Scene 9:灰燼(かいじん)の先に
光が収束し、静寂が訪れる。
瓦礫と化した空中庭園の中央で、ゲオルグ・ヴァン・バルカスはゆっくりと身体を起こした。
その瞳からは、先程までのドス黒い狂気は消え失せ、本来の理知的な光が戻っていた。
「閣下……!」
執事シリルと、生き残った「影」たちが駆け寄る。
彼らは即座に武器を構え、主を害した敵――スカーレットへと殺気を向けた。
「おのれ、賊め……! よくも閣下を!」
「掛かれ! 殺せ!」
だが。
「――引きなさい」
静かな、しかし絶対的な威厳を含んだ声が、その場を制した。
バルカスが、揺らぐ足取りで立ち上がりながら、片手で部下たちを制止していた。
「か、閣下?」
「彼女への攻撃は中止します。剣を収めなさい」
「し、しかし!」
「聞こえなかったか? これは命令だ」
氷のような冷徹さの中に、確かな熱を含んだ声。
シリルたちは戸惑いながらも、主の意志を感じ取り、不承不承ながら武器を下ろした。
スカーレットは剣の切っ先を下げ、バルカスの全身を観察する。
あの禍々しい「悪意」の残滓は、完全に消去されている。
「……小僧、気分はどうだ?」
スカーレットの口から、老いた武人の言葉が漏れる。
バルカスは乱れた眼鏡を指先で直し、苦笑交じりに答えた。
「……老師のおかげです。最悪の目覚めですがね」
彼は自分の掌を見つめた。
「どうやら私は、心の隙――『世界の理不尽への絶望』を突かれ、『悪意の真実』に乗っ取られていたようです。……ですが、記憶はあります」
バルカスの表情が、悔恨に歪む。
「あれに操られていた間のこと、私の身体が行った殺戮、そして貴方との戦い……全て鮮明に覚えています」
彼はスカーレットの前に歩み寄ると、その場に膝をつき、深く頭を垂れた。
一国の領主が、一人の少女に対して行う、最大級の謝罪と服従の姿勢。
「スカーレット・フォン・ヴァーミリオン嬢。
私の身体は、貴方の父、ガルド殿を殺め、貴方の領地を焼いた。たとえ意識がなかったとはいえ、それは私の弱さが招いた結果だ」
バルカスは懐から短剣を取り出し、自身の首元へと差し出した。
「この命で償わせてください。……貴方には、その権利がある」
重苦しい沈黙。
シリルたちが息を呑む。
スカーレットは無表情で、跪く男を見下ろしていた。
父の顔が浮かぶ。燃える屋敷。奪われた日常。
目の前の男の首を刎ねれば、復讐は終わる。
だが。
カチャン、と音がした。
スカーレットは自身の剣を、鞘へと納めたのだ。
「……権利はある。だが、行使はしない」
「な……ぜ、ですか」
「勘違いするな。父を殺されたこと、領民を焼かれたこと……私は一生、貴様を許すことはない」
スカーレットの声は冷たかった。だが、そこには感情的な憎悪ではなく、冷徹な理性が宿っていた。
「だが、あれを行ったのは『悪意の真実』だ。貴様もまた、システムのエラーに巻き込まれた被害者に過ぎない」
彼女は踵を返し、出口へと歩き出す。
「それに、殺してどうする?
貴様が死ねば、この完璧に管理された領地は崩壊し、多くの民が路頭に迷う。
生きて、働き続けろ。死ぬまで領民のために、その優秀な頭脳(CPU)を回し続けろ。それが貴様の償いだ」
「……っ」
バルカスは言葉を失い、震える肩でその背中を見送った。
それは、死ぬよりも辛く、そして尊い「生の命令」だった。
スカーレットは立ち止まり、背中越しに告げる。
「私は行くぞ。
今回の一件で分かった。『悪意の真実』は滅んでいない。霧散して、また別の器を探しているだけだ」
彼女は空を見上げた。
その瞳には、新たな、そして果てしない戦いの炎が宿っていた。
「私の敵はバルカス公爵ではない。この世界を蝕む『悪意』そのものだ。
……あれを完全にデリートするまで、紅の龍は止まらない」
風が吹く。
スカーレットの紅い髪が、燃え立つように舞い上がった。
「さらばだ、眞垣源信の孫よ。……紅茶、悪くなかったぞ」
そう言い残し、彼女は崩壊した城を後にした。
バルカスはしばらくその場に跪いたまま、やがて眼鏡を外し、涙を拭った。
「……御武運を、老師」
瓦礫の中から、新たな太陽が昇ろうとしていた。
復讐者は去り、救済者の旅が始まる。
紅の龍は、灰燼の空へ――高く、高く舞い上がっていった。
――『紅の龍は、灰燼に舞う』 第1部 完――




