ。
「……離してちょうだい」
「や・だ! お姉様と一緒じゃなきゃやだ!」
マーガレットは頬を膨らませて上目遣いをする。
完璧な「あざとい妹」の仕草。
だが次の瞬間、彼女は誰にも聞こえないような小声で、低く毒づいた。
「(……チッ。なんだこの軟弱なボディは。私の計算では、ここで顎をクイッと持ち上げて、強引に唇を奪うはずだったのに……! なんで勝手に『甘えん坊モード』が起動するんだ、このポンコツ肉体め!)」
スカーレットは耳を疑った。
「……いま、何か言った?」
「えへへ、なんでもなーい! 早く行こ、お・ね・え・さ・ま♡」
マーガレットは強引にスカーレットを引きずって廊下へと歩き出す。
その背中を見ながら、スカーレットの脳内で沈黙していた劉が、突然素っ頓狂な声を上げた。
『……おい。嘘だろ』
(どうしたの、劉)
『あいつの魔力波長……そして、あの独特の「距離感のなさ」。まさか……いや、ありえん』
劉は何かを確信したように、記憶の引き出しをひっくり返しているようだ。
『スカーレット、あいつにカマをかけてみろ。前世の名は——「陳美麗」ではないかと』
(陳美麗? 誰よそれ)
『俺の前世と同時期に中原国の近くに、昨日マーガレットが言った『大唐民国』があった。あの女の前世は大唐武術の伝説の女傑だ』
『「羅王拳」宗師にして、気に入った美少女を片っ端から食い荒らした、「稀代の女狼」だ』
(……はぁ!?)
スカーレットは引きつった顔で、腕にまとわりつく少女を見下ろした。
この、愛くるしい子犬のような少女の中身が、その伝説の変態武術家だというのか?
「……ねえ、マーガレット」
「なぁに? お姉様」
「あなた、前世の名前は……『陳美麗』と言ったりしない?」
ピタリ。
マーガレットの足が止まった。
廊下の空気が凍りつく。
彼女はゆっくりと振り返った。
その顔から「妹」の甘さは消え失せ、歴戦の武人が持つ凄絶な覇気が立ち昇る。
「……ほう。この辺境の世界で、その名を知る者がいるとはな」
声色が変わった。
ハスキーで、威圧感のある低い声。
彼女はスカーレットの腕を離し、壁に手をついて「壁ドン」の体勢を取った。
「いかにも。私が羅王拳宗師、陳美麗だ。 ……ふふ、正体がバレたなら仕方ない。これ以上、妹の演技は終わりだ。 スカーレット、お前は私の——」
そこで、彼女はスカーレットの顎に指を添え、妖艶に微笑もうとした。
はずだった。
「私の……ああっ、お姉様ぁっ! なでなでしてぇっ!!」
「……は?」
マーガレット(陳美麗)は、自分の意思とは裏腹に、スカーレットの胸に顔を埋めてグリグリと頭を擦り付け始めた。
「ち、違う! 私はお前を支配しようと……! くそっ、なんだこの『妹本能』は! 尻尾を振るな私の魂! 私は孤高の狼だぞ!?」
彼女は自分の頭をポカポカと殴りながら、涙目でスカーレットを見上げた。
「……ごめんなさいお姉様……。私、融合に失敗して……カッコつけようとすると、身体が勝手に甘えん坊になっちゃうの……ううっ……」
スカーレットは呆然と立ち尽くし、やがて深い溜息をついた。
(……劉)
『なんだ』
(……完全融合しなくて、本当によかったわ)
『ああ。……俺も、お前に「おじいちゃん、肩もんで♡」とか言い出さなくて済んで、心底ホッとしている』
スカーレットは、足元でじゃれついてくる「伝説の武術家(の成れの果て)」の頭を、諦めたように撫でた。
どうやら、この都市の闇よりも先に、この面倒くさい「妹」をどうにかしなければならないらしい。
「よしよし。……とりあえずご飯に行きましょう、美麗さん」
「マーガレットでいいもん! ……ああっ、でももっと撫でて! そこ気持ちいい!」
幾何都市クアドラの朝は、騒がしく幕を開けた。
「あーん! ほらお姉様、口開けて!」
「……自分で食べられるわよ」
「だーめ! 私が食べさせたいの!」
幾何都市クアドラのカフェテラス。
周囲の客が微笑ましげに(あるいは呆れて)見る中、スカーレットはマーガレットにサンドイッチを押し付けられていた。
見た目は美少女同士の微笑ましい朝食風景。
だが、その実態は「元おっさん(劉)」と「元女狼(陳美麗)」が混在するカオス空間だ。
(……やれやれ。陳美麗ともあろう者が、ここまで肉体に振り回されるとはな)
スカーレットの脳内で、劉が呆れ返った声を出す。
だが。
劉の意識は、ふとマーガレットの「奥」に向けられた。
『……ん?』
マーガレットがスカーレットの口元のソースを指で拭った、その一瞬。
接触した指先から、奇妙なノイズが走ったのだ。
(……なんだ、今の波長は)
劉はスカーレットの視覚を借り、マーガレットを凝視する。
表層には、甘えん坊な「妹」の自我。
その奥には、獰猛な武術家「陳美麗」の魂が鎮座している。
そこまではいい。想定内だ。
だが、劉の老獪な感覚は、さらにその「奥底」にある違和感を見逃さなかった。
陳美麗の魂の影に隠れて、「もう一つ」ある。
小さく、冷たく、そして異質な光。
(……地球の波長じゃない)
劉は戦慄した。
陳美麗自身も気づいていないかもしれない。
それは、劉が知る地球の魂とも、この異世界の魂とも違う、全く未知の座標から来た何かの気配。
『……スカーレット』
「もぐもぐ……なによ」
『いや。……なんでもない』
劉は口をつぐんだ。
今はまだ、確証がない。だが、この天真爛漫な「妹」の中には、陳美麗よりもさらにヤバい「爆弾」が埋まっている可能性がある。
『(……退屈はしなさそうだが、胃が痛くなりそうだ)』
劉の懸念を知らず、マーガレットは「次はデザートね!」と無邪気に笑った。




