第1章:英雄の憂鬱と、幾何都市クアドラ
旅の途中。
立ち寄った宿場町の酒場で、スカーレットは何度目かの深い溜息を噛み殺した。
耳に入ってくるのは、吟遊詩人が高らかに歌う「英雄譚」だ。
「聞け、皆の衆! 北の凍土を溶かすほどの熱き心!」
「狂乱の『北の賢公』を正気に戻し、民を救った救世の乙女!」
「その名は『紅蓮の龍姫』! 絶世の美貌と、悪を断つ神の雷を持つ!」
酒場の客たちは「おお!」とジョッキを掲げて盛り上がっている。
それだけではない。
街に入り何気なく立ち寄った書店で、子供たちがある絵物語に夢中になっていた光景が脳裏をよぎる。
表紙には、デフォルメされた赤いドレスの少女が、悪いドラゴン(おそらくゲオルグ公爵の暗喩だ)を退治している絵が描かれていた。
「見て見て! 龍姫さま、かっこいい!」
スカーレットは気恥ずかしさを覚え、眩暈がした。
また、街中に張られた巡回劇場のポスターの前に人だかりができており、ちらりと見ると「『紅の龍姫、愛と涙の決戦』だって!」という煽り文句まで踊っていた。
どうやら、あの熾烈な戦いは既に大衆娯楽として消費され尽くしているらしい。
その喧騒の片隅で、スカーレットはフードを目深にかぶり直し、琥珀色の酒を煽った。
(……やってくれたわね、ゲオルグ)
これは、あの「北の賢公」ことゲオルグ・ヴァン・バルカスが流した噂だ。
彼は今、北の領地で復興と統治に尽力しているはずだ。
別れ際、彼は憑き物が落ちたような顔で、深々と頭を下げて言ったのだ。
『我が命をもって償いを……』
そう言った彼に対し、スカーレットは生きることを命じた。
死んで楽になることは許さない。その高い能力を、領民のために使い潰せと。
『……承知いたしました。ほんの少ししかお手伝いできませんが、私の残りの人生、すべて貴女様の覇道のために捧げましょう』
確かに、正体不明の旅人であるスカーレットにとって、英雄という身分証明書は便利だ。
検問もフリーパス、宿も上等な部屋が取りやすくなる。
だが、ここまで大掛かりにやられると、話は別だ。
亡き父の仇敵でありながら、今は奇妙な共犯関係にある男。その「贖罪」という名の過剰な奉仕に、遠隔地から踊らされている気がしてならない。
(なんか……勝った気がしないわ)
心の中で毒づくと、劉が忍び笑いを漏らした。
『諦めろ。あやつの前世——眞垣徹は、こっちの世界でも仕事人間らしいからな。「償い」となると、徹底的に効率化してきやがる』
『……知ってるわよ。数学者としても剣客としても天才だったけど、性格は破綻者だったんでしょう?』
『ああ、その通りだ。その性悪さのおかげで、俺たちはこうして動きやすいとも言える』
†
数日後。
劉の術式が指し示す方角へ進み続け、スカーレットはある地方都市へとたどり着いた。
幾何都市クアドラ。
その名の通り、定規で引いたような直線と四角形で構成された街だ。
街の入り口には検問所があったが、その警備は拍子抜けするほど簡素なものだった。
ゲオルグの領地では、それこそ前世世界の国際空港の入国審査並みに厳重なチェックが行われていたが、ここは衛兵が欠伸交じりに立っているだけだ。
「はい、身分証出してー」
「……どうぞ」
「ん、犯罪歴の反応なし。はい通っていいよー」
魔導具による簡単なスキャンのみ。
あまりの適当さに、スカーレットは気が抜ける思いだった。
(……この街の領主、確か「ヴァレリウス伯爵」だったわよね)
スカーレットは貴族の嗜みとして、王国内の有力貴族の情報は頭に入れている。
ヴァレリウス伯爵。
「戦争の天才」として名を馳せ、自分の領地だけでなく、王国全体の領土拡大にも尽力した武人。その功績により、一代で男爵から伯爵へと階級を上げた傑物だ。
(戦争の天才が治める街にしては、随分と平和ボケしているのね)
だが、街門をくぐった瞬間、その評価は一変した。
強烈な不快感が背筋を走ったのだ。
「……なに、これ」
『……吐き気がするな』
劉の声は、かつてないほど低く、嫌悪に満ちていた。
『一見、整然としている。だが、根本の設計思想が狂っていやがる』
スカーレットにも、感覚的にそれが分かった。
道の角度が、生理的に不安になる鋭角で交差している。
建物の配置が、人間の動線を無視した奇妙なリズムで並んでいる。
まるで、人間が住むためではなく、何か別の「目的」のために配置された基板のような街。
『ゲオルグの領地のような機能美とは対極だ。あそこは厳格だが美しかった。ここは……無理やり形を整えられた、歪な箱庭だ』
そして、何より異様なのは住人たちだった。
「いらっしゃいませ。良い品が入っていますよ」
露店の商人が笑いかけてくる。
服は清潔だ。肌ツヤも悪くない。
けれど、その目の奥が、泥のように濁っている。
誰もが、どこか疲れ切っていた。見えない重りを引きずりながら、決められた台詞を吐く舞台装置のように振る舞っている。
生気のない豊かさ。
絶望すら麻痺したような平穏。
(……整いすぎているのに、歪んでいる)
スカーレットは胸の悪さを抑えるように、マントの胸元を握りしめた。
そこには見えないが、魂に刻まれた父の「刻印」が熱を帯びるような気がした。
「『悪意の真実』の反応は?」
『この、ふざけた迷路の中心部から漂ってきやがる』
劉が吐き捨てるように言った。
『どうやら、ただの観光旅行とはいかなそうだな』
スカーレットは無言で頷き、その歪な街の奥へと足を踏み入れた。




