第1章:潜龍(せんりゅう)、淵に在り
Scene 1:黄金と残り香
北の都、商業区の一角。
石造りの重厚な建築物――「王立魔導銀行」の支店は、今日も欲望と安堵を求める人々でごった返していた。
その喧騒の中を、一人の少女が歩いていた。
燃えるような紅の髪。年齢は十九、二十といったところか。
擦り切れた旅装束に身を包んでいるが、その背筋は糸で吊り上げられたかのように正中線が通っており、雑踏の中にあっても誰とも肩が触れ合うことがない。
(……身体が軽いな。エミュレーションの同期率は良好だ)
少女――スカーレット・フォン・ヴァーミリオンは、内心で自身のコンディションを確認した。
彼女の脳内には、奇妙な二重構造が存在する。
ベースとなるのは「スカーレット」という少女の人格。
そして、その脳内の魔導回路を利用して構築された仮想領域にて、かつて異世界で八十年の生涯を武に捧げた老人、劉玄雲の人格と記憶が、一種の「アプリケーション」として稼働しているのだ。
通常なら人格の融合や乗っ取りが起きるところを、劉は転生直後、女性の肉体と魔導回路という未知の機構に興味を持ち、あえて自分を「補助OS」として再定義することで共存を選んだ。
すべては、彼の「面白いことへの探求心」ゆえである。
彼女は慣れた手つきで、壁面に埋め込まれた無骨な金属筐体――自動魔導預入機(AMT)の前へと進んだ。
懐から取り出したのは、一枚の薄いミスリル製のカード。
スリットに滑り込ませ、右手を水晶のパネルにかざす。
『魔力波紋、照合中……』
『認証完了。ようこそ、ヴァーミリオン様。暗証術式を入力してください』
彼女は指先で空中に複雑な軌跡を描く。
傍から見ればただの指遊びだが、これは転生前の世界にあった「テンキー」の配置を模した、彼女と母だけの秘密の符号だ。
ガチャン、と重い音を立てて、吐き出し口から革袋が押し出される。
中身は金貨五十枚。逃亡生活と武具の手入れ、そして情報収集には十分な額だ。
「……ふん」
スカーレットは革袋を掴むと同時に、排出された一枚の羊皮紙――利用明細書を手に取った。
見るべきは、末尾に印字された極小の文字列だ。
『季節の変わり目です。ルークは風邪をひきましたが、もう治りました。ミーナは貴女の好きな歌を毎日歌っています。……愛しています、私の紅い宝石』
スカーレットの指が、ピクリと止まる。
母からの、暗号化されたメッセージ。
生存報告と、変わらぬ愛。
前世では知ることのなかった、血の繋がった家族の暖かさが、胸の奥を焦がすように駆け抜ける。
(……甘いな、私も)
彼女は自嘲気味に口角を上げると、指先に極小の炎を灯した。
羊皮紙は一瞬で燃え上がり、灰となって床に落ちる前に消滅した。
情報は残さない。未練も残さない。
だが、その熱だけは、冷え切った復讐者の心臓を動かす燃料となる。
「行くか」
金貨の重みを腰に感じながら、スカーレットは踵を返した。
銀行を出た瞬間、彼女の纏う空気が変わる。
雑踏のざわめきの中から、自分に向けられた異質な「視線」を感じ取ったのだ。
殺気ではない。もっと粘着質で、冷徹な観察の目。
(……尾行か。数は三。足音の消し方からして、素人のそれではないな)
スカーレットは、あえて人気の少ない路地へと足を向けた。
唇には、獰猛な笑みが浮かんでいた。
銀行での「娘」の顔は終わりだ。ここからは、「武人」の時間である。
「さあ、稽古をつけてやる。かかってきなさい」
紅の龍が、灰燼の舞踏へと足を踏み入れた。




